第37話 言の葉のまにまに
空間が広がれば広がるほど、時間も一緒になって膨張するのかもしれない。
マリィに連れられて、ノラたちが辿りついたのは一つの大きな建物の前だった。と言っても、ノラが見ることが出来たのはその扉だけだ。
空の色をいくつも重ねたような濃い青の扉には、白い泥で幾何学的な模様がいくつも描かれていた。その模様には類型がなく、どこまでいっても同じ形がなかった。
それも、扉が大きすぎてノラの目では上の方まで確かめることは出来なかった。
大きいということは、それだけで一つの魔的な力があるように思う。
誰かがこれを本当に建てたのだとしても、或いは魔法で作りあげたのだとしても、どちらにせよ作ろうという意思そのものが魔法めいている。それは地上や谷の人間が使うような意味として、全く魔法めいていることだ。
マリィがやはり相当な力のある魔法使いであるということも明らかになった。
ノラはどうやってこの建物の前へ辿り着いたのか少しも思い出せない。どこかを歩いたような気もするし、突然ここに建物が出来たようにも思う。
実際にはマリィが魔法でここまで連れて来たのだろう。注意していないと気が付けないほど、マリィの魔法は隠れている。
建物の前まで来ると、マリィは何も言わずに首元から鍵を外し、宙に浮かばせた。自由になった鍵は音もなく自ら鍵穴の中に入っていく。
遥か頭上の鍵穴から、がちゃりと重い音がしたかと思うと、扉が大きな音を立てて開いた。
「げぇ」
今まで静かにしていたマツダが、背中を踏み潰されたような声を出した。
扉の中には当然中身がある。これだけ大きな扉なのだから、その中身がもっと大きいことは簡単に予想できたことだった。しかし、ノラもマツダと一緒になって声を上げてしまいたいような気持ちになった。
時間の膨張を感じるほどの大きな建物の中に、無数の本がいた。
あるのではない、いるのだ。
入り口からすぐの場所は、半円のホールになっていて、その壁一面が本棚になっている。彼らは茶色か、あるいは赤茶の背表紙をしていて、金色の飾り文字を柔らかく光らせながら、厳然として棚の中に納まっている。
しかし、ホールの奥にある次の間には、ふわふわと浮かんでいるものや、目に止まらない速さで飛んでいる物がいた。
「だめねぇ、本当にあの子たちはじっとしていないのだから」
そう言って、マリィはノラたちを魔法で次の間に移動させた。
本当に少しの違和感もないので、ノラはまた一瞬自分がここまで歩いて来た記憶を探してしまった。しかし、記憶を探る前に、目の前の景色で頭の中が一杯になった。
時間が膨脹しているように見えるほどの大きなドーム型の建物は、窓が一つもないのに、光に溢れていた。
その中で、ノラの十数倍はあるだろう背の高い本棚が、等間隔に並んでいる。しかし、寸分の狂いなく整列している本棚の美しさとは対照的に、肝心の棚の中身は不格好にぽつぽつと歯抜けになっているのだ。
本が足りないというのではない。ふよふよと空を泳いで散歩している本がいるかと思えば、床の上でぱらぱらとページを捲って昼寝をしている本がある。
マリィが手を叩いた。
「こら、お客さまよ!」
すると、ばたばた、と断続的に近くから、また遠くから本の閉じるような音がする。マリィの一声で外出していた本たちは、それぞれの持ち場へ戻ったように見えた。
しかし、一瞬間を置いて、頭上の高い所をいくつかの本が過ぎ去っていくのが見える。それらの本は、互いに追い駆けあって遊んでいるようだった。柱の上の方に止まって、蝶々の羽のようにページを閉じたり開いたりさせているものもある。
「楽譜と哲学書はなかなか言うことを聞かないのよね」
そう言うと、マリィは指先にぼうっと火をつけて、空の上まで届きそうな声で言った。
「こら! 戻らないと複製して燃やしちゃうわよ!」
すると、幾つかのものはびくりと表紙を動かし、もの凄い速さで飛び去っていった。しかし、何冊かは素知らぬ顔で、しばらく優雅に浮遊していた。
それもマリィの指先の炎が大きくなると、水に流れるようにすいすいとゆったりとした飛び方で奥へ消えて行った。
マリィは嘆息して、ぼんやりと空を眺めていたノラとマツダを振り返った。
「さて、ご覧の通り、ここには全ての本があるわ」
そう言って、二人を案内するように歩きだすので、ノラは急いでその後を着いて行った。
「全て、というのは」
ノラは周りを見渡しながら呟いた。
「その言葉のまま、この世界に存在する本の全てよ。どれくらい前のものか判別できないようなものも、今現在市場に出回っているものも、何もかも、全て、ここにあるわ」
全て、というのがどれくらいの規模なのか、ノラには想像が出来なかった。けれど、目の前の景色を見るだけでも、眩暈がしそうなほどに本で埋め尽くされている。
こつこつと、マリィの靴の音は弾んで聞こえた。
「本当になんでもあるのよ」
同じように弾んだ声でマリィは言った。
「たとえば白い象のでてくる絵本とか」
すると前の方から整列した何十冊もの本がてふてふと飛んで来て、ノラとマツダの周りを回りながら、ページを見せるように飛び回った。
どの本にも、白く、鼻が長く、耳の大きい動物が描かれている。
マリィは続けて言った。
「古のとある聖典とか」
すると、絵本たちは来た方向にまた整列して帰って行った。かと思うと、マツダが後ろで妙な声を上げる。
振り返ると、マツダの右肩には、見たこともないような太さの本が止まっていた。マツダが体を捻りながらその姿を確認しようとした。
「なん、これ、本?」
マリィが笑う。
「ええ、本よ。世界には色んな形の本があるの。大きいのも小さいのも、社会に影響を与えたものも、少しの影響も与えなかったものも――そう、たとえば谷の町のとある地域の、土壌についての個人研究誌とかね」
その言葉に期待して、目を凝らして歩いたけれど、何も現われなかった。こつこつと、マリィの靴の音だけが響く。
しばらくして、ふと何かが横切ったような気がして、ノラは真横を向いた。すると、遠くの方で本棚と本棚の間を飛んでいく物が一瞬見える。けれど、すぐにどこかへ消えてしまった。
するとマリィがぼそりと呟いた。
「方向音痴」
そして指笛を吹いた。広い空間の隅々まで届くような美しい高音が響くと、さきほどの本が今度は正面を横切った。明らかに急ぎ、明らかに迷っている様子だ。
もう一度マリィが指笛を吹くと、やっとこちらの存在に気付いたようで、その本は素っ飛んで来た。少しもスピードを落とさず、まっすぐ。
「わ、」
と、ノラは声を上げた。その本がノラの顔に突進する寸前でばっとページを開いたのだ。にわかに鼻先に古くさい紙の匂いが香る。
表面は完全に乾いているのに、奥の方が湿っている、そんな独特の匂いだ。小さい頃、フィールスとマツダと三人で忍びこんだ、老導師の部屋の匂いに似ている。
とりわけ、その部屋の隅にある、ビーカーの底の匂いと。
「こらこら」
マリィはその本をノラの顔の前から少し離した。
「君は本当に距離感が分からないのね」
そうしてやっとノラはその本の中を見ることが出来た。
端の方が所々千切れて、ページの端が茶色くくすんでいる。ノラには読める所と読めない所があった。しかし、その意味が分からない。
読めないというのは、駆けているとか、汚いとかいう物理的な問題ではないのだ。書いてある文字が、何を表すのか分からない。
「あの、これは、崩し文字ですか?」
ノラが言うと、マリィは意味ありげに微かに笑った。
「いいえ、それは今の――谷の北地区の辺りで使われていた古語よ」
古語、というのはノラには聞き慣れない。古い言葉という意味だろうけれど、ここまで読めないものだろうか。
マリィはノラの顔の前から本を取り上げると、優しく閉じて、その表紙を撫でた。触れられた途端、その本が眠ったように思えた。
「かつて、我々は使っている言語が違ったのよ」
と、マリィは言った。
「それは――谷と地上でということですか? それとも、種族で?」
「いいえ、もっとたくさん」
少し重たい声で言って、マリィはぱちんと指先を鳴らした。
すると、ばたばたと大きな音が、あるいは小さな音が、すぐ近くから、または遠くから一斉に聞こえてきた。
すぐに四方から本が飛んで来る。
それは今までと違って、誰かに強制されている動きをしている。そして、もの凄い速さでやって来た本たちは、自らのページを開いて、ノラとマツダをすっかり取り囲んでしまった。
いくつもの本のページがこちらを向いて、膜のように二人を包んでいく。その開いているページの中に、ノラが読み取れる文字は一つもなかった。それがどういうことなのか、やはりノラには分からない。
本の膜の外側から、マリィの声がする。
「私たちはかつて、使う言葉が違うだけの、たった一つの種族だったのよ」
古い匂いが鼻に付く。腕にページが触れる。顔の横にも、太もものあたりにも、ぴったりと紙が張り付いている。知らない文字が体に張り付いている。
「ノラ!」
という声と共に、本の間からぬるりとマツダの手が出てきた。
しかし、その手を掴むより前に、ノラはすっかり本に押しつぶされてしまった。
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