第35話 犬とロボット

 ずずずず、と何かを引き摺るような音が胸の奥から響いた。

 生き物の血の匂いがする。それから、谷の町でよく聞いた音。あれは犬の声だ――。

「いぬ?」

 犬が鳴いている。それからじゃばじゃばと激しい水の音がした。

 目を開けると、視線の先でふわふわと毛が揺れているのが見えた。大きな犬が、何かを咥えながらこちらへ寄って来ている。

「いて、わわ、ありが、ありがとうございます、もう大丈夫なんで、ちょ、痛いですって」

 犬が咥えているのはマツダの左足のズボンらしかった。体を起き上がらせると、大きな水たまりの中に落ちたらしいマツダが、ずぶ濡れになって、犬の助けを借りながら、ふらふらとこちらへ寄ってきていた。

「お嬢、大丈夫ですか?」

「ぼくは、平気だけど」

 寄って来たマツダからは、やはり生き物の匂いがした。少し生臭い。マツダを助けた黄金色の長い毛をした犬は、毅然たる態度でマツダの横に座った。

「無事なら良いけど。本当か?」

 そう言ってマツダはノラの体に付いた砂を払った。しかし、マツダの方こそ、腕に血が滲んでいる。

「ごめん。ぼくが手を放しちゃったのかな」

 ノラはマツダの腕に手を伸ばしたが、なぜか魔法が使えなかった。ここにも強い結界が張ってあるらしい。マツダは随分困ったような顔をした。

「いや、俺が暴れたから、お前のせいじゃない。え?」

 とマツダは急に犬の方を向いた。犬はどこか遠くの方を見ている。

 視線の先には、四角い鉄――あるいは銅かもしれない――が積み上がったような塊が見えた。ノラの二倍くらいの大きさがあるその塊の上の方に、丸い電球が二つ付いている。

 まるで生き物の目のようだ。

「え、なんですか?」

 とマツダは犬の方へ少し耳を傾けた。

「ロボット?」

 マツダがそう言った瞬間、がしゃん、と遠くから金属の擦れる音がした。

 それはノラの見ている鉄の塊がたてた音だった。塊から細長い腕と足のようなものが生えて、立ち上がったのだ。そして、がしょんがしょん、と大きな音を立てながら、もの凄い速さで二人のいる方へ走ってきている。

「はっ? なに? こわいこわいこわい!」

 マツダが大声を上げながら、ノラを自分の後ろに隠すようにした。

 ノラの視界はマツダの背中で遮られ、マツダの怖がる声と、遠くからものすごい速さで近付いてくる、がしょんがしょん、という音だけしか聞こえなくなった。

「あ! なに! こわい! すごく怖い!」

 マツダの腕の間から向こうを覗くと、塊はもうすぐそこまで来ている。人型というには四角張りすぎているが、造り自体は頭と胴体と手足のある二足歩行型で、人と同じだ。

 ただ、関節の作りが違うのか、腕がぐるぐると風車のように回っている。

「うわああ!」

 とマツダが一際大きな声をあげた所で、塊はやっと止まった。少しのけ反ったマツダの体と、塊の胴体は衝突寸前だ。

 塊の頭の部分が、がくりと下に曲がって、大きな丸い眼球がマツダの顔のすぐ上で光った。

「お呼びデスカ!」

 と、それは声のような物を発した。聞いたことのない声だ。彼の胸元からは、昇降機が動くときと同じような音がしている。

「いや、呼んでねえけど! ええっ?」

 マツダは素っ頓狂な声で答えたかと思うと、また足元の犬に顔を向けた。

「え? ロボット? あ、こいつの名前がロボットっていうの?」

 するとまた機械の声を上げ、塊はより一層マツダの顔に自分の顔を近づけた。

「お呼びデスネ!」

「なに! すごい、ぐいぐいくるけど、これどうしたらいいの、なぁ、お嬢!」

「ねえ。マツダ、もしかして犬と喋ってる?」

「えっ?」

 マツダは体を目一杯に反らしながら、ノラのことを見て、それから傍らの犬を見た。犬はやはり悧巧そうな顔をして、大人しく座っている。

「そういや、喋ってるな。え、喋ってない?」

「ぼくには聞こえない」

「そうなの? ああ、でも確かに。なんか頭の中がすっきりしてるかも」

 マツダはロボットから少し離れて、頭から垂れてくる水が鬱陶しかったのか頭を振った。

「あー。多分、体質の調子があれなんだろうな」

 と、あやふやな説明をした。

 マツダの動物に好かれる体質というのは、受け身のものばかりではなく、調子が良いと――マツダはそれを調子が悪いと言うが――動物の言っていることが分かるようになるらしい。

