別れ②

 別れの日、上空は厚い雲に覆われ日の光は完全に遮られていた。 

 城の前には馬車がつけられ、城のメイドが数人見送りに来ている。城に使えるメイドの数は多くないが、一国の王の見送りにはあまりに寂しい光景だ。

 一際大きな馬車は古めかしい物で装飾の類いは施されていない。

 カオスが最初に馬車を見た印象はだ。


「なぁ爺。ヒルデたちは一国の王なのだろ。あの馬車は失礼ではないのか?」


 馬車を眺めて顔を顰めるカオスとは真逆に、ハデスは馬車を自慢するかのように笑みを見せる。


「外見で判断してはいけません。何より実用性が大切でございます。仰る通り見た目こそ良くはございませんが、魔獣の速度にも耐えうる一級品でございます」

「そう、なのか?」


 カオスが馬車の先頭に視線を向けると、馬車を引く魔獣と偶然にも目が合う。

 狼を巨大化させたような魔獣で、その全長は五メートルを優に超えていた。

 毛並みは黒く、足先から伸びる鋭い爪が大地に深々と突き刺さっている。半開きの口からは鋭い牙を覗かせ、長い舌をだらんと垂れ下げていた。

 間違いなく肉食だ。

 魔獣が引いている時点で、もう馬車ではないのでは? とカオスは頭を傾げたくなるが、事前にハデスから聞いた話では紛れもない馬車らしい。 


「あの魔獣は大丈夫なのか? 私を襲ったりしないだろうな・・・・・・」


 カオスの呟いた言葉が分かるのか、魔獣が項垂れたように頭と尻尾を下げ始めた。見るからに意気消沈している姿を目の当たりにして、カオスの口が思わず開く。


「ああ、別にお前のことを悪く言うつもりはなかったのだ。許してほしい。お前のような立派な魔獣は初めて見たから、その――少し驚いただけだ」


 やはり言葉が分かるのだろう。見るからに気落ちしていた魔獣が、今度は尻尾をブンブン振りだして息を荒げている。

 恐らく喜んでいるのだろうが、カオスの脳裏にはの二言が付きまとう。

 なぜなら、よだれを垂らして喜んでいる様は、餌を見つけて喜んでいるようにしか見えなかったからだ。


(本当に大丈夫か! 馬車に乗ったらこいつの餌になるんじゃないのか?)


 助けを求めてハデスを見るが、何故かハデスは徐ろに魔獣に近づき、何かを話しかけながら魔獣の黒い体毛を指で梳いていた。

 魔獣は大きな遠吠えを上げ、もはや喜んでいるのか怒っているのかさえも判別できない。


(駄目だ。爺は使い物にならん……)


 カオスが肩を落とすや否や、背後から手が伸び、カオスの小さな体がひょいっと持ち上げられた。今では慣れ親しんだ手の感触で、見ずとも誰か知ることができる。


「おぉっと、ヒルデか?」

「はい、正解でございます」


 いつの間に来ていたのか、ヒルデモートはカオスを腕に包むように抱き直し、少し悲しげな表情を浮かべた。

 ヒルデモートの後ろにはアニエスやカサンドラの姿も見えるが、二人の表情もどこか暗い。

 否が応でも別れが近いことを感じさせている。


「ヒルデ、下ろしてくれ」


 ヒルデモートは無言で小さく頷き返して地面の上にカオスを下ろした。

 既に必要な荷物は馬車に積み込んでいる。後は三人が馬車に乗り込めば本当の別れだ。 

 生まれたばかりのカオスにとって三年という時間は濃密なものだった。

 初めて知ることの多くが新鮮で、時間を忘れて書庫に籠もったこともある。毎日魔力と体力が尽きるまで特訓を受けていたのは記憶に新しい。

 色々な思いがカオスの中に込み上げてくる。

 涙がこぼれ落ちそうになるのをグッと堪えながら、カオスは顔を上げて三人を見渡した。

 乳母たちも別れが辛いのは一目瞭然であった。あの気丈なカサンドラでさえも瞳の端に涙を蓄えている。

 遠くで雷雲が轟く中、カオスと乳母たちは別れを惜しむように無言で立ち尽くす。

 互いに何も語らずとも、それだけで言いたいことが不思議と分かる気がした。


 最初に出会った日のこと。

 最初に母乳を飲んだ日のこと。

 最初に立ち上がった日のこと。

 最初に魔法を使った日のこと。


 思い出したらきりがない。

 常に乳母が側にいて見守ってくれた。

 色んなことを教えてくれた。

 溢れんばかりの愛情を注いでくれた。


 だから――。


(だから、いまの俺がある。感謝してもしたりない。俺はどれだけ幸せな時間を過ごしてきたんだろうか――)


 いつしかカオスの瞳からは大粒の涙がこぼれていた。

 顔をくしゃくしゃにして、それでも三人から目をそらすことはない。

 いつまでもこの時間が続いたら――そう願ったのはカオスだけではないのかもしれない。

 ヒルデモート、アニエス、カサンドラ、三人の乳母の瞳からも光るものが流れ落ちている。

 ぽつり、またぽつりと雨が落ちてくる。

 降り出した雨は、まるで世界が流す悲しみ涙のように思えた。 

 カオスの口から自然と言葉が漏れる。


「ありがとう。一緒にいてくれてありがとう。育ててくれてありがとう。愛してくれてありがとう。たくさん――ありがとう」


 小さな声だ。

 雨音でかき消されて聞き逃してもおかしくない。それでも三人の乳母の耳にカオスの言葉ははっきり届いていた。

 誰が最初に駆け出したのか分からない。

 三人の乳母たちはカオス抱きしめ一つの塊になり、声にならない声で泣いていた。

 少し離れた場所からはメイドたちの嗚咽も聞こえる。

 様子を覗っていたハデスは雨に打たれながら静かに空を見上げた。

 稲光が走り雲が晴れる気配はない。


「当分、雨は止みそうにありませんね・・・・・・」


 止まらない涙と雨の中で、カオスはこの世界で最初の別れを経験した。




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