特訓②

 城に戻ったカオスを出迎えたのはヒルデモートの悲鳴と奇声であった。

 泥だらけのカオスに言葉にならない声を上げ、同行していたカサンドラに馬鹿を見るような視線を向ける。

 カサンドラはふいっと視線を逸らすと、何事もないかのようにヒルデモートの隣をすり抜けた。

 しかし、ヒルデモートが逃すはずもなく、カサンドラの肩は華奢な手でがしりと掴まれる。


「ねぇ、カサンドラ。カオス様のこのお姿はどういうことかしら? カオス様に何をしたの? 怒らないから素直に話しなさい」


 カサンドラが自分の肩越しに後ろを見ると、メンチを切るヒルデモートの顔が間近に見えた。

 何処からどう見ても既に怒っている。

 カサンドラは「この嘘つきめ」と小さく呟きながらも、逃げられないとみるや諦めたように振り返った。


「ヒルデも知ってるでしょ? 体術の特訓に決まってるじゃない。ちょっとだけカオス様に戦い方を教えていたのよ」


 「ヒルデは物忘れが酷いのね」とカサンドラは笑みを浮かべて、困ったように肩を竦めるジェスチャーをした。

 しかし、物忘れが酷いと言われてヒルデモートの怒りは増すばかりだ。


「私はどんな特訓をしたのか内容を聞いているの。ぶち殺されたくなかったら素直に話しなさい。お・こ・ら・な・い・か・ら」


 ヒルデモートの瞳は血走り、額には太い血管が浮かび上がっている。

 もう既にぶち切れ寸前だ。

 二人のやり取りに呆気に取られていたカオスであったが、さすがにこのままでは不味いと二人の間に割って入る。


「落ち着けヒルデ、カサンドラとは実戦形式の特訓をしただけだ。多少の衣服の汚れは仕方あるまい」

「実戦形式? この筋肉馬鹿と戦ったのですか?」


 カオスが頷くとヒルデモートはカサンドラにガンを飛ばした。ドスの聞いた低い声がヒルデモートの口から自然と漏れる。


「まさか本気を出したわけではないでしょうね?」

「ま、まさか、本気のわけなでしょ? 魔装だって使ってないし……」


 はぐらかそうとするも、ヒルデモートは逃がしてくれない。


「そう言う意味で聞いているのではないの。あなたの馬鹿力で本気を出していないのかを聞いているのよ!」


 カサンドラの瞳がそろ~と泳いだ瞬間、ヒルデモートの怒りが頂点に達した。


「あなた本気を出したでしょ! カオス様はまだ三歳よ! なにを考えているのよ、この筋肉馬鹿! そもそも貴女は――」


 それからガミガミとヒルデモートの小言は深夜まで続けられた。

 そして何故かカオスも一緒に説教を受ける羽目になる。

 カサンドラの無茶な特訓を馬鹿正直に受けたのが不味かったらしい。


(理不尽だ――)


 



 翌日はダークエルフのアニエスから弓を教わるため、遠くにある原生林の中で身を潜めていた。

 獲物を仕留めるためには気配を消す必要があるらしいが、もう身を潜めて半日が経つ。既に日は沈み、周囲は闇に閉ざされていた。

 弓を教わりに来たはずが何か違う。


(なんだこれ?)


 魔族は暗視ができるため暗闇でも問題はないが、半日も身を潜めて俺は何をやっているんだと、カオスの中で疑問が浮かぶ。


「アニエス、もう夜だぞ? 何時まで続けるつもりだ――、弓の訓練はしないのか?」

「カオス様、獲物を仕留めるためには長時間、身を潜めることもございます。先ずは気配を最低一日は消せるようになりませんと――。弓の訓練はそれからです」

「一日? いくら何でも長すぎないか? おしっこに行きたくなったらどうするんだよ……」


 カオスは自分で話してあれ? と首を傾げた。

 思えば生まれてこの方、トイレに行ったことがない。と言うよりも排泄をした記憶がない。

 思わず、え? と黙り込んでしまう。


(――あれ? ひょっとして俺、寝てるときに漏らしてるのか? まぁ、三歳だからなぁ……。仕方ないとも言えるが、毎回寝てから漏らしているとしたら相当厄介な赤ん坊だな。もしかしたら癖になっているのかもしれない。今日も寝てから漏らすんだろうか――)


 レオンが申し訳なさそうにアニエスの顔を見上げると、アニエスは「おしっこ?」と首を傾げていた。


「カオス様、何を仰っているのですか? 魔族は暴飲暴食をしない限り、排泄行為は行いませんよ?」

「――そう、なのか?」


 カオスは不思議そうに頷き返す。


「魔族は摂取したものを全て魔力に分解して体内に取り込みます。もちろん一度に沢山の食事を取られますと、魔力への分解が追い付かず排泄は行われますが、魔族は一般的にそこまで食事を取ることはありませんので排泄は行いません。大気中に溶け込む魔力を常に取り込んでいますし、その気になれば食事も一か月は不要ですよ?」

「へぇ……」


 カオスは「魔族万能過ぎない?」と心の内で突っ込みを入れた。

 もしアニエスの言葉が真実であるなら、一日中気配を消して張り込みをすることなど、魔族にとって造作もないことだ。

 そもそも、人間の感覚で物事を話すこと自体が間違っていたのかもしれない。寿命一万年の魔族から見たら、一日という長さは短い時間の単位でしかないからだ。

 書庫で読んだ文献には、「百年は瞬く間に過ぎ去って行く」と記されていた。その記述を思い起こし、カオスは時間に対する魔族の感覚を実感する。

 難しい表情で唸るカオスを気遣うように、アニエスはしゃがみ込んで視線を合わせた。


「本当は朝まで気配を消す訓練をしたいのですが、そろそろ帰らないとヒルデが煩そうです。昨日のカサンドラの件もあります、今日はもう帰りましょうか?」


 カオスが頷くのは分かっていたのだろう。

 首を縦に振るや否や、小さな体は即座に持ち上げられ、アニエスの腕の中にすっぽりと収まっていた。

 落ちないようにしっかりと抱きしめられると、アニエスは風を切るように草原を駆け抜ける。

 大地を蹴る度に大きな胸が弾み、心地よい感触がカオスの顔を包み込む。

 何度も吸い続けて慣れ親しんだ乳房ではあるが、母乳を飲まなくなって一年は経つ。久しく感じていなかったアニエスの胸の感触に、カオスの顔が緩んだのは仕方のないことだ。


(柔らかい――)


 この時カオスは思う。

 気配を消すのは地味な特訓だが続けるのも悪くないな、と……。






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