第52話 僕の魔法

 キィコの追いかける先で、また一枚の紙が白い煙を上げて消えた。すると今度は、白い埃のような物がはらはらと天井がから降りてくる。

「どうして」

 とまたノラは呟いた。

「どうして諦めなかったんですか? 分っていたのなら――もっと早くに諦めていたら、あなたには黒い翼なんて生えなかったかもしれないのに!」

 ノラが出会ったことから既に、キィコは魔法使いになるために進んで傷つき、自らの心身を顧みることがほとんどなかった。

 そうまでして魔法使いになりたい理由を、結局ノラは一度も理解できなかった。

 キィコが魔法使いを目指す人間ではなかったら、と何度もノラは思ったことがある。そうすればノラは嘘を吐くことなどなかったし、もっと違った形でキィコと出会うことが出来たかもしれない。

 けれど、キィコが魔法使いになりたい人間でなければ、ノラは彼女と親しくなることさえなかったのかもしれない。

 けれど。

 それでも、彼女が健やかであるほうがましだ。キィコは、魔法使いになりたいなどと思わなければ、今よりもっと幸せだった。

 しかしキィコは、やはりノラの方を見ずに答えた。

「でもね、私は魔法使いになりたんだよ。ならなきゃいけないんだ」

 部屋を埋め始めた白色で、キィコの姿はどんどん隠れていく。

「あのね、ノラちゃん。私は、私のために魔法使いになりたいんだ。魔法使いになって、私が私で産まれたことを喜びたい。お父ちゃんがお父ちゃんで、マオがマオで、ニーナちゃんがニーナちゃんで、オルガちゃんがオルガちゃんで――リュシーが、リュシーとして産まれて、生きてくれていることをちゃんと喜びたいから、喜んでもらいたいから。だから私は、魔法使いにならなきゃいけないんだよ」

 だってね。

 という言葉の途中で、ついに視界が完全に白で埋まってしまった。

 しかし、その時になってようやくノラは、白い埃に囲まれているのは部屋ではなく、ノラ自身であることに気が付いた。

 逃げるように場所を移動しても、もくもくとそれらはついてきた。ふわふわと頬に柔らかいものが当たり、視線を移すと、白い埃の形が変わっている。

 ノラの体に纏わり付いているもの、それは。

「羽?」

 無数の羽が舞っている。

 まるで意思を持っているように蠢いて、その羽はノラの背後に集まっているようだった。それは、何かを形作ろうとして、けれど上手くいかずに、収縮したり拡散したりしているように見えた。

 けれど、ノラにはそれが何であるのかすぐに分った。

 初めて会った日、キィコがあのバランスの悪い文字で、手帳に何を書き付けたのか、ノラは忘れたことがない。

 その夢のことを。

「ノラくんに、翼を生やす」

 呟いた瞬間、正体を明かされた羽たちは、煙を上げて消えた。

 白色が目前からなくなって、ノラは一瞬とても淋しく思った。けれど、その代わりにあの声が戻ってきた。

「ノラちゃん? ノラちゃん!」

 必死な顔でキィコが走って近づいて来る。

「ねえ、大丈夫? うわあ」

 キィコが我楽多に躓いて、ノラの元へ飛び込んできた。腕に重みが伝わってきて、温かい物が触れて、それでノラは、一度も忘れたことのないことを、今また思い出した。

 濁流のように感情が体中を駆けて、零れていく感覚。生き物に触れたときの喜び。命がそこで生きているということ。

 キィコに出会って、ノラは生まれて始めて自分のことを生き物だと思った。正しくは、生き物でありたいと願った。

 やはり、ノラはあの時、本当の意味でこの世界に生まれたのだ。

 あり得ないほど遠くに、けれど、確実に、光が存在する世界に。

「ノラちゃん!」

 キィコがノラの腕の中で顔を上げる。

「ごめんね、急にいなくなるから、びっくりして、えっ」

 と声を上げて、キィコは顔を歪ませた。

「ノラちゃん、泣かないで――」

 言われてみると、確かにノラの頬にはぼろぼろと涙が流れている。

 まるであの日と同じだ。

 キィコはノラの顔を見ながら、不安そうにくるくると表情を変えた。慌てふためき、またあの時と同じことを言った。

「どうしたの? おなかすいた?」

 そう言って、ぎこちなくノラの額だか頭の縁だか、良く分からない場所を撫でる。ノラはそれに首を振って、そっとキィコの黒い翼に手を伸ばした。

 その羽は柔らかく、温かく、近くで見るときらきらと光っている。

 その瞬間、ノラは突然、とても簡単な答えを見つけた。

「キィコさん」

「うん? どうしたの? なに?」

「ぼく、あなたの魔法使いになります」

「え?」

 声は相変わらず掠れているが、キィコの表情には少し間抜けさが戻ってきていた。

「あなたの願いは、全部ぼくが叶えます。ぼくにはそれが出来る」

 ぽかんとキィコは口を開けて、首をこてこてと左右に傾けてから、うん、だか、ふん、だかよく分からない声を出した

「だから、キィコさんもぼくの夢を叶えてください」

 そう言うと、きょろきょろと動いていたキィコの瞳がぴたりと止まる。そして、非常に困った顔をしながら、キィコはおずおずと口にした。

「ノラちゃんの夢って――なぁに?」

 やはり、いつかと全く同じ会話をしている。

 ノラは笑った。

「知ってるでしょう? ぼくは翼が欲しいんです」

 そう言って、ノラはキィコを立ち上がらせて、その服に付いた埃や木の屑を掃った。キィコはされるがままぼんやりとその姿を見ていて、ノラが手を差し出すと、やはり何も考えていないような顔で反射的に、自分の手を重ねた。