「そっか」

 逆にノラの頭には靄が掛かっている。いつもそこにあって、今もそこにあるはずの物が見えない。魔法を使うための形が分からないのだ。

 ノラにとっては非常に心細い感覚だった。今何かが起きても、誰も助けることが出来ないだろう。

「二人はここに住んでいるの?」

 ノラが聞くと、マツダは犬の方を見た。すると犬の顔の向きが変わった。その先には、小さな家が見える。

「あの中に行けって」

 マツダが答える。犬が言ったのだろう。

 その家から洩れる光は、緩い橙色をしていて、見ていると心が緩むようだった。恐らく、外にいた老婆はあそこにいるのだろう。なんとなくだけれど、そういう気配がする。

「行こう」

 そう言ってノラが歩き出すと、後ろからマツダが付いてきて、その足元に犬が付いてきた。そして、少し遅れてがしょんがしょん、という間の抜けた堅い音が続く。

 マツダが小走りですぐ横までやってきた。

「なぁ、ロボット着いてくるんだけど」

 その声にノラが振り返ると、ちょうどロボットが、マツダの頭上からマツダの顔を覗き込んだ所だった。

「お呼びデスカ!」

「うお!」

 と、マツダが大きく体を震わせる。

「なん、呼んでねえよ。急に喋るなよ怖いから」

「そんなに怖いかな」

 ノラが言うと、マツダは覗き込んでくるロボットの顔を、粗雑に上へ持ち上げながら答えた。

「お前怖くねえの? だってでかいし――つうかうるさいし。それにこいつの目、合ってんだか合ってないんだか分かんない」

「ダイジョウブ! 着脱可能デス!」

 と、大きな声を出したかと思うと、ロボットは自分の右目を取り外して、マツダの顔の前へ差し出した。

「わ! 意味分かんねえ! なんで外すんだよ、戻せ!」

「ハイ。戻しマス――アレ、戻らナイ」

「おい! 着脱つったじゃねえか。着脱しろ! 着脱!」

「着出来ナイ」

「ふざけんな、脱出来たんだから着出来るだろうよ。ちょっと貸せ」

 気持ち悪いだなんだと文句を言いながら、マツダは歩きつつロボットの片目を元の場所に着けてやろうとしている。そういえばマツダが妙な敬語を使わずに誰かと話している所を、ノラは久しぶりに見たような気がした。

 それはとても嬉しいような、淋しいような気持ちだった。

 騒がしいマツダとロボットを引き連れて家の前まで行くと、さっと犬が前を走って行って、前足を使って器用にドアを開けてくれた。犬はドアを開けると、自分はドアの横に立って、従者のようにノラが入るのを待った。

「ありがとう」

 ノラが言うと、続けてマツダがすみません、と謝った。なぜロボットには雑な話し方をするのに、犬には敬語なのか分からない。

 家の中に入ると、すぐに女性の後ろ姿が見える。じゅうじゅうと、何かが燃えるような音がして、香ばしい匂いが香った。

「お邪魔します」

 ノラが声を掛けると、女性は振り返った。

 光沢のある臙脂色のローブを着たその姿を見て、なぜかノラは自分の母親のことを思い出した。少し似ているのだ。どこがというのではない、美しさが似ている。

「あら。遅いと思ったら、海で遊んできたの?」

「うみ?」

「ええ、ここは海に浮かんでいるのよ」

 そうか、あれは海だったのか、とノラは今更納得した。

 言われてみれば、文献で読んだ情報と、さきほどの水たまりは一致する所が多い。生き物の血の匂いがするのは、あれは魚だとか、それよりもっと小さい目に見えないような動物たちの死んだ匂いなのだ。

 勿論、本物の海ではないだろう。本物の海は、地上の果てにあると聞いている。

「海に入るとべたべたして気持ちが悪いのよね」

 と女性はマツダを見て続けた。マツダはまだ玄関に半分入ったところでぼうっと立ち止まっている。

「ロボット、乾かしてあげれば?」

「ソウだな!」

 女性の言葉に、マツダの後ろに居たロボットが前へ出てきて、マツダの前で床に這いつくばり、怯えるマツダの両足を掴んだ。

「えっ、えっ、なに」

 すると、ロボットは顔だけを上げ、大きく鉄の口を開いた。そして、けたたましい音を口から出した。

「ふおぉおおぉおおん!」

 声なのかなんなのか、意味の分からない音だ。

 音と共に、ロボットの口と両肩から、強風が吹いているらしい。ロボットの間抜けな声と、風の吹く音と、マツダの喚く音が混ざって、家の中に嵐が訪れたようだった。

 女性は、それを見てくすくすと少女のように笑っていた。

 ノラがぼうっとその顔を眺めていると、彼女はああ、と呟いてノラに向かって微笑んだ。

「そういえば、まだ名前を言っていなかったわね。私の名前はマリィよ」

「マリィ。ぼくはノラと言います。彼は従者のマツダです」

「ノラにマツダね。覚えたわ。すぐに乾くから、まずはご飯を食べましょう」

「ご飯?」

 ノラがそう漏らすと、マリィはまたふっと笑った。

「大丈夫。ここの時間は外とは別物だから、何日過ごしたって、向こうでは少しも変わらない。ご飯を食べるくらいの時間は、数秒にもならないわ。ね、良いでしょう?」

 その言葉に安心した訳ではないが、ノラは大人しくマリィに従った。

 時間が過ぎないといっても、ノラの心に流れる時間は変わらない。だから、出来るならば早く話を進めたかったが、彼女の言葉には有無を言わせないような力があった。

 それに、水分をすっかり飛ばされたマツダが、酷くぐったりしていたので、何か栄養を取らせてあげたかった。

「わかりました。頂きます」

 ノラが答えると、マリィは満足そうに笑った。

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