人間の侵略⑦

 カサンドラの周囲に血の匂いが漂い始めていた。

 兵士の剣が振り下ろされる度に血の匂いはより濃くなる。

 カサンドラは振り下ろされる剣を躱し、時には受け止め砕いた。拳の一撃が兵士の頭を吹き飛ばし、首のない死体が地面に横たわる。

 カサンドラはその場から一歩も動かず、ただ傍に寄ってきた相手を殴り飛ばしているだけだ。

 準備運動にすらならない簡単な作業。

 自然と鬱憤うっぷんが溜まり始める。


「本当にる気があるのか。お前たちの実力はこんなものか?」


 話してる間も兵士が襲うが結果は同じだ。

 カサンドラの腕が横薙ぎに払われ数人の死体が纏めて地面に転がる。

 余りの弱さにカサンドラは不機嫌になるが、寧ろ帝国の兵士は良くやっていた。恐怖心を抑え込み、死ぬと分かっていながら斬りかかることが果たして簡単に出来ようか。

 実力に差があり過ぎるだけで、それでも兵士たちは必死に戦っていた。


「つまらん。強いのは指揮官だけか――」


 それは唐突に始まった。

 カサンドラが足を踏み出した瞬間、目にも止まらぬ速さで兵士との距離を詰めていた。気が付けば楯を構えていた最前線の兵士が後方に吹き飛ばされている。

 楯はくの字に折れ曲がり、兵士の体は地面を跳ねて動かなくなる。後ろに控えていた兵士も巻き添えを食らい、息も絶え絶えに土の上で藻掻いていた。

 地面が赤く染りだす。

 一撃で数人が絶命し、十数人が瀕死の状態。

 兵士たちは恐怖でカサンドラから距離を取り、楯を構える手に全体重を乗せた。

 多くの兵士は攻撃をすることを忘れ、自分の命を守るために金属の楯に縋りついている。

 敵陣に切り込んだカサンドラの周囲には、自ずと円を描くように兵士の壁が出来上がっていた。

 カサンドラの背後はがら空き、だがそれでも兵士たちは動かない。恐怖で動けなかった。

 そこを更にカサンドラの拳が貫いた。

 前線の一角が崩れたことで兵士に動揺が走る。我先にと逃げ出す兵士が出始めるが、その動きが一言で止まった。


「何をしている!」


 檄を飛ばしたのはノイマンだ。


「お前たちはそれでも誇り高い軍人か! 我々が戦わずして誰が国を守ると言うのだ! 我々の背後には愛すべき家族や友人がいることを忘れるな!」


 帝国ではなく国と発言したのは自国のことを明かさないためだ。後方から颯爽と現れるノイマンを見て、兵士たちの士気も上がる。


「ノイマン師団長……。そうだ、俺たちには守りたいものがある。守らなければならない者がいる」

「その通りだ。この化け物から家族を守るんだ」

「相手はたった一人、ここで引き下がったらいい笑いものだ」


 兵士たちの顔つきが変わりカサンドラは「ほぉ」と感嘆の声を漏らす。

 何よりカサンドラを喜ばせたのはノイマンの存在だ。先ほどの弓を扱う指揮官同様、身に纏う空気が他の兵士とは一線を画していた。


「隊列を直ぐに組み直せ! 奴の攻撃は背後を巻き込む! 前の兵士とは十分距離を開けろ!」


 ノイマンの指示に従い、カサンドラを囲む隊列は直ぐに組まれた。その時間は僅か数分だが、それだけの時間があれば、囲いから逃れることも崩すこともカサンドラには出来た。

 敢えてそうしないのはだからだ。


「隊列を組ませるまで何もしないとは……。その余裕が命取りになるぞ」

「御託はいい。さっさとこい」


 余裕を見せるカサンドラに対し、ノイマンは抜いた剣を高らかに掲げた。


「突撃!」


 前衛の兵士が時間差をつけてカサンドラに襲い掛かる。

 時間差をつけたのは一度に取り囲める人数に制限があるからだ。円の範囲が狭くなれば、それだけ動ける人数も少なくなる。

 自由に動けるのは五、六人が関の山だ。

 四方八方から振り下ろされる剣を全て躱すのは至難の業。だがカサンドラは冷静に剣先を見極め、拳で剣ごと兵士を殴りつけた。

 当然のように剣は折れて兵士だけが吹き飛ばされる。鋼の如きカサンドラの拳は傷一つ負っていない。

 本来は目だけを死守できればいいのだから、背後の攻撃など幾ら受けても構わなかった。だが、そこはカサンドラの自尊心が許さないのだろう。

 攻撃を受けないように身を翻しては、的確に相手を屠っている。

 兵士の動きは先ほどに比べて悪くない。が、実力差を考えると余りに無謀な自殺行為だ。

 カサンドラの動きを追うノイマンの瞳が閉じる。一秒にも満たない時間だが、ノイマンが考えを纏めるには十分な時間であった。


「普通の兵士では隙を作ることも敵わないか……」


 ノイマンは馬上から自分の精鋭部隊に目配せをすると、自らも馬を降りて歩き出す。

 いつしかカサンドラへの攻撃は止み、先ほどまでとは毛色の違った兵士が前面に姿を見せた。

 銀色に輝く騎士の甲冑を身に纏い、赤いマントに身を包んだ一団はカサンドラを囲むように展開する。

 数は百にも満たないが帝国が誇る精鋭部隊。その力は隣国では知らぬ者はいないほどだ。

 ノイマンが一歩前に出るとカサンドラが口を開いた。


「私を楽しませてくれるんだろうな?」


 笑みを浮かべるカサンドラの態度がノイマンの琴線に触れる。


「目に物を見せてやるぞ! 化け物め!」


 ノイマンの言葉を合図に精鋭部隊が動き出す。