 ノラは、その手を強く握りしめ、心の底から愉快な気持ちで言った。

「逃げましょう」

「うん?」

「どこか遠く」

 キィコの反応を見ないうちに、ノラは魔法で天井を大きくぶち破った。轟音を立てて瓦礫が崩れ去り、暗いばかりの空が現れる。

 生まれて初めてこんなに大きな魔法を使ったので、ノラの心臓は大きく跳ね上がっていた。心臓だけではない、体全体が、熱を持った血の流れて、うるさく音を立てている。

 ノラはキィコの手を引いて、ぶち破った天井をめがけて飛んだ。

 びゅうびゅうと耳の側で風が走る。

 屋上にはただ木々のざわめく音がしている。蔦や枝や幹のようなもので埋め尽くされていて、建物がどこにあるのか分らない。

 意味の分らない灰色の機械はまだチカチカと光を放っている。広場から谷の町まで、この光は届いているのかもしれない。

 彼らはそれでも、各々の生活を続けているだろうか。

 地上ではどうだろう。

 塔の上では。

 父は。

 兄は。

 マツダは。

 やはりそれぞれ生きているだろう。誰に翼が生えようが、生えなかろうが、全く関係なく。

 何かから逃げて、だから生きている。

「の、ノラちゃん、これ、ちょっと――わわ」

 と、キィコは揺れる枝の足場に戸惑って、ぐらぐらと揺れた。どうも、自分に翼があることを忘れているらしい。

 まるでノラの手だけが頼りと強く握ってくるのが、やはり可笑しくて仕方がなかった。

「キィコさん、ぼく、キィコさんと一緒にどこか遠くへ行きたいんです」

 ノラが言うと、キィコは子供のように口を開けて、ただ繰り返した。

「遠くっていうのは」

「遠くっているのは、どこか遠くという意味です」

「とおく」

「はい。どこか――ああ、動物がいるところが良いんですよね」

 すると、やはりキィコは体をぐらぐら揺らせながら言った。

「それは、ど、どこにあるんだろうか」

「多分、地上の果ての方に」

「はて」

 その時、頭上を飛び回る獣が騒いで、キィコは顔を曇らせた。羽音を重ねて、彼らは今にもこちらに向かって来そうだった。

 キィコは少しの間、きょろきょろして、その間に自分に翼が生えていることを思い出したようだった。バランスを取るために開いた自分のそれをちらりと見て、彼女は呟いた。

「わたし、でも、こんな――化け物みたいだし、ノラちゃんは、だって」

「行きたいか行きたくないかで良いですよ」

 ノラの握っているキィコの手は、弛緩しているようで、緊張していて、小刻みに震えていた。それでも少しの力を込めてノラの手を握っている。

「わたし」

 キィコの顔を見上げて、ノラは大変に驚いた。

 彼女が泣いているからではない。彼女が今まで泣かなかったことに、改めて驚いたのだ。

 どんなに淋しそうな時でも、苦しそうな時でも、そして勿論悲しそうな時でもキィコは決して涙を流さなかった。

 これだけ表情が豊かな人間が、今まで涙を流さなかったということは、やはり異常だし、驚くべきことだ。驚いてあげないといけないことだ。

 うう、と子供のように声を出して、キィコは力を込めてノラの手を握り返した。 一気に泣きじゃくってキィコがいう。

「行きたい。わたし――どこか遠く。もう嫌だ。もう駄目だ」

「駄目じゃありませんよ」

 ノラは、キィコが泣いていることがとても嬉しかった。

「だめじゃないです。行きましょう。どこか遠く」

 全てから逃げて。

 キィコがうぅ、と呻く。

「だって、どうやって?」

「飛べばいいじゃないですか」

「とぶ?」

 キィコは素っ頓狂な声を上げた。

「キィコさんには翼が生えてるでしょう? 連れて行ってください」

「私が? 無理だよ、ノラちゃん!」

「大丈夫です。駄目なら魔法を使いますから」

 ノラが枝のたわむ大木の縁までキィコを連れていくと、キィコは不安そうな顔をした。

「大丈夫ですよ」

 ノラはもう一度言った。

 ここから逃げたって、どうなる訳じゃない。また別の魔法使いが追いかけてくるかもしれない。また別の誰かに黒い翼が生えるかもしれない。

 けれど、それで良いのだ。皆同じことを繰り返している。失敗して成功して、時には絶滅して、生き物はここまで生き延びて来たのだから。

 そうやって、進化して来たのだから。

 だからどこまでも逃げ続けて、出来る限り夢を見る。それが、ノラの魔法使いとしての仕事だ。

 出来る限り楽しい夢を見続けて。

 そうすれば、きっと、生き物の夢には翼が生える。

「行きますよ。せーの!」

「うぇ、わあ!」

 あの、空飛ぶ夢見た恐竜たちのように。きっと。

 翼が。

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