第36話 時を食うときどき空疎

 マリィの作った温かいご飯はとても美味しかった。

 ノラは随分久しぶりに誰かと話をしながら、食事をしたような気がした。本当はそうでもないのだけれど。

 しかし、食卓についたのは人ばかりではない。ロボットも一緒に食事をとった。それも、ノラたちと全く同じものを食べるのだ。

 聞けば、ロボットは食事をする機械なのだそうで、彼の仕事は人と共に食事をすることなのだという。人と同じように食べ、人と同じように体内でそれを原動力に変えるのだという。

 マツダが眉を潜めた。

「食事をする機械って、それは何の為にあるんですか?」

「食事をスるためダ!」

「お前には聞いてねえよ」

 マリィはふふふと笑った

「すっかり仲良しね」

 そう言ってロボットの口の端に付いたソースを拭ってやりながら答えた。

「けれど、彼は本当に食事をするためだけに作られたのよ。お喋りも出来るし、両肩から風と炎も出せるけど、それはちょっとしたお遊びね。彼の本分ではないわ」

「本分よりかは遊びの方が役に立ちそうですね」

 とマツダはロボット見て鼻で笑った。けれど、マリィは笑わなかった。深い慈しみの目を向けて、食事をするロボットを眺めている。

「そんなことないわ。ロボットは食事をしていなければ」

 ノラにはその気持ちが分かるような気がした。

 誰かと一緒に食事を取ることの喜びを、ノラは少し前に知ったばかりだ。キィコの職場の屋上で食べたものは、どれもそれほど美味しいという訳でなかったが、ノラは何度も何度もそのことを思い出した。

 食事をするということは、時間を食べるということに等しい。そして、一緒に時間を食べてくれる人がいることは、とても喜ばしいことだ。

 食事を終えると、マリィはデザートとお茶を人数分用意してくれた。マツダは先ほどから犬と会話が弾んでいるのか、テーブルの外に顔を向けている。

 自分の席に戻ったマリィは、カップに口を付けるとノラの顔をまじまじと眺めて言った。

「ねえあなた、ジャンの娘さん?」

 まるで予想もしていなかった言葉に、ノラは一瞬混乱した。しかし、どうにかすぐに気を取り直した。まだ余り隙を見せてはいけないような気がした。

「いえ、ジャンに子供はいません。作られなかったはずです」

「そうだったかしら。ごめんなさいね、外の事情には疎くて」

「ジャンは――失踪してしまったのです。それで、その鍵が変わりだと」

 ノラは、いつのまにかマリィの首元にぶら下がっている鍵に目をやった。マリィはとくに驚いた様子もなく、鍵を指先でそっと触りながら答えた。

「そう。コランも相当だけれど、ジャンも変わった子だったわ。ねえ?」

 そうロボットに話を振る。

「変ナ奴だったナー」

 と、ロボットはお茶に息を吹きかけながら言った。

「父もここに来たことがあるのですか?」

 ノラが驚きを隠せずに言うと、マリィもまた少し驚いたような顔をした。

「父?」

「コランはぼくの父です」

「あらそうなの? じゃああなた、フィールスの妹さん?」

「はい」

「あら、そうなの。それは知らなかったわ」

 と、そこで会話は途切れた。

 マリィの受け答えからは、ある一定の無関心さが感じられる。聞かれたことには答えるが、それ以上のことは答えない。

 ジャンについても、コランやフィールスについても、ノラには知りたいことが沢山あった。けれど、彼女から、知りたいことの本当の答えを得る為には、きっと正しい質問をいくつも繰り返さなくてはいけないだろう。

