第48話 あなたがあの子に笑い掛けたとき、私は幸福を祈った。

 こつこつと人が階段を上る音が重なって、単調な音楽が耳に響く。安定しているような、していないような、全く落ち着かない音だ。もうどれくらい昇ったか分からない。

 一階一階途切れる階段も妙だけれど、一つの切れ間もなくいつまでも続く階段というのは、薄気味が悪い。

 ノラたちは、きっともう何十回と踊り場を通り過ぎた。

「お嬢。大丈夫ですか? 疲れた?」

 後ろから声を掛けてくれるマツダの声こそ、少し掠れていた。明らかにノラより疲弊している。

 結局、最後の優しい生き物シリーズを消すことは出来ず、ナカザトがマツダを囮にして、壁に磔してしまった。

 美しいビー玉たちが、ナカザトの手の中で刃物に変わり、みるみる化け物の動きを封じていく所を、ノラは地上のサーカスを見るのと同じような気持ちで見ていた。

 ナカザトが操れるのは、火や木々だけではないらしい。本当に本当の魔法のようだ。それでいて、全く自然だった。

 やはり、ノラたちのやっていることは、不自然なのだと思う。

 魔法使いは、存在自体が不自然だ。

「大丈夫。元気だよ」

 ノラが答えると、やはりマツダは明らかに安堵したような顔をする。

「そうか? なら良いけど」

 それから、妙に声色を明るくして言った。

「っていうかこれ――なんだろうな。灰皿?」

 もう見慣れてしまっていたが、改めて見ると確かに奇態な景色だった。階段を五段上る度に、ノラの背より少し低いくらいの、銀色の四角い長方形が屹立しているのだ。

 覗き込むと、天辺が丸く抉れていて、中に水が張ってあった。言われてみれば、確かに灰皿だ。

「でも、こんなにいるかな」

 今まで昇ってきた階段の数ほどではないが、一体いくつの灰皿を横に歩いてきただろう。

 マツダは大げさに呆れたような声音で答えた。

「これもあの女がやってんだろ? 意味が分からな過ぎて、逆に分かりやすい」

 ノラは微かに笑った。マツダがキィコの話をしている時の感じはとても良い。普段は見せない気安さのようなものを感じるからだ。

 マツダが気張らないでいられる相手がいることが嬉しいし、その相手がキィコであることがまた誇らしかった。

 未来を考えなければ、それはとても幸せなことだ。

 階段を登り切り、次の踊り場に着く度にノラは不安になった。本当に辿り付けるのだろうか。キィコは今どんな状態で、どうしているのだろう。

 手に握った花の茎が、だんだん柔らかくなってきているような気がして、それも気に掛かった。

 けれど何か話をしていると、少し気が紛れる。

「あの、ナカザトさん」

「あ?」

 ナカザトは振り返ることこそなかったが、言葉を交わすことを拒否している訳ではなさそうだった。

 キィコが彼のことを、暴力的かつ善良、と評していたことを思い出して、また微かに笑みが零れる。

「リュシーさんは、お元気ですか?」

 何か会話をしようと思ったけれど、ナカザトとの共通の話題はそれくらいしか思いつかなかった。

 こんな風になってしまって、彼女もさぞ気を落としていることだろう。ノラは一度きりしか会っていないが、彼女のことを考えると、ふっと気が緩むような感覚になる。キィコが彼女の話をする時の幸福そうな顔を思い出すからかもしれない。

「リュシー?」

 なんの感慨もなさそうにナカザトは呟いた。

「はい。サーカスでも、すごく良くしてくださって――」

「あいつは死んだ」

 そう言ってナカザトが振り返るので、ノラはその目を見た。そうして、目を見て、この人は誰かに似ているな、と考えたのだった。

 そのすぐあとに、言葉の意味が追って頭に入ってきた。

「死んだ?」

 間抜けな声。声とは言えないかもしれない。ほとんど空気を吐いているだけだ。

 ナカザトは、もう何度辿り着いたか分からない踊り場で立ち止まって、ポケットから煙草を取り出した。

「ヤニ切れた」

 それだけ言って、指先に火を点ける。

 マツダが後ろから上ってきて、立ち止まっているノラの顔をそっと覗き込んだ。

 ノラは、マツダのその行動をちゃんと認識していた。

 目の前で煙草を吸っているナカザトの姿も見えている。火のつく音も、煙を吸う音も。すべて正常に受信していた。

 けれど、意識がだけが全く動こうとせず、そのせいで何も見えず、聞こえず、感じられない生き物になってしまったように感じた。

「死んだ」

 ノラは繰り返した。

「死んだというのは、それは――」

 明らかに滞った言葉の流れを、ナカザトは笑ったようだった。

「ああ、あんたらにはわかんないか。俺たちは死ぬんだよ」

 もはや、その言葉のどこに驚けばよいのか、ノラには分らない。

「死ぬ――死んだ? リュシーさんが?」

「そう。もう死んだ。もういない」

「なんで。だって、そんな急に」

「自分で腹刺して死んだ」

 死んだ、という言葉をナカザトは執拗に繰り返しているように思えた。ノラはまた「腹」という言葉と「自分で」という言葉を繰り返して呟いたような気がするが、やはり声にはなっていなかったのかもしれない。

