人間の侵略⑧

 カサンドラは何もできずに呆然と眺めていた。

 崖の上からは土煙が立ち込め視界が遮られるが、カサンドラは視線を外すことが出来なかった。


 気配はある。

 アグニスとジークハルトの姿も見えた。

 ベヒモスもいる。

 無事であることは間違いない。


 が――許されるのか?


 人間ごときが魔王に剣を向けたのだ。

 許されるはずがない。

 だが最も許せないのは自分自身だ。

 直ぐに皆殺しにしていれば、カオス様が攻撃を受けることはなかった。

 全て自分が遊んだせいだ。

 愚か者は私だ……。


 カサンドラは後悔の念が尽きない。

 呆然と立ち尽くし無防備な状態を敵が見逃すはずがなかった。兵士の陰に潜んでいた暗殺部隊が好機とばかりに動き出す。

 黒いマントに身を包んだ暗殺部隊は、顔が見えないように口元が布で覆われていた。暗殺を生業なりわいとするため国内の要人を殺すこともある。誰にも素性が分からないように配慮してのことだ。

 黒ずくめの男は全部で二人。

 人数が多くても邪魔になるため、最も腕の立つ暗殺者を厳選した結果だ。

 兵士の背後で二人は同時にスキルを発動した。


「「〈無音移動サイレントムーブ〉」」

「「〈透明身体ステルスボディ〉」」


 ブーツの底、そして身に纏うマントが魔力で覆われる。

 足音は聞こえなくなり、暗殺者の姿は周囲に同化するように溶け込んだ。

 使用したのは一部の暗殺者のみが使える上級スキル。二人は同時に兵士の陰から飛び出すと、身を屈めながら瞬時にカサンドラに迫っていた。

 姿は周囲に同化しているが完全に消えたわけではない。よく見れば周囲との違和感があるが、それでも意識をしなければ見つけることは困難だ。

 警戒している状態では気付かれたであろう違和感も、他に気を取られている今なら気付かれることはない。

 逆手に持った短剣が黒い光を放つ。

 刀身はどす黒い液体で水気を帯び、怪しい光を放っていた。それは皮膚に触れただけで死に至る希少性の高い猛毒だ。

 一滴で一生遊んで暮らせるほど価値のある猛毒が、惜しげもなしに刀身全体に満遍なく振りかけられていた。

 刀身には毒を蓄えるための溝まで彫られている。

 カサンドラの左右から暗殺者が迫り、あと一歩で短剣が届こうという距離で暗殺者の足が止まった。

 正確には風圧を受けた時のように体が押し戻されていた。

 想定外の事態に戸惑いが走る。

 カサンドラの体からは凄まじい魔力が溢れ出し、それが強固な壁として暗殺者の行く手を阻んだ。

 膨大な魔力は可視化できるほど濃度が高く、真っ黒な風がカサンドラの体から凄まじいい勢いで噴き出している。

 風は次第に収まり圧縮された魔力がカサンドラの全身を覆い始めると、既にその顔に笑みはなかった。


「貴様は誰に刃を向けたか分かっているのか――」


 静かで迫力ある声がシュナイダーに向けられた。


「よりによって私の前で魔王様に刃を向けるとは――、貴様の国を滅ぼしても余りある行為だ」


 今のカサンドラはシュナイダーしか見えていなかった。

 二人の暗殺者はまだいけると判断するや、音もなくカサンドラに近づいた。同時に横から左右の目に短剣を突き立てる。


「「キンッ」」


 二つの乾いた音が鳴り、短剣はカサンドラの目の前で止まった。

 音を聞く限りまるで金属の壁だ。カサンドラを覆う魔力は見えているが、まさかこれほど強固だとは思っても見なかったことだ。

 暗殺者は直ぐに距離を取ろうとするが、一人の暗殺者は逃げ遅れて頭を鷲掴みにされた。


「あ? 何だお前は、邪魔をするな!」


 藻掻く間も痛みを感じる間もない。

 掴まれていた頭がトマトのようにぐしゃりと潰される。

 直ぐにカサンドラの瞳がもう一人の暗殺者を追う。

 無造作に突き出された拳が大気を震わせ、押し出された空気の塊が暗殺者を吹き飛ばした。

 何気なく突き出した拳はまるで強力な突風ブラストの魔法だ。


「撤退だ! 全軍撤退せよ! ノイマン、後のことは任せた! 俺は奴をここで押さえる!」


 動かなくなった暗殺者を見てシュナイダーは声を張り上げた。

 しかしノイマンは納得ができない。撤退する時間を稼ぐだけなら他の者でも出来るはずだ。


「指揮官を置いて逃げるのは軍人の恥です! 将軍はお逃げください! 時間は私が稼ぎます!」

「駄目だ! 奴の狙いは明らかに俺だ!」


 言葉通りカサンドラの瞳はシュナイダーを捉えていた。

 他の兵士が慌てふためき背中を見せも、カサンドラには追撃をする気配がない。それにシュナイダーには確かめたいことがある。

 、その言葉が頭から離れない。自分たちは大きな勘違いをしているのではと疑問が過ぎっていた。

 言葉の意味が正しければ目の前にいるのは魔王ではない。

 駆け寄ってきたノイマンにシュナイダーは険しい表情を向けた。


