第52話 彼と夜会
夜会の会場である王城の広間は、さざめきのような喧騒で溢れていた。
貴婦人たちのまとう香水が混ざり合い、ふくよかな色を空気に添える。天井から幾つもの豪奢な灯籠が吊るされ、広間とバルコニーに輝きを振りまく。
濃い紅色で染め抜かれた床の上を、踊るように歩くのは貴族の男と婦人達だ。談笑に勤しむ彼らの間を、一切の無駄なく抜けていくのは召使い達。広間のあちこちでは、騎士団の面々が警備に当たる。
彼らの最大の関心事は、王都で起こった水の国の反乱だ。
あの国に、まだそんな余力があったのか。口さがない貴族の一人は、そう馬鹿にする。
あのフェンが、国を裏切るなんて。居並ぶ兵士たちは、割り切れない思いを抱えたまま警備に当たる。
銀の騎士様は私達を殺そうとしていたというの。貴婦人たちは広げた扇の下で悲しみを滲ませながら目配せしあう。
表面上はいつもの年と変わらぬ光景のまま――だが薄氷の下では、異様な空気が渦巻く、聖夜祭。
そんな夜会の片隅で、ゲイリーはげんなりと肩を落とした。
「なんだ、元気ないじゃないか」
傍らに立つオルフェが、ゲイリーをちらりと見て鼻を鳴らした。きっちりと着込むべき礼服の第一
ゲイリーは深々とため息をつく。オルフェが眉を上げた。
「こういう賑やかな舞台、てっきり好きだと思ったんだけどね」
「いやー……好きだぞ……? 好きだけどもよぅ……体力が、っちゅうか……」
「何をぶつくさ言ってるんだ」
「あのなぁ! こっちはずっと、火の国中を駆け回ってたんだよ!」
「駆け回ってたのは俺の商会が駆る馬であって、あんたはそこに揺られてただけだろ」
「駆け回った先で、働いてたのは俺だっての!」
ゲイリーは地団駄を踏んだ。怠慢な体を押し込んだ礼服が、今にもはちきれんばかりに軋む。それを聞かなかったことにして、ふるりと拳を震わせる。
疲労感と恨み。それと共に思い出すのは、十日前の事の発端だ。
*****
「……っ、馬鹿馬鹿しい! やってらんないわ!」
憤懣を隠しもせず叫んだアンジェラは、足音高く執務室を後にした。怒りのままに閉められた扉が耳障りな音をたてて閉まる。
その音の激しさに、ゲイリーは思わず首をすくめた。
だが、去っていた彼女の苛立ちは十分に理解できるものでもある。
今しがた聞いたばかりのアッシュの腹案――より正確に言うならば、アッシュがアンジェラに指示した内容は、ひどく馬鹿げたものだった。
アッシュを毛嫌いする水神からすれば、最悪な願いだろう。
ゲイリーはアンジェラに同情した。
裏を返せば、同情するだけの余裕があった。
この時までは、あくまでも他人事だったからだ。フェンを助けたい気持ちはある。けれど小心者の彼は、きっちりと己の分もわきまえている。
自分の役割は、アッシュに手がかりを届けるところまで。
そこから先は、傍観者として安全なところで彼らを見守っていればいい。
あわよくば、奇怪な事件を物語として一つにまとめられれば。
心の片隅で、ゲイリーはそう考えていたのだ。
楽観視していた。
だが。
「お前にも働いてもらうぞ、吟遊詩人として」
「……は?」
炎の消えた執務室で、不意にアッシュの声が飛んでくる。ゲイリーは思わず耳を疑った。慌てて首をひねる。
アッシュは依然、床に座り込んだままだ。その視線は、この場の誰よりも低い。傷口が開いたせいだろう、無精髭の残る顔色は良くなかった。髪の毛も随分乱れている。
だというのに、まとう空気には疲れも不安も感じられない。
暗闇に光る双眸は強い。
他者を強烈に引きつける視線を注がれて、ゲイリーはおずおずと口を動かす。
「ど、どういうことでい……?」
「火の国は悪しき神によって狙われていた。各地で起こっていた不審火の騒ぎは、すべて炎の神と呼ばれる悪神の仕業だ。火の国の銀の騎士は唯一人それに気づき、悪しき神を鎮めるために人知れず行動を起こした」