 そう感じさせる、というより、そう相手に感じさせることを目的としたような会話の仕方をマリィはしている。

 けれどノラには時間がない。

 いくら外の世界で時間が経っていなくても、ノラの中の時間はノラの中にしかない。その時間の中で、出来るだけ早く答えを出さなくてはいけないのだ。

 時間を掛ければ掛けるほど、重要なものから遠ざかって行くような気がした。早く答えを出さなければ。

「マリィさんは、黒き翼のことをご存知ですか」

 そう言うと、マリィはノラの顔を確認するようにじっと見た。その目は、どノラの心の奥深くを見ているようだった。しかし、マリィの心がどこにあるのかノラには分からない。

「そうね。知っているような気がするわ。外で魔法使いたちが騒いでいるということは」

「そうです。それで彼女は――黒き翼はぼくの友達なのですが」

 その言葉に、マツダがそっと犬の方から顔を上げた。

「そう。お友達ね」

「ぼくは、導師たちに黒き翼の討伐の許可を頂きました。それは、黒き翼を倒すことが、ぼくの生まれた意味だと思い込んでいたからです」

「思い込んでいた」

「ええ」

「つまり、今はそう思ってはいないということなのかしら?」

「それは――まだ分かりません。何も分からないのです。なぜあの人を倒さなくてはいけないのか。その思いがどこから来るのか。何か、見えるべきはずのものが、見えていないような気がして」

「見えるべきはずのもの、ね」

 そう呟くマリィの横で、ロボットがカップからお茶を啜った。それは随分妙な景色ではあったけれど、彼の存在意義を考えれば、非常に正しく真っ当な行為だ。

「それであなたは、この中に答えを探しに来たのね?」

 マリィは鍵を揺らして見せた。ノラは頷いた。

「そうです。けれど、ぼくはそれが何の鍵であるのか知りません。一体何の鍵なのですか?」

 するとマリィは、またノラの瞳の奥をじっと覗き込んだ。

 彼女の瞳に、ノラは一定の色を汲み取れないでいる。何色をしているのか、どんな形をしているのか、じっと見つめている時だけ、見つめられている時だけその色が分からなくなる。

 ぱっと視線が外れると、彼女の淡い茶色の瞳が離れて行くのが見えた。

「そうね」

 と言って、マリィは立ち上がった。

「あなたが何を求めているのかによって、その中身は変わるかもしれないわね。ノラ」

「え?」

 名前を呼ばれた瞬間、体が不自由になった。

 ノラの顔は、マリィを見上げたまま少しも動かない。全身が完全に固まっている。自由に動くのは頭の中の言葉だけだった。

 マリィは柔らかく笑っている。

「見えないものは、見られたくないのかもしれない。同じように、見えないものは、見られたいのかもしれない。見ないことで沢山の人が救われているとか、もちろん、その反対もあるでしょうね――それは分からないわ。見てしまうまでは」

 あたりでは、ずるずるとロボットがお茶を啜る音だけが響いていた。

「あなたはこの中を確認したいのね?」

 それは、ノラという存在の奥深くまで届くような質問だった。

 同時に、同じような質問を、かつて誰かにされたような気がしてならなかった。見えないもの。見えるべきもの。そういう話をどこかでしたのだ。

 見えるものを見ようとしない人間の話。

 その人間の変わりに見たくないものを見る覚悟はあるかと。かつて、ノラは誰かと話をした。


 ――助けてくれる? あの子のことを。私の希望を――


 誰の言葉だろう。分からない。

 自分が何を知っていて、何を忘れているのか。ノラには分からなかった。だからこそ、ここに来たのだ。

「見たいです。ぼくは、きっとその中を見る必要があります」

「そう。では行きましょうか。ノラ」

 また名前を呼ばれると、体に自由が戻ってきた。

 マリィが立ち上がって、どこかへ行こうとする。ノラは急いでその後についていこうとした。しかし、テーブルを横切った所で、わん、と空気を大きく震わせる声がして、足が止まる。

