幼少期

転生①

 慌ただしく行き交う足音、そして異国の言葉。

 喧騒が耳から入り脳内を揺さぶる。

 瞼の向こうには薄らと光を感じ、誰かが体を抱きしめた気がした。

 それでも男は瞳を開けることができない。まるで糸で縫い付けられているかのように瞼が動かないのだ。

 まさか俺は生きているのか? そんな迷いを払拭するかのように、男は自分の死を確認するため生前の出来事を思い返す。


(俺の名前は佐藤航、四十歳のサラリーマン。出張で東京に来ていたとき、地震に巻き込まれて確かに死んだはずだ)


 その記憶に間違いはない。

 駅の構内で佐藤航と言う人間は命を落とし、帰らぬ人となった。

 あの床の冷たい感触、そして体中に走る痛みは忘れられるものではない。あれは間違いなく現実であると確信を持って言えた。

 それなのに何故、耳元がこんなにも騒がしいのか――。

 今もなお耳に飛び込んでくる喧騒を聞いて、航は苛立ちを覚え始めていた。

 死んでいるなら安らかに眠りたい。そんな願いすら叶わないのかと――。


(煩い……。ここが天国なら俺を静かに眠らせてくれ)


 そう思ったのも束の間、意識は次第に薄れ、眠りに落ちるように沈んでいった。

 航は後にこう思うことになる。

 物事はいつも予期せぬ形で始まるものだ。と――。




 柔らかな羽毛に抱かれるような感触。

 その優しい温もりを感じて航は薄らと瞳を開けた。

 視界に入ったのは色白の肌をした若い女性。金髪の長い髪に華奢な細い体、深紅の瞳が少し驚いたように見開いている。

 誰もが見惚れてしまうほどの絶世の美女が目の前にいた。椅子に座りながら、航の小さな体を両手で優しく抱き抱えている。

 この状況だ。流石に航も事態が少しは飲み込めてくる。

 自分は生まれ変わったのだと――。

 そして、前世の記憶が残っていることに、少し驚きを隠せずにいた。


(記憶はある――死んだことも覚えている。視界の端に見える小さな手は、間違いなく俺のものだ)


 航が自分の手を動かし確認をしていると、女性はその仕草を見て自分を求めていると勘違いをしたのだろう。

 愛おしそうに頬を擦り寄せてくる。

 甘い香りが鼻腔をくすぐり、滑らかな肌が頬に触れた。

 優しく抱きしめる手からは愛情が伝わってくる。


(この女性が俺の母親なのか――)


 話しかけようと口を動かすも、やはり上手く言葉にならないようだ。

 ただ、「あ―う―」という言葉にならない声が口から漏れた。

 それでも女性は声に応えるように、航の瞳を覗き込んで話しかけてくる。

 それは聞き覚えのない異国の言葉。少なくとも日本語や英語でないことは、航にも直ぐに分かった。


(どこの国の言葉だ? 英語とは違うようだし、母親が金髪だから、欧州にある何処かの国かもしれない。言葉を覚えるのは大変そうだなぁ……)


 お世辞にも前世の佐藤航は頭の出来がよろしくない。そんなことを考えてしまうのも無理からぬ話だ。

 航が自分の頭の問題で思い悩む中、女性は片手で航の体を抱き抱え、もう片方の手で器用に自分の胸元をはだけた。

 予め授乳をしやすい衣服を身に着けていたのだろう。真っ白なドレスの隙間からは、大きな乳房が姿を現す。

 航の発した、「あ―う―」という言葉を、お腹が空いたと捉えたのだろう。

 片手でしっかりと抱えられた航は身動きをすることもできず、その光景をただ呆然と間近で眺めていた。

 四十歳おっさんの頃の佐藤航の体であれば、間違いなく反応していたに違いない。

 しかし、今の航は赤子であり相手は母親である。

 精通もしていない幼い体で、母親の体に興奮するはずもない。


(俺がお腹を空かせていると思ったのか……)


 そう思うと急激に空腹を覚えた。今までは気付きもしなかったが、意識すると確かにお腹は空いていた。

 女性は当然のように、自分の乳房を航の口に近づける。柔らかな感触が唇に伝わり、仄かな母乳の香りが航の食欲を刺激した。

 気が付けば我を忘れて乳房を頬張っていた。

 口の中に温かい母乳が流れ込んでくる。ほろ苦い味、それでも口内を満たす母乳は、とても暖かく優しく安心感があった。


(美味しい――)


 思わず心の中で呟いていた。

 ほろ苦いのに美味しい。矛盾していると自分でも思うが、それも赤ん坊であればこそなのかもしれない。

 よほどお腹が空いていたのか、航は夢中で母乳を飲み続けた。

 その光景を女性は静かに見守っている。左右の乳房から母乳が出なくなる頃には、航のお腹も満たされていた。

 乳房からそっと唇を離す。女性の白い乳房が少し赤く腫れているのを見て、航は思わず表情を曇らせた。

 痛くないはずはない。だが女性は何事もないかのように笑みを向けくれる。それは我が子に対する愛情の成せる業なのかもしれない――。


(今の俺には前世の記憶ががる。本能のまま動くことしかできない赤ん坊とは違う。今度から母乳を飲む時には気を付けよう。誰が好き好んで母親に痛い思いをさせたいものか――)


 お腹が満たされたせいか急にまぶたが重くなる。

 かくも赤ん坊とは自由の利かないものだ。起きようと理性を働かせても本能がそれを飲み込んでしまう。

 瞼を閉じた数秒後には静かに寝息を立てていた。

 女性は片手で衣服を整えると愛おしそうに航を見つめ続ける。それは何時までも続くかに思われた。

 しかし――。


「ヒルデモート、交代の時間よ」


 静寂の時間を壊すかのように鋭い女性の声が飛ぶ。

 ヒルデモート、それは航を抱き抱える女性の名前であった。

 彼女が咄嗟に声の方に視線を向ければ、いつの間にか音もなく、部屋の入口に一人の女性が佇んでいる。

 褐色の肌に肩まで伸びた銀色の髪。切れ長の鋭い深紅の瞳がヒルデモートを睨みつける。

 黒を基調とした薄手の衣服からは、豊満な胸の谷間が顔を覗かせ、その胸を大きく上下に揺らしながら、ずかずか音を立て近づいてくるのが見えた。

 ヒルデモートは首を左右に振ると迷惑そうに溜息を漏らす。


「はぁ……、少し落ち着きなさいアニエス。カオス様はたった今お休みになられたばかりよ。目を覚まされて、ご不快になられたらどうするつもり?」


 アニエスと呼ばれた褐色の女性は細長い耳をピクリと動かすと、その場でピタリと足を止めた。そして信じられないと言わんばかりに、今度は駆け寄り言葉の真意を問いただす。


「お目覚めになったの? それは本当なのヒルデ!」

「ええ、先ほど目を覚まされてお食事を取られたわ。一週間もお目覚めにならないから心配したけど――きっともう大丈夫」


 ヒルデモートは愛おしそうに赤ん坊の顔にそっと手を添えた。

 その言葉を聞いたアニエスは胸を撫で下ろす。そして同じように赤ん坊の顔に手を添えて、安心したように口を開いた。


「これでこの世界は安泰ね」

「ええ、そうね」


 アニエスの言葉にヒルデモートは頷き返す。だが、その視線は腕の中で眠る赤ん坊から離れることはなかった。

 それは知らない者が見たら本当の親子に見えたに違いない。それほどまでに、ヒルデモートの眼差しは慈愛で満ち溢れていた。





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