「へ? だ、旦那……? あんた一体なにを言って、」
「細かい筋書きは任せる。いずれにせよ、フェンを悲劇の主人公に仕立て上げる歌を作れ。お前の歌を聞いた者が、思わずフェンと、あいつの率いる軍を救いたいと思うように」
「や、んなこといきなり言われてもよう……」
「できないとは言わせんぞ。稀代の吟遊詩人なんだろう?」
ゲイリーは顔を引きつらせた。生まれて初めて、過去の自分の発言を後悔する。
アッシュは次いで、オルフェに目を向けた。
「オルフェ、お前の商会の人間を使いたい場合……いつから動かせる?」
「……いつでも動かせるけど」
「そうか。なら夜明けと共に、ゲイリーを連れて火の国中を回れ。こいつの作った歌を国民中に聴かせて回るんだ」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「なんだ?」
アッシュにひたと見据えられて、オルフェはたじろいだ。僅かの沈黙。だが意を決したように拳を握る。
「君のやりたいことは分かる。歌で国民の同情を誘おうっていうんだろ? でも、そう簡単にいくとは思えない」
「上手くいかせるんだ」
「根性論を聞きたいんじゃない。少しは冷静になれよ。王政のこの国で、いくら民を煽った所で意味なんて」
「煽るのは民だけじゃない」
怪訝な顔をするオルフェの前で、アッシュはひらりと書簡を振った。
オルフェの眉が寄せられる。
「……聖夜祭が、どうかしたわけ」
「ここでゲイリーに歌ってもらう。そうすれば、この国の中枢に関わる人間にも届くだろう?」
「……たかが詩人の歌ごときで、頭の固い貴族どもの方針が変わるとは思えないな」
「貴族どもは、な。だが、ここには貴族以外の人間も集まる。なにせ国を上げての年越しの夜会だ。貴婦人もいれば、警備のための兵士もいる。給仕のために駆り出される召使いも。狙うのはそっちだ。貴族の数よりも、そちらの方が圧倒的に数が多い」
「彼らに権力はないだろう?」
「権力はない。だが、それだけの数の人間が反感を覚えるとなれば、貴族もユリアスも、強行な姿勢を取りづらくなるはずだ」
「…………」
「いいか? 国を支えているのは民だ。戦の最前線で戦うのも。そしてこの十年で、フェンは両方から信頼を勝ち取った。ゲイリーの歌を信じるか否かは別としても、フェンに同情的な噂が流れれば、民意は傾く」
アッシュは息を吐いた。暗闇の中で目を細める。ここにはいない兄の影を追うように。
「兄上は、誰も信頼などしていない。最も効率よく、確実な方法で動けば、民意は勝手についてくるものだと思っている――ならば、俺たちは先に民意を味方につけて、兄上の最善を崩す」
「でも……吟遊詩人の紡ぐ歌は所詮嘘だろう」
不安の滲むオルフェの声に、アッシュはにやりと笑った。
「歌の通りに現実が進めば、それは真実だ」
*****
ゲイリーの地獄は、そこから始まった。一睡もせずに歌を練り上げ、夜明けを待たずに向かった先はオルフェの屋敷だ。休む暇なく、彼の用意した従者とともに相乗りという形で馬に乗る。
そしてこの十日間、ゲイリーはほとんど休まず国中を駆け回ったのだった。王都に限らず、目についた町や村で歌を紡ぎ、終わればすぐに次の場所へ……といった具合で。
「正直よう……喉もいてぇし、尻もいてぇし、酒も飲みてぇし、女だって……」
ゲイリーは恨みをたっぷり詰め込み呟く。オルフェの呆れたような視線が突き刺さる。だが、ゲイリーから言わせれば、この十日間、ほとんど王城にいた彼に、自分のことを批判する権利などない。
「……あのさ。ちゃんとこの状況分かってる?」
口うるさい声に、ゲイリーはしっしっと手を振りながら投げやりに返した。
「うるせぇなぁ。ここで話せばいいってんだろい?」
