第50話 いつかぼくとは別れのときが
「はぁ? 一人で行かせられるわけないでしょ。俺も行きますよ」
マツダが吠えた。首を固定されているらしく、黒い翼の獣に向かって言っている。
「あんた行きたくねえなら、狙われてないんだから勝手に帰ればいいだろ」
すると、ナカザトは心底同情するという口調で呟いた。
「それなりに狙われてるだろうが。お前目取れてんのか?」
「付いてるよ! 付いてるだろ普通に」
マツダはそっと両目の瞼に手を持って行った。ナカザトは、余計に呆れた声を出した。
「うるせえなお前はさっきから。キャンキャン喚くんじゃねえよ。こいつの人生はこいつのもんだ。甘えるのも大概にしろよ」
その言葉に、マツダはぴたりと動きを止めてしまった。両のまぶたに持ってきた手もそのままで、マツダの体が石のように重くなったのが、見ているだけでよく分った。
けれど、ノラにはその理由が分らなかった。ナカザトが何のことを言っているのか分らない。マツダに甘えているのは自分の方だ。
ナカザトは少しだけ首を後ろに向けて、ノラを見た。
「状況を見るに、あの馬鹿はあんたには一番来て欲しくないらしい――だからあんたが行け」
その言葉に、ノラの体もまた重たくなった。
「いやです」
「いやでも行くんだよ」
ノラは強く首を振った。
あのキィコが自分のことを拒否しているという事実だけでも、恐ろしくて立っていられないくらいなのに。一人で行くなんて、考えるだけで、体の形が崩れそうだ。
「せめて、マツダも一緒に――」
どうにか声を絞りだして言ったけれど、マツダはやはりこちらに背を向けたまま、何も反応しなかった。
いつも、ノラのことになると一番に何かを言ったりしたりするのに、どうしてこんな時だけ何も言ってくれないのだろう。
「マツダ」
涙で潰れた二度目の声で、マツダはぴくりと体を動かした。けれど、やはり振り返りはしなかった。
「ノラ。俺のことは良いから行ってこいよ。フィーも、俺がなんとかするし。死んでも止める。お前の邪魔はさせないし、俺も、もう邪魔しない」
ノラにはその言葉の意味が分らなかったし、分りたくなかった。どうして急に、何もかもから見放されてなくてはならないのだろう。
自分が悪いのだろうか。嘘を吐いていたから?
「邪魔なんて思ってないし、思ったこともない!」
「そうか。うん――ありがと」
その声に、不安と一緒に懐かしさが込み上げてきた。
今のマツダは、子供のころフィールスと三人で遊んでいた時と同じ声音をしている。対等な友人だったころと同じ声で、マツダは言った。
「でもさ、ほら、よく考えたら、仲直りしにいくのに俺連れてったら、二対一で心証悪いだろ」
「なかなおり?」
ノラがぼんやり繰り返すと、マツダは少しだけ振り返って、呆れたようにそっと笑った。
「そうだよ。友達なら喧嘩くらいするし、喧嘩したら仲直りするもんだ。あの女も――きっとお前のこと、待っ」
と、その言葉を言い終わらない内に、マツダの体が大きく前に倒れて行った。同時に、ノラの視界も大きくずれる。
視界の端で、マツダが獣の体に突っ込んでいくのが見える。
「はぁ?」
という声はもう遠かった。
ナカザトが、ノラの手を引っ張りながら、走っている。
「時間稼いどけ!」
振り返らずにナカザトはマツダに言った。
「てめえ情緒どうなってんだ、うお!」
獸のじゃれるような、それでも低いうなり声が聞こえる。
「マツダ!」
「いいから」
振り返ろうとするノラに声を掛けて、ナカザトはまた強くノラの手を引っ張った。足が縺れて、ノラはほとんど宙を浮いているような状態だった。
「ナカザトさん。どこへ――」
「昇降機がある」
「え?」
顔を上げると、突き当たりの壁に、暗い色をした昇降機が見えた。
今までどの階にも存在しなかったが、ニーナも確かにあったと言っていた。もしかすると、今までノラたちが上って来たものは、それ自体がキィコの作りだした幻だったのかもしれない。
魔法使いの目にも解けない幻。
彼女は本当に、何者になってしまったのだろう。
「くそ、遅えな」
扉の向こうの箱は、深い所から上がって来るような、高い所から下りてくるような音を立てている。
音が続くほどに、ノラは逃げ出したくなった。
「どうして」
意味もなく声が出て、何がどうしてなのだろうと自分で思う。
どうしてこんなことになったのだろう、という大きな問題。どうして自分が一人でキィコの所にいかなければならないのか、というそれに比べれば小さな問題。
それから、どうして自分は魔法使いに生まれてしまったのだろうという、根本的な問題。
ナカザトが微かに振り返って小さく舌打ちを打った。
「役に立たねえな、あいつ」
見れば、獣が飛ぶように走りながら、こちらに向かってきている。
マツダはその背中にしがみ付いて、というよりも背中に乗せられているようだった。
獣の走る音と、昇降機の音は、まるで同じ速さでノラに近づいてきているように聞こえる。
ナカザトがビー玉の火玉を投げた。獣は軽くそれを避け、少し軌道を変えたが、スピードは落とさなかった。もう一度舌打ちをして、ナカザトは言った。
「仕方ねえから教えてやるよ」
りん、と鈴の鳴る音がして。ノラの体は昇降機の中に押し込まれた。獣はもうすぐそこまで迫っている。
ナカザトは少し屈んで、正面からノラの顔を真っ直ぐ見た。
「あんたは、あんたの夢のことだけ考えればいい。それ以外は捨てろ。それが――夢を見るのが魔法使いの本当の役目だ」
獣は牙見せ、爪を剥きだしにしている、黒い翼を大きく広げて、飛びかかってくる。
ナカザトは笑った。
「あと、あいつに会ったら減給だっつっとけ」
りん、と場違いに微かな音が耳に届いた。獸の牙と爪は、もはやナカザトの背中に届きそうだ。マツダが制御するように獸の首元に手を伸ばしたのが見える。
「ナカザトさん! マツダ!」
しかし、ノラの声は自分の耳にだけ返ってきた。
四角い箱は閉じ、ひたすらな上昇を始めている。見えない力に引っ張られるように。上へ。
彼女の元へ。
塔の天辺へ。
ノラは連れて行かれた。
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