第51話 君の夢

 ノラは花を持つ手を変えて、手の平にかいた汗をローブの裾に擦りつけた。

 花の茎はもうふやふやと柔らかくなって、それを括っているブレスレッドごと強く握り締めていないと全部が溶けて崩れてしまいそうだった。

 昇降機を降りてから、トンネルのような薄暗い廊下がずっと続いていた。それ自体にはなんの装飾もなく、何の色もない。

 もう随分歩いたので、振り向いた景色と、前を向いた景色が全く同じだった。けれど、全くの薄暗闇という訳ではないのだ。

 ちゃり、と手のひらの中でブレスレットが擦れた。

 すると、ぽっと左の壁から朱色の光る生き物が現れて、天井を泳いで右側の壁の下に消える。水の中にいるような動きだ。

 ノラは持っている花をかさかさと揺らした。今度は何本もの青白い細い光が、天井から左右の壁に降って来る。腕を出してみると、肌にもうっすらと薄い青緑の光が落ちていて、腕から床に飛び込んで消えた。

 音に反応して、廊下が光っているのだ。

 サーカスでみた景色と似ている。歓声や歌声に反応して、あのテントの天井は、空から水底に光が届くように、煌めいていた。

 水底に、光が。

「ららら」

 ノラが口から酷く拙い音を出しても、やはり光は美しく煌めき、狭く暗い廊下を色づけた。

 このままずっと、どこにも辿り着かなければ良いのだ。

 だって、ノラには夢なんてないのだから。本当に何もない。やりたいことも、したいことも、少しもない。キィコに会ってもどうしたら良いか少しも分からない。

 どうするべきなのか――。

 すると、ぽとんと微かな音がして、今度はノラの踏みしめている床で緑色の光が灯った。なんだろうと振り返ると、床に小さな蕾が落ちている。

 さっき振り回したから、だから落ちてしまったのだ。

 ノラはしゃがみ込んでその蕾に手を伸ばした。触れると、その蕾は、驚くほどきめの細かい、布のような肌触りをしている。

 それが、思ったより遙かに冷たくて、生き物らしさが少しもなくて、ノラは――すっかり立ち上がることが出来なくなってしまっていた。

 翼が生えるのだと、本当に思ったのだ。

 ノラの手を引いて、キィコが見せてくれた色を、景色を、ノラは一瞬でも忘れたことがない。リュシーが言ったように、一生懸命覚えているまでもなく、取り出す暇もなく、ずっと覚えている。