「それだけじゃない。言っとくけど、ここで話した時点でユリアス殿下に狙われる。その覚悟は出来てるかい?」
ゲイリーは動かしていた手をぴしりと止めた。一瞬で青くなった顔を上げれば、オルフェは憎たらしいくらい良い笑みを浮かべている。
「当然だろ? この夜会、ユリアス殿下も出てくるんだ。そんな場所で……しかもユリアス殿下の意図に反することを歌うわけだから、それ相応の報復があると考えるのが自然だろ?」
「……い、いやいや。俺ぁただの善良な一般市民だぜい……?」
「なんだい、その下手くそな冗談。全然笑えないね」
「う……うぅ……お前、すげぇ笑ってるじゃねぇかよ……」
「というわけで、そんな我らが稀代の吟遊詩人殿のために、こんなものを用意しました」
機嫌良く、オルフェは懐から仮面を取り出した。ゲイリーにとっては見覚えのある仮面だ。いつぞやの夜会の時に身に着けていた、目元だけ隠れる仮面。
仮面で素顔を隠せということらしい。
さすがは旦那の友人だ。準備が良い。調子よく解釈したゲイリーは、満面の笑みを浮かべた。早速仮面に手を伸ばす。しかしその手は届くことなく空を切る。
「金貨三枚」
振ってきた声が何を言っているのか、ゲイリーは最初理解できなかった。間抜けな顔をしたままオルフェを見上げれば、彼はくつくつと笑い、ゲイリーを見下す。
「仮面の代金だよ。タダであげる訳ないだろ?」
「いや、ちょっと待てい!? 俺とあんたの関係なら、金無しでくれるところだろ!?」
「俺は商人で、あんたは客。金を払わない論理が分からないな」
「だ、だからって……金貨……金貨三枚は……」
「払えないはずがないよね? アッシュからたっぷり、報酬金の前払いを受け取ってただろ?」
「……ぐぐぐ……」
「ま、必要ないなら、それでいいんだけどね? いやぁ、自分の命を賭けてでも顔を売りたい、だなんて。芸に生きる人間の鏡のような態度じゃないか」
「……くっそ! 足元みやがって……!」
乱暴に金貨を懐から取り出し、ゲイリーはオルフェに投げつけた。毎度あり、という白々しい言葉と共に飛んできた仮面を、ゲイリーは受け止める。
その時だ。
喧騒に包まれていた夜会の会場が、不意に静かになった。
陽気な空気に、糸を張ったような緊張が走る。人々の視線に押されるようにして、ゲイリーとオルフェも顔を上げる。
広間の扉が開いていた。そこから何人かの従者を伴って男が現れる。
彼は、常の柔和な笑みを浮かべていた。緩く波打つ髪の向こうで、赤の目が思慮深い色を宿す。
ユリアス・アリファ。この国の第一王太子にして聖夜祭の主催者。あるいは愚王に代わり、政を一手に担う若き為政者。
微かなざわめきと共に、客たちから無遠慮な視線が注がれる。広間の周囲に配置された兵士達は居住まいを正す。
ユリアスはゆっくりと、広間に設けられた壇上へ向かった。従者が赤ワインの注がれたグラスを手渡す。
乾杯が近いのだろう。召使いが忙しなく駆け回り、客たちに飲み物を手渡す。ゲイリー達は召使いの方をろくに見もせず、グラスを受け取った。そんな二人に奇異の眼差しを向けて、召使いは去っていく。
中に入った赤い液体を揺らしながら、ユリアスがグラスを掲げる。
たったそれだけで、広間のざわめきが小さくなる。
「今宵は呼びかけに応じて頂き、感謝いたします。特に此度の聖夜祭……年越しの間際で大変な事件が起きたにも関わらず、皆様は集まってくださった。これも、我が国が団結しているという何よりの証拠でしょう。火の国の王族として、これほど嬉しいことはありません」
快活で明朗な声は、誰も彼もを聞き入らせるのに十分なものだ。声音は穏やかだが、確固たる意思が感じられる。ユリアスの恐ろしさを分かっているゲイリーとて、聞き惚れてしまうほどに。
だが同時に、ひどく不安を煽るもので。
ゲイリーの胸騒ぎは、果たして的中した。