「あ」

 振り向くと、犬がノラの方を向いている。

 その横でマツダが、半分椅子から立ったような状態で固まっていた。その目は今までノラが座っていた場所へ向いている。マリィが、ああ、と声を出した。

「忘れていたわ。彼のことはどうする? 連れて行く? それとも、ここで待っていてもらいましょうか」

 ノラはマツダのその妙な姿勢から目を離せないでいた。

 手が微かに浮いていて、その手のひらはノラのいた方へ向いている。今まさに勢いよく動こうという感じだ。自分の身を呈して何かを守ろうという動き。

 ノラはいつも守られていて、そのことに無関心だから、こんな風に外からその動きを見て、妙な気持ちになった。

「連れて行くなら名前を呼んであげて」

 さきほどのノラと同じように、体は動かないけれど、マツダの思考は動いているのだろう。今、ノラとマリィがどんなやりとりをしているかは、聞こえているはずだ。

「いえ」

 と声が出た。元々一人でここまでくるつもりだったのだ。

 本当なら、塔の上でマツダが着いてくると言った時に、断るべきだった。今自分が知ろうとしていることなど、マツダは知らない方がきっと良い。

 ノラはマリィの目を見てはっきりと言った。

「彼は関係ないので」

 その言葉の途中で、マリィは目を少しだけ見開いた。

「あら」

 その視線の先で、マツダはさっきと同じ恰好をしている。しかし、その体は小刻みに震えているようだった。

「お、い」

 と低く掠れた声がその口から洩れた。

 その声が、ノラへの反抗を示していることは明らかだった。けれどここで引いてしまえば同じことだ。またマツダはノラを庇って傷つくかもしれない。

「ごめん――ぼく行ってくるから、マツダはここでちょっと待って」

 ノラがそこまで言ったところで、小さく空気が爆発した。犬が鳴いたのだ。しかし、それはさっきのように、何かを知らせる声とは全く違った。

 時折唸り声をあげながら、何度も何度も凶暴に吠え続け、ノラに向かって何かを訴えている。

「あ、あの」

 とノラが視線を向けても、犬は少しも鳴き止まない。

 マツダの体も、やはりまだ小刻みに震えていて、まるで彼らは共鳴しているようだった。いや、間違いない。マツダが彼に声を上げさせているのだ。彼の声に乗せて、ノラに何かを訴えようとしている。

「よべ」

 と小さく声が聞こえたような気がした。

 ノラの口がひとりでにぽかりと開く。

「ま、つだ」

 最後の音が発音された瞬間、犬の鳴き声は止み、同時にマツダの体が大きく傾いた。椅子を巻き込んでそのまま派手に転ぶ。

 けたたましい音が響いたあとで、またロボットが優雅にお茶を啜る音がする。

「マツダ、あの、大丈夫?」

 ノラが駈け寄ると、マツダはもの凄い勢いで顔を上げ、ノラを睨みつけた。

「痛ぇに決まってんだろ! お前、本当、ふざけんな。俺のことなんだと思ってんだよ」

「なにって」

 ノラが答えに窮していると、マツダは同じく駈け寄って来た犬に、ありがとうございますと丁寧にお礼を言ってから、よろよろと立ち上がった。

「連れてけよ! 馬鹿かお前は。なんで置いてこうとすんだよ」

「だって」

「だってじゃねえ。関係なくないだろ、なんだ、関係ないって」

「関係――あるの?」

「は? あるだろ。普通に! お前あの女のこと聞きに行くんだろ? 俺だって一応あいつの知り合いだし、よく分かんねえけど重要なことなんだろ? フィーも知ってることなんだろ? 俺だけ仲間外れにすんなよ! 淋しいだろうが!」

「さ、さみしい?」

 淋しいだなんて、そんな子供みたいなことをマツダが言うとは思わなかった。マツダは不機嫌そうな顔を隠すことなく続けてノラに言った。

「どうせ俺が聞いたってなんも分かんないんだから、連れてってくださいよ」

 それが照れ隠しなのか励ましなのか、それともただの所見を述べただけなのか、ノラには判断出来なかった。けれど、そこまで言うのならば、マツダの意を汲むしかない。

「わかった」

 そう答えると、後ろでマリィがふふふと笑った。

「それじゃあ、一緒に行きましょうか。二人とも、留守番は頼んだわよ」

 マリィの声に、ロボットは振り返って、両手を大きく上げ手を振って見せた。犬は穏やかに、その足元に臥せっている。

「健闘を祈ル!」

 ロボットの腕を振る音を聞きながら、ノラたちは部屋の奥へと進んだ。

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