「ノイマン! 恐らく奴は魔王ではない、魔王は他にいる。お前は文献が間違っていたことを陛下に知らせろ!」


 カサンドラの言葉にノイマンも違和感を覚えていた。

 目の前の女が魔王でないのであれば護衛がいないのも納得ができる。最初に自ら王と名乗りを上げたていたことも、いまになって思えば不自然なことだ。

 自分たちが最も殺したい相手を装っているとしたら……、そう思うとノイマンは絶望に包まれた。

 もし目の前の化け物が一介の兵士であれば、もはや手の施しようがない。例え全世界の人間が束になろうと魔族に勝つことは夢のまた夢だ。


「我々は一体何と戦っているのですか……」


 ノイマンは声を絞り出すように尋ねるが、シュナイダーはその答えを持っていなかった。寧ろ知りたいのはシュナイダーの方だ。


「――さぁな、だが今の俺たちでは手に負えない相手だ。お前には優秀な息子がいる。生きて戻り帝国の繁栄に尽力を注いでほしい。それに魔族の報復も考える必要がある。お前たち親子の力が必ず必要になるはずだ」

「将軍……」

「もう行け! 時間を無駄にするな!」


 周囲は喧騒に包まれ既に多くの兵士が撤退を始めていた。

 カサンドラはその様子を見てもまだ動こうとはしない。だが、この時間がいつまでも続かないのはノイマンにも分かっていた。

 共に最後まで戦うことも出来ないのか……。ノイマンは悔しさで下唇を噛み締めた。


「私はまだ諦めていません。必ずお戻りください!」


 生きて帰ることは万が一にもないのかもしれない。それでも顔を上げたノイマンの瞳は、真っ直ぐシュナイダーに向けられていた。 


「……無駄死には俺も御免だ」


 シュナイダーは穏やかな笑みを見せる。

 それだけ聞ければノイマンには十分だった。幸い訓練の行き届いた自分の軍馬はその場に留まっている。

 逃げる足はある。

 ノイマンは馬に跨ると手綱を手に取り一心不乱に馬を走らせた。シュナイダーの側近がこの場に残ろうとするも答えは同じだ。

 程なくして戦場から足音が消えると、カサンドラはシュナイダーの側に歩み寄り足を止めた。


「やっと煩いのがいなくなったな。貴様は必ず先に部下を逃がすと思っていた。今まで色んな人間と戦ってきたが、貴様がそういう類いの人間だということは長年の経験から予想ができた」

「……逃げる兵士を見逃したということは、やはり退路に伏兵が潜んでいるのか?」


 シュナイダーの鋭い視線がカサンドラに向けられた。

 伏兵がいるからこそ追う必要がない。そう思っていたシュナイダーであったがカサンドラは一笑に付した。


「伏兵だと? そんなものがいて何になるというのだ。私には伏兵など不要だ」

「ならばどうして――もしや我々を見逃してくれるのか?」


 途端にカサンドラの瞳が大きく見開いた。


巫山戯ふざけるな! 誰が許すものか! 私が味わった苦るしみを貴様にも味わってもらうためだ! 魔装〈草薙のつるぎ〉」


 カサンドラを覆う魔力が更に膨れ上がる。

 膨大な魔力が右手に集中し、下に向けたの手の平からは滝のように魔力が流れ落ちた。魔力の塊は次第に姿を形づくり、いつしかカサンドラの右手には身の丈以上の大剣が握られていた。

 カサンドラは漆黒の大剣を肩に担ぎシュナイダーに視線を移すと、魔力を込めて鋭い殺気を放つ。

 突如として馬が倒れて動かなくなり、投げ出されたシュナイダーは地面に這うように顔を上げた。


「なに、を、した。な、んだ、その、けん、は――」


 辛うじて声は出るが身動きが取れない。

 酸素を求めて呼吸が荒くなり、全身が凍える様に震えていた。久しく感なかった恐怖がシュナイダーを襲う。

 しかも今まで感じたことのある恐怖心とは余りに異質。ここまで身動きが取れなくなるのは初めてのことだ。


「褒めてやるぞ。私が本気で放った殺気を受けてまだ生きているのだからな。もっともこれで死なれては興ざめだ。本番はこれから、貴様は仲間が殺される様をその場で眺めていろ!」


 カサンドラは倒れたシュナイダーを一瞥すると、兵士が逃げた方角に大剣を構えた。

 両手で大剣を持ち直し上段に構えるカサンドラを見て、シュナイダーの体をこれまでにない悪寒が走る。


「や、やめろ……」


 微かに聞き取れるほどの小さな声だが、今のシュナイダーには精いっぱいの声だ。

 被せる様にカサンドラの怒声が木霊する。

 

「愚かな人間どもが! 魔王様に背いたことを後悔して死ねぇええええええええええええええええええええええええええええええ!!」


 大剣を振り下ろすと同時に、剣に宿っていた膨大な魔力が刀身から解き放たれた。


「全てを薙ぎ倒せ! 〈素戔嗚スサノオ〉!」


 次の瞬間には音も光もない、ただ漆黒の闇が周囲を飲み込んでいた。




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