「さて……本日は、皆様にお伝えしたいことがあります。水の国の生き残りによる反乱について、既に聞き及んでいることでしょう……そうです。十年前の暗き因縁が、我が国を危機に陥れようとしている。しかも、反乱軍の首謀者は――水の国の王家の生き残りは、銀の騎士として我々のすぐ傍に潜伏していた」
広間が、水を打ったように静まり返った。ユリアスの言葉は、夜会の足元に黒々と横たわっていた、人々の不安を暴く。
ユリアスは憂いを帯びた目を伏せた。
「えぇ、皆さんの気持ちは分かります。フェン・ヴィーズはこの国にとっての良き騎士でした。私個人としても彼……いいえ、彼女のことを高く評価し、信頼もしていた。今でもこの裏切りが夢であれば良いと思います。ですが、現実は立ち止まってくれない」
ユリアスは言葉を切り、ゆっくりと広間を見渡した。
「我々は、祖国を守るために、彼女を討たねばなりません。長く続いた悲しみの連鎖を断ち切り、恨みを終わらせ、憎しみの犠牲者をこれ以上出さないようにしなければ。そして今回……第二王太子であるアッシュ・エイデンが、この大役を引き受けてくれることとなりました」
寝耳に水の言葉に、ゲイリーは危うくグラスを取り落としそうになった。
「やられた……」
色を失くしたオルフェの声音にも、先程までの余裕は感じられない。ゲイリーは慌てて顔を上げる。
「ど、どういうことでぃ?」
「先に公言して、アッシュの逃げ道を塞ぐつもりだ。アッシュがフェンを討つ、っていうことが公然の事実になれば、こっちは反論できない」
「おい……おいおいおい……! そりゃあ、まずいんじゃねぇのかい!? 旦那はどこにいるってんだよ!?」
「……最後に見かけたのは三日前だ。ディール村に行く、と」
「はぁぁ!? こんな大事に、なんで旦那は、あんな辺鄙な村に行ってやがんでぇ……!?」
ゲイリーが思わず声量を上げる。それと同時に、広間の扉が再び開いた。
視線が一斉に向けられる。何事かを囁きあう声が響く。それらを意に介した風もなく、颯爽と歩を進めるのは、渦中の人だ。
十日前の彼とは見違えるほど、きっちりとした出で立ちをしている。
兄と同じ朱の髪は丁寧に整えられていた。黒地に深紅の模様の施された礼服が、歩く度に軽やかになびく。腰に佩いた剣が、微かな音を響かせる。背を伸ばし、まっすぐにユリアスを見つめる紅の目に迷いはない。
そして彼は――アッシュ・エイデンは、ユリアスの前で膝を折り、頭を垂れた。
「遅くなりました、兄上」
感情を感じさせない声音は、常のアッシュの通り。ゲイリーは嫌な予感に駆られる。グラスを握る掌に汗がにじむ。アンジェラの術がかかっていないにも関わらず全身が冷え、指先が震える。
嘘だと言ってくれ。
そう思うゲイリーとは裏腹に、アッシュの低い声は続く。
「無事に反乱軍の場所を特定できましたので、ご報告を、と思いまして」
顔を上げぬ実の弟に、ユリアスは痛ましげに目を伏せた。
「……すまない。君に、このような辛い役を追わせてしまって」
「いえ……元よりあれは、俺に対して主従の誓約をたてたのです。なれば誓いが破られた今こそ、主人が討たねばなりますまい」
「アッシュ……」
「兄上、どうぞ命じてください」
アッシュがさらに深く頭を垂れる。ユリアスは躊躇うような素振りを見せた。だが結局、小さく息を吐く。一度の瞬きで、迷いを消し、意を決したように厳かに告げる。
「……第二王太子よ。我が血を分けた弟よ。反乱の首謀者を討ち取り、我が国に再び安寧をもたらしてくれるか」
「お任せください、兄上。このアッシュ・エイデン、必ずや騒動を鎮め、さらなる栄光をこの国にもたらしましょう」
アッシュの声は、静まり返った広間にひどくよく響いた。
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