 彼女は色そのものだ。ノラの世界の色そのもの。

 けれど、キィコは変わり果ててしまった。背中に黒い翼が生えた。彼女に黒は似合わない。似合わないのに。

 ノラが歩くのを止めると、音がなくなって廊下からも色が消えた。あたりが暗闇に包まれる。

 そうなっても、ノラはじっとしていた。もう少しも動きたくない。こんなことになるのなら、何も感じないまま、機械のように生きていればよかった。

 こんな世界になるのなら。

「え?」

 ノラが声を上げたのは、火花が散るように、小さく廊下が光ったからだ。声を上げたので、また別の光が一筋廊下に流れる。

 音がした。

 とても遠い場所の音だ。それでも確かに、ばたばたと、音がしている。何かが走り回っているような、物を蹴飛ばしているような。

 あたりを見回したけれど、景色は変わらない。暗闇だけがある。

 けれど、音は続いている。

 躓いている。これは、物に当たって、転んで、また立ち上がる音だ。そしてまた転んだ――。

 そして声が。

 微かに聞こえた。絶対にそうだ。聞き間違えるはずがない。でもどこからその音がするのか分からない。道の先にも、後ろにも何も見えない。

 ああ、また、大きく躓いた。


「キィコさん!」


 がしゃん、と大きな音を立てて細いものが倒れた。

 そうして、ノラの前には、土の中のように薄汚れた広い空間が広がっていた。何かに成り損ねたような我楽多が、床を占拠している。

 それは、塔の外に落ちていたものより、酷い姿をしているように見えた。形が分からないほどに朽ちた廃材や、何かの部品、部品にさえ見えない奇形のもの。

 何にもなれなかった、醜い余り物たち。

 その真ん中で、人影は何かを追い駆け、ばたばたと足音を立てている。

「だめだって、そっちに行ったら! あっ」

 部屋の隅で、ぼん、と白い煙が上がった。その瞬間、建物の外から広場の方へ、大きなものが落下するような音がした。

 ノラが足を一歩進めると、ぱきん、と軽い音がして、少し遠くにいた人影が、びくりと体を震わせてこちらを見た。

 黒い翼が一緒になって、大きく膨らむ。

「ノラ、ちゃん?」

 キィコの声は、掠れきって、まるで別人のようだった。

 いつも、水をたっぷり飲んだあとの子供のような声をしていたのに。

「何を、しているんですか」

 ノラは非常に注意深く、音程がばらけないように声を発した。それでも、耳から入って来た自分の声は、随分揺れているように聞こえる。

 遠くで立ちすくんでいるキィコは、腕の中に小さな紙をいくつも抱えている。そこから、またひらひらと紙が逃げるように飛んで行った。

 キィコはまたこの世の終わりのような顔をして、その紙の行方を追い始めた。

「あのね、飛んでっちゃうんだよ。手帳――魔法リストがね、ばらばらになって」

 紙がキィコの手の届かない天井の隅に行ってしまうと、彼女はそっと、怒られた犬のようにノラの方へ目線を向けた。

 そして、血走った目をノラの手元に向けて、笑ったらしかった。

「お花を持っているの?」

 遠くにいるからでも、声が枯れているからでもなく、キィコの声音は必要以上に硬く、重たかった。

 体の強張りを全身で表すようなその声を、ノラは今まで一度だって聞いたことがない。

「ニーナさんと、オルガさんが」

 ノラの声もまた、平生とは比べものにならないくらいに、音程がばらけ、揺れていた。

「そうか。もらったんだね」

「いえ、ぼくにではなくて」

「ええ?」

 キィコは、空虚で実のない相槌を打ったので、ノラは出そうと思った言葉を一度飲み込まなければならなかった。

 息をそっと吐いて、言い直した。

「キィコさんに渡して欲しいと、頼まれて」

 しかし、もはやキィコはノラの方を見てはいない。

 手元から飛んで行った紙を追いかけ、我楽多を蹴り飛ばしながら、歩き周りはじめている。

「それから、ナカザトさんが減給だと!」

 ノラが声を上げても、キィコは背中の翼をばたつかせて、頭上を見上て右往左往している。

「キィコさん」

 もう一度言っても、キィコはノラを見なかった。頑なに、飛んで行く紙だけを追いかけている。まるで、もはやこちらの方が今の自分には大事なのだと言わんばかりだった。

 見れば、その足にはいくつも細かい傷や痣が付いている。

 ノラは溺れそうに苦しくなって、その絶頂でついに魔法を使った。

 風を作ると、ひらひらとノラの手元にやって来た紙は、けれど握った瞬間に、白い煙を上げて消えてしまった。

 途端に、部屋の中に小さな丸い球体が降り注いだ。

 赤や桃色や水色の小さな球体。

 キィコは、少し離れた場所で虚ろな目を向けノラを眺めている。

「消えちゃうんだよ」

 そう言ってしゃがみ込むと、足下にある小さなブリキの箱に、抱えていた紙を詰め込みながら言った。

「これがないとね、困っちゃうでしょう? わたし、物覚えが悪いからね。とても困るんだよ。これがないと」

 まだぱらぱらと落ちてきている小さな球体――おそらく飴玉は、我楽多の上や下に落ちて、薄汚れた床に色を付けた。

 土色の部屋の中に、楽しげな色がぽろぽろ落ちてきているのを気にも留めず、キィコは懸命にブリキの箱を上から押さえ込んでいる。

「何が、困るんですか」

 ノラの言葉にキィコはとても不思議そうな表情をした。

「だって、魔法使いになったら――」

「無理ですよ!」

 思わずノラは声を上げた。キィコが足で押しつけているブリキの箱が、がたがたと不穏な音を立てて揺れる。

「無理って言ったじゃないですか。キィコさん。あなたは、魔法使いになれない。なれないでしょう? だって、そんな」

 顔を上げて、ノラははっと息を飲んだ。

 キィコがぞっとするような空疎な目でノラを眺めていた。

「知ってるよ」

 そうして、まるで色のない声を吐いた。

「私が魔法使いになれないなんてこと、もうずっと前から分かってる。生まれたときから、知ってたよ。望んでも誰にもなれない一生なんだって。そんなこと――私たちはみんな知っている」

 それは厭世の声であり、諦観の声であり、自嘲の声だった。

 どれも、ノラが一番に聞きたくなかった声だ。

 揺れていたキィコの体が後ろにのけぞって、ブリキの箱が開く。中から、大量の紙が舞い上がり、とっさにノラはそれを見上げた。

 そのどれもに、キィコの拙い字が書いてあった。見慣れた、バランスの取れていない子供のような走り書き。

「なんで」

 ノラはそう呟いて、持っていた花束を取りこぼした。

 キィコはやはり、ノラの方は見なかった。

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