 ナカザトは煙を吐き出しながら続けた。

「別に驚くようなことじゃねぇだろ。特異は自分で自分を殺すのが好きなんだよ」

「はぁ?」

 マツダがノラを守るように声を上げた。

「なんだそれ。聞いたことねえよ」

 ナカザトは、そんなノラたちを眺めたまま、笑ったような顔で器用に眉根を潜めてみせた。

「本当に何も知らねえんだな、魔法使いサマたちは――少し考えりゃ分かるだろ。特異なんて全員、一人残らず生まれつき病気なんだよ。そりゃちょっとのはずみで死ぬだろ」

「病気? どこが」

 マツダが吐き捨てると、ナカザトは、何か考えごとをするような目で、ノラたちを眺めた。

 それは観察の目にも見えたし、遠い時間を回顧する目にも見えた。

 しばらくして、ふいにナカザトは踊り場の壁に手を伸ばした。

 そのまま撫でつけるように触ると、壁がとろりと溶け、煌めく美しい液体が、汚れた壁の上を走りだした。

 は、とナカザトは、自嘲気味な声と煙を上げた。

「お前ら、これが正常なことだと思うのか? 正常に見えるか?」

 しかし、ノラはそれを美しいと思った。

 正常であるか、異常であるか、という問いに至らない。ナカザトのしていることはとても自然で、とても美しいと思う。

 けれど、もしかすると、ノラはその異常さに美しさを見いだしているのかもしれなかった。雑多で汚れた谷の町を愛しているのと同じように。

「いいか」

 ナカザトの声は、どこまでも平坦で、そこに何か特別な感情を読み取ることは出来なかった。

「能力なんつうのは、いくら優れてようが異常は異常なんだよ。歌の上手い人間は、その他大勢と同じように歌えない。何かを持っているってことは、何かを持っていないってことと、全く同じなんだ」

 ナカザトの声は、そこで突然、酷く冷淡になった。

「あいつは人より持っていたから社会に利用された。そんで、人より持っていなかったからそのことに気付くのが遅すぎた。それだけだ。だから死んだ」

 利用、という言葉を聞いて、突然ノラの頭にある風景が浮かんだ。

 それはとても寒い場所だ。石で囲まれた、雪の降りしきる学院。無邪気でいて、同時に冷たいほど優秀な子供たち。

「リュシーさんはあの学院の――」

 自分で零した言葉を自分で拾い上げて、ノラははっと息を飲んだ。

 今までごく当然のこととして知っていた事柄に、どうしてこんなにも驚けるのだろうと思う。

 ノラは今一度新しい気持ちでナカザトを眺めた。

 優秀な得意は、地上の学院に集められるはずだ。あそこは、魔法使いを作るために、特異の種を抽出する場所だ。

 いや、違う――。

 それだけじゃなかった。

「え?」

 ノラは酷く混乱して声を上げた。この焦りは何だろう。何かを忘れている。自分は何かを知っている。

 あの学院には、もう一つ存在意義があったはずだ。特殊な授業が行われていて――それも一部の生徒にだけ――そう、特殊な戦術と諜報の授業をしていた。

 そして、もっとも優秀な能力と特異を持つ生徒は、中央政府に収集されるのだ。中央政府。ノラたちを生んだ人間たちと同等か、それ以上の権力を持った集団。

 彼らは、この世界のなりたちを知っている。

 そうして、私たちを利用している。

 いいや、これはノラの言葉ではない。ノラは、そんなことは知らなかった。今だってまだ本当は知らないはずだ。

「リュシーさんの特異は」

 ノラの口が勝手にそう呟く。

 キィコは彼女の特異を癒やしだと言った。それは違うと、ノラはあの時思ったのだ。そうだ。あの日。

 サーカスで歌う彼女を見た時、これは癒やしなどではないと思った。けれど、どうしてそう思ったのか思い出せない。それに、ノラはあの日、リュシーと二人きりで何か話をしたはずだ。

 何か、とても大事な話を――。

 するとナカザトは、絡まった糸を少しずつ解いていくような丁寧な声で言った。

「あいつの特異は錯覚だ。呪いの正体そのものだ。で、その対象に限りはない。例えば――目に映る傷をないものと錯覚させる。体に痛みがないと錯覚させる。あるいは」

 ナカザトはノラを眺めた。

 その言葉に、ノラはほとんど叫んでしまいそうだった。

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