世界の管理者 ~混沌の魔王は世界の行く末を憂う~

粗茶

プロローグ

プロローグ

 冷たい床の感触が背中から伝わてくる。

 視界に映るのは無機質なコンクリートの塊だ。そのコンクリート上をまるで血管のように電気ケーブルが張り巡らされている。

 それは本来、天井材モルタルの中に収められ、人目の付かない場所にあったはずだ。それが今では所々が無残にも引き千切られ、ぶらりと力なく垂れ下がっている。


(どうしてこうなった――)


 薄暗い視界の中、仰向けに倒れた中年の男は、痛々しい天井を見上げながら自分の不幸を嘆いていた。

 体は崩落した天井材モルタルに押し潰され、呼吸をするのがやっとの状態、声を出すことすらままならない。

 僅かに動く指先からは滑りとした感触が伝わり、体中から感じる痛みから、それが血液であることは容易に想像がついた。

 天井材モルタルを押しのけようと無理に手足を動かそうとするも、体中に激痛が走り身動きが取れない有様である。

 出張で東京に来た日に偶然震災に合う。おまけに身動きも取れず怪我もしている。

 状況は絶望的だ……


 おまけに全員逃げ出した後なのか、周囲に人影はまったく見当たらない。真っ暗な空間を僅かばかりの非常灯の明かりが仄かに照らし出していた。

 ガラスのショーケースは粉々に砕け散り、綺麗に陳列されていたはずの商品の数々は見るも無残な姿に変わり果てている。

 それだけではない。ありとあらゆる物が床に散乱していた。足の踏み場もないとはまさにこういうことを言うのだろう。

 男は横目で周囲の状況を確認して小さく息を漏らす。

 地震直後の記憶がないことから気を失っていたのは間違いない。既に人気がないことを考えれば、それなりの時間が経過していると見るべきだ。

 助けは来るのだろうか? そんな思いが男の不安を助長した。

 いつしか非常灯の明かりが一つ、また一つと視界の端から消え失せる。それはまるで、自分の命の灯火が消えていくかのように見えた。

 既に体温は大幅に下がり意識は朦朧としている。そして最後の非常灯の明かりが消え失せ、視界が完全な暗闇に飲み込まれると、男は諦めたように瞳を閉じた。


(はぁ、死ぬのか……。心残りがないと言ったら嘘になるが、俺の場合は新作のゲームができないことくらいだからなぁ……。その程度の心残りなら、俺の人生は案外幸せだったのかもしれない。それに幸いにも俺の家族は全員他界している。家族を悲しませる心配もない。苦しんで死ぬよりは、いま苦しまずに死ぬのも悪くないのかもしれない。それにしても、死ぬ間際には三途の川が見えたり、思い出が走馬灯のように駆け巡ると聞いたが、実際にはそんなことはないのか? そこはちょっと期待はずれだな――)


 そんなことを思いつつも、死ぬ直前だというのになぜ冷静でいられるのか自分でも分からずにいた。自分がおかしいのか、それとも死の直前ではみんなこんなものなのか――。

 尤も、どちらにしろ等しく死ぬことに変わりはないはずである。直ぐに不毛な考えだと一笑に付した。

 そうしてる間も当然時間は待ってはくれない。徐々に感覚は薄れ意識は遠のき、いよいよという間際で、男は心残りを一つ思い出していた。


(あぁ、そう言えば、一度でいいから結婚はしてみたかったなぁ……)と――。




 それから数日後、ニュースでは関東大震災で亡くなった被災者の名前が厳かに読み上げられていた。


「新たに東京駅構内で見つかったご遺体を読み上げます。――小林彩乃さん、小畑弥生さん、佐藤航さん、鈴木明美さん――」


 その日、日本中が悲しみに暮れた震災で、ついに一万人の死者が確定しようとしていた。






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