第34話 四角い箱は気象箱
外に出ると、去勢された草花の匂いが香った。ノラは谷の町に行ってから、自分がある特定の匂いをかぎ分けるのが非常に得意になっていることに気が付いた。
それは生き物の匂いだ。
「やっぱりないですね」
建物の周りをぐるりと一周回ってみたが、階段らしきものは見当たらなかった。しかし、鍵はちゃんと一定の方向を指している。場所ははっきりとしているのだ。あとはそこへ行くだけなのに。
けれど、床を壊すというのはノラにはあまり良い方法とは思えなかった。壊すのは簡単だろうが、上手く直す自信がない。
塔の中であれば幾らでも失敗できるが、ここは地上だ。人に見られないように何重か目眩ましの魔法を使うとなると、時間も労力も相当掛かる。
行き詰まりを感じながら、二人は目的もなく入り口の真裏にある池の方へ寄った。ノラが影を作ったので、小さな魚が驚いて水草の間をさっと泳いで逃げて行った。
魚まで、地上ではきらきらと美しく煌めいている。
一瞬で遠くまで泳いで行った魚を追っていく途中で、ノラはふと水面に映った物に違和感を持った。
「マツダ」
「うん? どうしました?」
「あれ、何に見える?」
それは、池の横に建っている四角い箱の影だった。
「なにって――気象箱だろ?」
とマツダは答えた。確かに、ノラにも四角い箱の中に温度や湿度を測る機械が入っているように見える。けれど、どうも怪しい。
「多分、あそこだ」
近づけば近づくほど、それは自分が気象箱だということを主張してくる。これは恐らく、受け手に幻覚を見せる魔法ではなく、物自体に自分を別のものと錯覚させる魔法だ。
魔法。
この下には、魔法使いがいるのだろうか。地上で働いている魔法使いの中に、図書館で働いている者がいた記憶はない。
マツダがそっとドアを開けると、やはり中には湿度計も温度計もなく、変わりに地下に向かう暗い階段があった。鍵は確かにその先を指している。
ひゅうひゅうと風の流れている音がした。
「なんか暗ぇな、大丈夫? お前暗いの苦手だろ」
地上から薄く光が入っているとはいえ、階段の先は光が届いておらず真っ暗だった。けれど、ノラは不思議とそんなことは気にならなかった。
「平気。大丈夫」
この先にあるものを、自分は知らなくてはいけない。それは義務というより単なる欲求に近い。この先を行けば、疑問の答えがある。
ノラは少し弾むような心で階段を下りて言った。
* * * *
永遠とも思えるくらい長い間、長い階段を下った。
下りきった先にあったのは、木で作られた、どこにもであるような家の扉だった。少し呼吸を整えてから、ノラはその扉を叩いた。
かなり時間が経ってから、中から人が出てくる。
「あれあれ、随分若いお客さんだね」
それは老婆だった。老婆としか表しようのない姿形をしている。
顔の上にある皺や、杖の上に置かれた両手や、頭にかぶっている古い柄の頭巾や――兎も角、目に入る何もかもが、彼女が老婆であるということを主張している。
「あ、あの」
ノラが自分の手の中にある鍵を差し出すと、老婆の目線がゆっくりとそこへ向く。濁った瞳の中に鍵が映ったのが見えて、ノラは続けた。
「この、中身を確認しに来たのですが」
すると、少しの間があって、老婆は皺の寄った顔の上にまた別の皺を作って笑った。
「はいはい。そうですか」
そう言ってノラの手から鍵を拾い上げると、くるりと振り向いて部屋の中へ入って行ってしまった。
きっと着いてこいということなのだろうと、ノラもその中へ入った。
扉の向こうには質素な部屋があるだけだった。乾いて茶色くなった草花や、埃の溜まった本や、細かい傷の付いた硬そうな棚。全てが古いという点以外、別段変わった所のない部屋だ。
「はいはい、こちらですよ」
そう言って老婆は部屋の端で少し屈んだ。
壁に扉が着いている。しかしそれは腰の曲がった老婆の半分ほどしか背丈がなく、とても小さかった。人間の使う扉でないことは確かだ。
老婆が扉を開くと、そこには壁に板を取り付けただけの棚が五列並んでいる。棚の上にはさまざまな形の硝子細工がいくつも並んでいて、それは四角や楕円や、中にはぐにゃぐにゃと歪んだ、形容しがたい形をしているものもあった。
「一番下の段の一番左でございますよ」
老婆が示した場所には、四角錐の硝子細工があった。目を凝らして覗いて見ると、中に水に囲まれた島のようなものが映っている。
ノラはふと、ナカザトに貰った箱庭のことを思い出した。あの大木の生えた箱庭と、この四角錐はとてもよく似ている。ただ、似ているというだけで同じではない。
ナカザトの箱庭の中身は生きていた。しかしこれは違う。生きているのでも死んでいるのでもない。まがい物であり、本物でもあり、つまり――この中身は魔法によって隠されているのだ。
この四角錐の中は、今ノラたちが生きている時間とは、別の時間が流れているようだった。
「鍵穴はその中にありますよ」
「は?」
と声を上げたのはマツダだった。
「その中に入ってくださいな」
淡々と、老婆が告げる。
「どうやって入んだ?」
「魔法を使えばよろしいのですよ」
年老いた者の笑いというのは、ノラは塔の上の魔法使いがするものしか知らない。そして、彼らはいつもごく自然に笑っている。常に何かに満足して、だから笑っている。
けれど、この老婆の笑いは、それとは違うように思えた。何か、含みがあるような感じがする。
「あなたは――あなたも魔法使いなのですか?」
ノラの言葉にも、やはり老婆はにこにことしている。
「そうですねえ。中に入ったら、すっかりお分かりいただけますよ」
しかし、考えるまでもなく、彼女は人間ではない。
先ほど降りてきた階段は、魔法使いにしか見えないものだ。並の魔法使いでは作り出せない結界が張ってあった。ノラでさえ、分解できないような難しい結界だ。
ノラは、マツダの手首を握った。
「え? おい、なに、入るのか?」
「入る」
入口がどこにあるのかは分からない。けれど、どうやって入ればよいのかは分かる。自分の中に流れる時間を、この硝子の中の流れに合わせれば良いのだ。
耳を澄ませると、硝子の中からは、水の音がした。ずいぶん遠く、あり得べからざるほどに遅い流れの音だ。
その音と、自分の血の流れを合わせる。
しばらく耳を澄ませていると、血の音と水の音が混ざり合ってきて、体が硝子の中へ溶けていく感覚がしはじめた。ノラが握った手から、マツダの体も液体になっていく。
「はぁ? 本気ですかよ!」
と、やっとそのことに気が付いたマツダが声を上げたが、その声は外の世界に零れ落ちたようだった。
二人はすでに、中の世界へ入っていた。
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