ハデス

 特訓が始まり数ヶ月が経つ頃、珍しい人物がカオスの寝室を訪ねていた。先代魔王サタンの側近であり、いまはカオスがじいと呼ぶ者だ。

 なぜ爺なのか、答えは単純明快だ。この城で唯一の老人だからである。

 一般的に魔族は歳をとっても見た目が殆ど変わることがない。人間と同じように二十歳までは成長するが、その後は若さを限りなく保ち続け、そして老いることなく寿命を全うする。

 つまり魔族の平均寿命、では肉体が老いることはないということだ。

 目の前の老人が老人たる姿をしているのは、十万年という長い年月を生きているからだとカオスは教えられていた。

 とは言え、骨と皮だけのしょぼくれた老人とは訳が違う。

 背筋はピンと伸び、背はすらっと高く、服の上からでも筋肉がほどよくあるのが見て分かる。所作にも趣があり、品のある老紳士と言った感じだろうか。

 白髪交じりの髪はオールバックで纏められ、丸眼鏡をかけている姿は熟練の鑑定士に見えなくもない。

 執事服を身に纏う老紳士は、その外見さながらに、洗練された動きで深々と頭を下げていた。


「お久し振りでございます、カオス様。今日までお怪我もなく、また健やかに成長され、このハデスこれ以上の喜びはございません」


 老紳士、ハデスの言葉にカオスの視線が僅かに宙を泳いだ。

 なぜなら……、本当は三日に一度は怪我をしているからである。特にカサンドラと実戦訓練をするときには骨折をすることも希ではない。

 幸い傷の治りが早いため、城に帰宅する頃には完治してはいるが、だからと言って怪我がないと普通は言わないだろう。

 ハデスが怪我のことを知らないということは、カサンドラが怪我のことを報告していないということになる。

 カオスは一瞬だけ口を開きかけるも直ぐに口を閉ざした。ここで伝えるのは告げ口をするようで気分がいいものではないからだ。

 何よりカサンドラに悪気があるわけではない。カオス自信も格段に強くなっているのを実感しているため、カサンドラには感謝こそあれ恨みのような負の感情は抱いていなかった。


(怪我はそれなりにしているが、敢えて話すことはないか――)


 ベッドに寝そべっていたカオスは「どっこいしょ」と、おっさん臭い声を出して起き上がると、ベッドの縁にハデスと向かい合うように座り直した。


「久しいな爺。お前も息災でなによりだ」


 カオスの言葉でハデスは顔を上げると僅かに笑みを見せる。そして労わりの言葉に「ありがとうございます」と、会釈で返した。

 

「私に会いに来るとは珍しいではないか、何か問題でもあったのか?」


 そう珍しいのだ。

 ハデスには城に関わる全てのことが一任されていた。これはいまに始まったことではない。先代魔王サタンの時代から、ずっと続いてきたことだ。

 役目は屋敷を管理する家令スチュワートと同じような役割ではあるが、普段は表に出ることはなく、裏方で他の従者に指示を与えていることが多い。

 城の防衛もその責務に入るため、一抹の不安を感じてカオスはハデスに問うていた。


「いえ、問題は何もございません。ただご報告がございます」

「報告?」


 カオスは三歳に相応しい仕草でちょこんと首を傾げた。

 頭の動きに連動して、身に着けていた着ぐるみパジャマ(うさぎバージョン)の片耳がへにゃんと折れ曲がる。

 その瞬間「ゴン」と鈍い音がなり、部屋の片隅で控えるメイドが急に壁へ倒れ込んだ。直ぐに何事もないかのように佇むが、にへら笑いを浮かべた顔からは鼻血が滴り落ち、カオスを見る瞳には熱がこもっている。


「す、すみません。ちょっとよろけて鼻をぶつけちゃいました」


 ハデスは深い溜息を漏らすと、なっていないと言わんばかりに首を左右に振っていた。

 カオスはと言えば、掛ける言葉もなく空笑いを浮かべるばりだ。そしてメイドの熱い視線に一度だけビクッっと体を震わせ、あることを思い出す。

 

(着ぐるみパジャマの種類が増えているのは一部のメイドの提案だと聞いていたが――あいつの仕業か! そもそも俺を見る目が少し怖いんだよなぁ。まだ三歳だぞ。そういう性癖の持ち主なのか? だいたい魔族がちょっと鼻をぶつけたくらいで鼻血を出すわけがない。違う意味での鼻血を誤魔化すにも無理があるだろ……。それに、どんなよろけ方をしたら背後の壁に鼻がぶつかるんだ? 鼻血はともかく頭の中身の方が心配だな。こんなメイドが魔王の側にいて、本当に魔族は大丈夫なんだろうか――)


 カオスはメイドを無視するようにハデスに視線を戻す。

 一方のハデスもこの場でメイドを叱責するような愚は犯さない。主の寝室、ましてや主の目の前で他の従者を叱責するのは好ましいことではないからだ。

 もっとも、メイドが許されたわけではない。この部屋を出た後に叱責を受けることはま逃れないのだが……。


 

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