 重い甲冑を身に着けているとは思えない速度で、一瞬にしてカサンドラとの間合いを詰めた。

 右手に持つ西洋風の槍がカサンドラの瞳を貫かんと唸り声を上げる。


「確かに早い。が、まだまだ力不足だ。出直してこい!」


 カサンドラは頭を傾け槍を躱すと、そのまま踏み込み甲冑に拳を叩きつけた。

 兵士の体は後方に流され、地面には二本の線がくっきりと描かれる。他の兵士と違うのは倒れずその場で耐えたことだ。


「なに?」


 思わずカサンドラは自分の拳を見つめた。

 手加減しているとは言え人間を殺せるには十分な威力だ。そこで相手の鎧を見てカサンドラは納得する。

 普通であれば原型を留めていないはずの鎧が、僅かに凹んでいるだけだ。


「そうか……、その鎧魔法で強化しているな?」

「……………………」


 当たりだ。

 もっとも、それに応えるほどノイマンは疎かではない。強さの秘密を話すなど愚の骨頂だ。


「まぁいいだろう。答えたくなければ答えなくとも構わん。もう少し強く殴ればいいだけの話だ。それに――」


 「ドサッ」と音を立てて攻撃を受けた兵士の体が崩れ落ちた。


「――どんなに鎧が頑丈でも中の人間は別だ。あの衝撃を受けて無傷とは考えにくい。立っていることすら困難なはずだ。そこの兵士が堪え切れずに倒れたのがいい証拠だ」


 ノイマンがカサンドラに持った印象は強い、だ。それは肉体的な強さだけではない。相手を分析する能力を高く評価してのことだ。


「奴は戦闘で最も重要なことを理解している。相手に情報を与えるのは不味いか……」


 ノイマンは小声で呟くと、一呼吸置いて号令をかけた。


「攻撃を絶やすな! 魔王とて万能ではない!」


 一斉に赤いマントが靡き、他の精鋭部隊も動き出す。

 意識を分散するため弱点の瞳以外にも攻撃が繰り出された。足元を狙う者、横から耳を狙う者、背後に回り込みかぎ状の武器で目を狙う者。しかし、そのことごくがカサンドラの拳で返り討ちに合う。

 しかも、カサンドラの一撃は先ほどより遥かに威力を増していた。

 魔法が付与さえた鎧はぐにゃりと曲がり、中の兵士は一撃で死に絶えている。最も違ったのは防戦一方のカサンドラが攻勢に出たことだ。

 素早く場所を移動するカサンドラに精鋭部隊ですら追いつけずにいた。気が付けば背後に回り込み、不敵な笑みを浮かべているのだから手の施しようがない。

 質が悪いのは背後に回っても一度目は見逃すことだ。そして二度目に確実に命を奪う。

 誰の目から見ても完全に遊んでいた。

 だがほんの僅か、次のターゲットに移る刹那カサンドラの動きが止まる。そこをノイマンは見逃さなかった。


「〈疾風烈破〉!」


 凄まじい速度でノイマンが間合いを詰め、剣先がカサンドラの右目を狙う。

 咄嗟にカサンドラが腕を楯に構えるも、それに合わせてノイマンの次のスキルが発動した。


「〈螺刹剣〉!」


 魔力を帯びた剣先は腕を避ける様に曲がり瞳を捉える。

 間違いなく入った。

 衝撃でカサンドラが仰け反りノイマンは勝利を確信した。

 あの状態では腕に遮られて剣先は見えない。どう考えても躱せるはずがなかった。

 しかし――現実とは無常なものだ。


「まさか剣が曲がるとはな……、私も予想していなかったことだ。お前には合格点をやろう。殺すのは後回しだ」 


 体制を立て直したカサンドラの右目は閉じられていた。

 程なくして開いた右目は無傷のまま、見るからにカサンドラへのダメージはない。ノイマンは信じ難い出来事に声を荒げた。


「馬鹿な! 目を閉じただけであの攻撃を受け切ったというのか! 岩をも貫く一撃だぞ!」

「随分と焦っているようだな。もしかしてもう終わりか?」


 ノイマンは悔しそうに歯を食いしばる。

 動ける精鋭部隊は自分を含めても数人しか残っていない。これでは大きな隙を作ることは難しい。

 暗殺部隊は健在だが、今のままでは攻撃が通るとは思えなかった。これ以上の戦いは無駄な犠牲を増やすだけだ。


 潮時だ。


 幸い魔王は動きを止めてこちらの出方を窺っている。もう戦いとすら思っていないのかもしれない――完全に遊んでいる。

 ノイマンは撤退を求めてシュナイダーに視線を向けた。


「何だ? あいつは何処を狙っている?」


 シュナイダーが弓を構えているのを見て、咄嗟にノイマンは視線の先を追っていた。

 見ていたのはカサンドラの遥か後方、遠くに見える崖の上だ。そこでシュナイダーが何を狙っていたのか初めて気がついた。

 魔獣、それも大きさが桁違いの魔獣だ。

 見るからに足の速そうな魔獣にノイマンは息を飲む。もしあれが魔王の騎乗魔獣であれば逃げることも敵わない。

 例え倒すことが出来なくとも、魔王の足を奪うために魔獣を牽制するのは当然のことだ。

 魔獣の存在に驚くノイマンであったが、それ以上に驚いている人物が直ぐ近くにいた。


「カオス様?」


 カサンドラが止めに入る間もなくシュナイダーの声が戦場に響いた。


「〈天弓豪雨速射〉!」


 数十本の矢が天高く放たれた次の瞬間、崖の上に雨が降り注いだ。

 魔力を纏った矢の雨が……。




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