五幕 幽閉の自由の魔女と図書
第33話 うるう緑の園
守り人の二人は翼をしまって眠っている。
じっと見ていると、翼はそれ自体が深く眠っているように見えた。深い呼吸と共に、閉じた羽の根は微かに膨らみ、萎み、繰り返している。
獣の王の鬣が眠るように、本人の意思から離れて、翼はそれ自体が夢を見ているのかもしれない。
「よし、動いた」
声に振り返ると、マツダが電子基板から顔を上げた所だった。自分の手柄を、自分の中だけで抱え込んで、ほっとしたような顔をしている。
魔法使いの塔と、地上の屋上を繋ぐ一本の線は、ある時は風に流れるリボンのように鮮やかで、ある時には虫の吐き出した糸のように妖しい姿をしている。
魔法使いが地上に降りるときには、凜然とした一本の柱に変わる。大木の幹のようなそれは内部が昇降機になっている。この伸縮の魔法を使えるのはフィールスと長老と、その他数名の魔法使いだけだ。
皺一つない制服を着て眠っている翼の持ち主は、この昇降機の守り人で、あの日みたのと同じ制服を着ている。
航空隊だ。
「すごいね」
ノラは機械の構造を把握するのも面倒なので、魔法で飛び降りようと思っていたのだが、マツダが、わざわざ疲れるようなことをするべきではないと止めたのだった。
「まぁ、いつも後ろで見てるからな」
「うん」
とノラが言うと、ごうんごうんという機械の音が始まった。それは流れているような、引きずられているような、重たい音をしている。自然の中にはない音だ。
時間の過ぎる音だ。
「最下層より一つ上で降りましょう」
と、マツダは機械をいじった。
「うん」
ノラがどこへ何をしに行くのか、マツダは聞かなかった。聞かなかったけれど、一人でいくことは認めてくれなかった。
だからノラは、この鍵の差す方向へ行きたいのだ、と説明をするしかなかった。マツダはただ「分かりました」と答えただけだ。
ノラがキィコに会いに地上に行く時のように、小言めいたことは言わなかった。その違いは、一体どこにあるのだろう。何が違うのかノラには分からない。
地上に降りると、まず硬い石が足に触れた。
谷や、谷の縁の辺りとはちがって、ノラの知っている地上には土がない。どの道にも小さな硬い石を固められて、平らになっている。
町中に灰色の細長いビルが建ち、遠くから見た景色はどこも同じだ。それでも、建物の中を覗き込めば、あらゆる色彩が揃っている。何でも手に入る。
眠っている状態でさえ、硝子の向こうに並んでいる宝石は、世界の中で自らが一番高貴なのだと誇って憚らない。
けれどここには、谷にある薄汚れた色彩はない。輝きとはほど遠い、あの鮮やかさがない。
鍵穴は地上に降りてから、一定の方向を指し続けていた。しかし、建物は均一に立ち並び、それが見晴しも悪くさせていて、なかなか目的の場所まで辿り着かなかった。
何度も同じ道を歩いて、やっとそれらしい建物に辿り着いたときには、陽はすっかり昇り切り、人々はそれぞれの生活を始めていた。
「図書館か」
と、マツダは門の看板を見て呟いた。
背の低い黒い柵に囲まれたその一角だけ、内側に緑が生えている。ただそれも、谷やその周りの緑とは違い、人の手が加わった美しい生え方をしている。
高い木々は柵の内側に整列して立ち並び、短く刈り揃えられた芝や、小さな池の中で魚と共生している水草や、煉瓦に張り付いた苔の一つ一つまで、全ての植物が人の意思によって整備されている。
この町の緑は去勢されているのだ。
しかし、去勢された植物たちは、とても美しい。自らの美しさがどういうものなのか、ちゃんと理解している。谷の植物たちは去勢されていないので、少しでも隙があれば、どのような生き物も飲み込んでやろうという凶悪さがあった。
敷地の真ん中に、大きな平たい建物が見える。煉瓦造りのその建物は、見えるもの全てが四角い。横に長い四角の建物に、縦に細長い四角い窓が幾つも付いている。
二人は建物の中で鍵穴の指す場所を探したが、見つからなかった。どの場所に行ってみても、鍵は斜め下を指し示すのだ。けれど、何度案内板を見ても階段らしきものはなかった。
職員に聞いてみてが、この建物に地下は存在しないという。
「この辺りではあるみたいですね」
と、マツダは床を眺めた。
ちょうど今ノラの立っている辺りで鍵は真下を向く。入り口から少し離れた場所にある、古典力学の棚の前だ。辺りを見回してみても、他の場所と変わった部分は少しもない。
ノラがじっと止まっていると、マツダがこんこんと足の爪先で床を叩いた。
「壊せなくはなさそうですけど」
「こわす?」
ノラはその言葉に少なからず驚いた。
地上では目立った行動を控えること、というのがマツダの口癖だった。ノラはもう何遍聞いたか分からない。しかし、何の罪もない図書館の床を壊すということは、目立った行動以外の何でもない。
マツダはしゃがみこんで、床の肌触りを確かめている。
「だって、どうしてもそこに行かなきゃならんのでしょう?」
冗談で言っているわけではないのだ。けれどノラには、マツダが理由も聞かずにそこまでしようとすることが理解できなかった。
「ん?」
とマツダはノラを見上げた。
「どうした」
いつも隣にいて見慣れているはずの顔なのに、本当にこんな顔をしていただろうか、と途端に不安めいた思いに駆られた。
焦って、勝手に口が開く。
「たまねぎの夢を見たの?」
「は? たまねぎ?」
「言ってたの。さっき――寝てるときに」
「俺が? たまねぎって?」
どうしてこんな関係のない話をし始めたのか、自分でもよく分からない。それでも、喋らずにはいられなかった。
「ぼくのことが、たまねぎに見えたのかな?」
「まさか。見えないでしょう」
と、マツダは呆れと否定を綺麗にまぜた声音で行った。
「俺たまねぎ好きじゃないですし。夢とかも見ないし。聞き間違いだよお前の」
と言って、いつまでも世話が焼ける子供を見る目をして、笑った。
それはノラの一番よく知っている顔だった。深い慈しみの表情。けれどマツダは、キィコに対峙した時には、ノラが見たことのないような顔をしていた。
少し攻撃的で、それでも、元来の優しさがにじみ出ているような。きっとあれは、マツダが他人に対して向ける顔なのだ。
「――ぼくはマツダのことを何も知らないね」
「え?」
そればかりではない。何も知らないのだ。何も考えてこなかったから。
「一度外に出てみよう。もしかしたら別の場所に階段があるのかもしれない」
そう言って、ノラはその場所を後にした。
並んでいる本が次々の目に入って、彼らはどうしてこんな形をしているのだろうと思う。相変わらず冴え渡っているノラの頭は、目に映るもの全てに疑問を抱き、絶えずそのことについて考えたがっていた。
マツダは、やはりただ黙って後ろに付いてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます