第33話 彼女と嘲笑
その日、ゲイリーはいつもの通り、酒場で酒をあおっていた。狭くて小汚くて騒がしい、いつもの店である。そこで、油まみれで塩辛く安いだけが取り柄のつまみを食い、水で何回も薄められたであろう、ぬるい麦酒を煽る。カウンター越しに飛んでくる店主の小言も酒のつまみだ。
ゲイリーがこの酒場に入り浸って早数週間。悲しいかな、彼もまた酒場の景色の一部だ。誰も見向きもしない。天下の吟遊詩人たろう、ゲイリー・ルードマンが嘆かわしい。
けれど……けれど、だ。
酒場の騒がしさはいつも通り。
客同士、好き勝手騒ぐのも同じ。
水で薄めた麦酒の不味さも同じ。
安いだけが取り柄のつまみの塩辛さも同じ。
それでも、今日はいつもと違った。決定的に。絶対的に。
それは、周囲の客がちらちらと無遠慮な視線をゲイリーに寄こしてくる、ということ。
いや、正確にいうなら、ゲイリーの両脇に座った二人に、だが。
「貴方が見つかって本当に良かった……ずっと探していたんだ」
酒場に入るなり、ゲイリーの右隣に腰かけたフェンは、元気にしていたか? と気づかわしげに尋ねた。
美しい銀の長髪は帽子の下に押し隠していたが、人を惹きつけてやまない蒼の瞳は相変わらずである。整った顔立ちが近くにあるのは悪くない。まして、自分を探していたなどと言えば、なおさらだ。
ゲイリーは鼻の下を伸ばした。
「おうおう、久しぶりじゃねぇか。ったく、見つかっちまったものはしゃあねぇよなぁ」
どちらかといえば、むしろ二人に会いたかったのはゲイリーの方なのだが、そんなことはおくびにも出さずにゲイリーは鼻の下を擦る。場の主導権を握るには鷹揚な態度をとることが肝要なのだ。ついでにいうと、話も二割三割増すのが重要である。
「それにしても、騎士サマもよく俺を見つけたじゃねぇの? 俺様の熱狂的なファンに見つからねえようにと思って、ひっそり生きてたんだがなぁ」
「ほう? それにしては随分、悪名高い噂になっているようだがな? お前の酒癖の悪さと借金の多さは」
左隣から冷ややかな声がとんできて、ゲイリーは慌てて首をすくめた。ちらりと見やれば、涼やかな目元に侮蔑の光を宿して、アッシュが自分を見下ろしている。髪の毛は染めたのだろう。色つきの眼鏡のおかげで、瞳の色もよく分からない。けれど、元々の整った顔立ちは隠しようがない。
思えば、ゲイリーの両隣には火の国で一番の人気を誇る二人が座っているのだ。先ほどからアッシュとフェンが身じろぎ一つするたびに、酒場の数少ない女性陣から悲鳴が上がっている。
ゲイリーはため息をついて、唇を尖らせた。
「なんでい、そういうのは男の武勇伝の一つだっての」
「ハッ、物は言いようだな」
「二人とも、喧嘩しないで」
横あいからフェンがたしなめれば、アッシュが面白くなさそうにそっぽを向いた。それにゲイリーは眉を上げる。
「なんだ旦那……ずいぶん、殊勝になったじゃね痛っ!?」
机の下で、アッシュに思い切り足を踏み抜かれた。ゲイリーはアッシュを睨みつける。アッシュは涼しい顔で明後日の方向を向いている。
そんな二人の攻防に気づくことなく、フェンが話を続ける。
「それよりもゲイリー殿。今日は頼みがあってきたんだ」
「頼み?」
「ゲイリー殿は教師に興味がないか?」
「教師だぁ?」
藪から棒の話にゲイリーは胡乱気な声をあげるが、フェンは気にした風もなく、こくこくと頷いた。
「そう、先生だよ……実はディール村、ええと、元々水の国の村だったところなんだけど、そこに学校を建てようってことになって。子供たちに文字を教えてくれる人を探しているんだ」
「ま、待て待て。学校を建てる? そりゃまたなんで?」
「なんでって……村の子供たちは文字の読み書きができないんだ。王都に出稼ぎにでた時に、それじゃあ色々と不便だろう? だから私と殿……グレイさんで学校を建てようっていうことになって」
グレイと言いながら、ちらりとフェンが視線をアッシュに送った。なるほど、それがアッシュの今晩の偽名らしい。そこまでは分かったが、どうして二人が学校を建てるという経緯になったのかは、相変わらずさっぱりゲイリーには分からない。
というか、である。
ゲイリーはフェンとアッシュを交互に見比べた。
「そもそもだな……騎士サマと旦那って、そんなに仲良かったか?」
「そ、それは」
何故かフェンが頬を染めて、顔を俯けた。ゲイリーは目を丸くする。
「え? え? まさかそういうことなのか……? 仲直りどころか、もしかしてヤるとこまでヤってぐえ」
「黙れ」
身を乗り出しかけたゲイリーの首根っこを、アッシュが無造作に掴んだ。一片の容赦もなく、首をぎりぎりと占められて、ゲイリーは蛙のつぶれたような声をあげる。
アッシュの絶対零度の視線がゲイリーに突き刺さった。
「まだ何もしていない」
「ま、まだってことはこれからぐぐぅ!?」
「ゲイリー殿は飲み過ぎて気持ちが悪いそうだ。すまないが、店主に水をもらってきてくれないか」
白々しくアッシュがフェンに声をかける。彼女は何か言いたげだったが、アッシュの剣幕に押され、結局店主を探しに席を立ってしまった。
そうしてやっと、ゲイリーはアッシュから解放される。げほげほと咳き込むゲイリーに、アッシュは鼻を鳴らした。
「余計な勘繰りをするからこうなる」
「よ、余計な勘繰りって、あのなぁ旦那! あんな可愛らしい反応されたら、色々ツッコみたくなるのが人情……いや男ってもんだぜぇ!?」
「これ以上、その汚い言葉であいつを穢すな」
アッシュの声が一段低くなった。紅の瞳が引き絞った弓弦のように細められる。
「永久に黙りたいなら話は別だが」
「ぼ、暴力はよくないと思うぜい……?」
「暴力? とんでもない。然るべき立場の人間として、お前に命令しているだけだ」
まったく悪びれもせずに、アッシュは口元に獰猛な笑みを浮かべる。美しいが恐怖しか感じない。ゲイリーは呆れてため息をつく。その彼に向かって、そうそう、とアッシュは付け足した。
「先ほどの話だが、出発は二日後だからな」
「……は?」
「荷物をまとめて準備しておけ」
「ちょ、ちょっと待て待てい! 俺はまだ一つも了承してないぜぇ!?」
ゲイリーは勢いよく机を叩いて立ち上がった。周囲の視線が集まる。けれどアッシュは動じた様子もなく、片眉だけを器用に上げて見せた。
「驚いたな。お前に拒否権があるとでも?」
「人権だよ人権! いくら心の広いゲイリー様でもだなぁ、権力の乱用には屈しないぜい?」
「それは残念だ、報酬も十分弾むつもりだったが」
「……ぐ、ぬぬ……か、金で釣られる軽い男と思うんじゃあ、ねえぞ……?」
「半年で銀貨十枚」
掲示された大金は、ゲイリーの羽よりも軽い矜持をあっさりと吹き飛ばした。
「やるやる! ディール村でもどこでも行くぜい!」
揉み手をしながら、ゲイリーは意気揚々と頷く。アッシュが呆れたように見ていたが、それさえもゲイリーにとってはどうでもよかった。
世の中、結局金である。まさにこれ、真理なり。胸中で名言に酔いしれながら、ゲイリーは満面の笑みでアッシュの肩に腕を回す。アッシュが露骨に顔をしかめる。が、上機嫌のゲイリーには、そんな些細な事が心底どうでもいい。
ゲイリーは破顔した。
「いようし! そうと決まれば、今日は飲むぜい! さらば愛しき王都! おいでませ未開なる旅路ってワケだ!」
*****
ごったがえする酒場の中、フェンはなかなか店主を見つけられないでいた。カウンターにいなかったことから察するに、どこかに注文を取りに行っているのか、はたまた厨房にでもいるのか。
店自体は、そう広いものでもない。ただ、客のほとんどが、がたいのいい男たちで、見通しがきかなかった。彼らをなんとか押しのけながら進む。
汗と安物の酒の臭い、そして人いきれ――少しばかり頭が痛くなったところで、フェンの腰元に誰かがぶつかった。
「っ、すまない……! 大丈夫か?」
フェンは慌てて身をかがめる。ぶつかってきた相手は、女性のフェンと比べても随分背が小さかった。ぼろぼろのコートをまとって顔を俯けている。何かを言うそぶりもない。
どこか怪我でもしたんだろうか。そう思って顔を覗き込んだフェンは、あ、と小さく声を上げた。
警戒したような目でフェンを見つめているのは、一人の少女だ。そしてその顔には見覚えがある。
「君……あの夜会の時にいた……」
「……夜会?」
「そう。覚えてないかい? ちょっと前の、爆発騒ぎのあった……」
そう言いさして、フェンはハタと言葉を止めた。少女の胡乱な目つきで自分の過ちに気づく。
そうだ……彼女を酔った男たちから救った時、自分はドレスを着ていたのだった。けれどどうみたって、今の自分は男の恰好である。
「あ、あー……ええと、僕の妹が夜会に行っててね? 君を助けたって聞いたんだけど」
苦し紛れの言葉は白々しい。
「シルヴァリー様ですか! その名前はもちろん……!」
「良かった、覚えてくれてて」
「ええと……じゃあお兄さんは、シルヴァリー様のお兄さん、なんですか?」
「う、うん。そんなところ」
誤魔化すようにフェンが笑みを浮かべれば、少女が頬をほころばせた。フェンはほっと息をつく。
「まさかこんなところで会えるなんてね……ええと、君の名前は……」
「リンです」
リンと名乗った少女は、興奮したように応じた。その瞳は憧れからか、きらきらと輝いている。
「あ、あの……! シルヴァリー様には本当にお礼を伝えて頂きたくて……っ。あの時は助けて頂いて、本当にありがとうございました……!」
「そんな……顔を上げて? 当然のことをしただけだよ……って、僕の妹も言ってたし」
「えぇ。でも、あんな風に使用人を庇ってくださる方もいませんでしたし……。特に私の場合はこの国の人間じゃないから」
リンの瞳にさっと暗い影がよぎる。けれどそれをフェンが追求する前に、リンが小首をかしげた。
「それより……お兄さんはどうしてここに?」
「お忍びのお供ってとこ、かな」
フェンは片目をつぶっておどけて見せた。唇に人差し指を当てる。
「僕の主人の護衛でね」
「護衛、ですか?」
「うん。貴族の生活に飽きたから、平民の生活も見てみたい、ってさ」
「そう、なんですか……」
「それより、君こそあれから大丈夫だったかい?」
「それは……」
リンが顔を伏せた。そこでフェンは、リンの顔が記憶にあるものより青白いことに気づく。頬も少しばかりこけていた。
なにか、問題でもあったのだろうか。フェンの胸が嫌な予感でざわつく。リンに仔細を尋ねようと口を開く。
その時だ。
「――いい気になるなよ!」
怒号が響いた。フェンは反射的に、リンを庇うように抱き寄せる。その直後だ。
派手な音を立ててテーブルがひっくり返る。皿とグラスが割れて飛び散る。二人の男がフェン達の傍に倒れこんできた。
老いた男と、顔にやけどの跡がある壮年の男だ。二人とも同じような出で立ちをしている。薄汚れた衣服。あちこちすり切れたフードの裾に、床に零れた麦酒の染みが広がる。
「黙って聞いてりゃあ、なんだって?」
そんな彼らを見下ろすのは、酔いで顔を赤くした男たちだ。天井に吊るされた
「礼儀がなっとらん、だぁ? こんな酒場で礼儀も糞もあるかよ、なぁ?」
彼らが周囲の人間に同意を求めれば、客の中から自然とせせら笑いが起こった。
床に倒れこんだまま、老いた男が顔を歪める。
「はっ、こういうところだからこその礼節じゃろうが……! まったく嘆かわしいわ! 若者が夜遅くまで酒に入り浸るなど!」
「ジジイがぐちぐちうるせえんだよ! あのなぁ、この王都じゃこれが普通なわけ。常識なんだよ、じょーしき!」
「こんなものが常識? 流石は火の国の民じゃな! 底が知れる!」
「ああん? お前もこの国の人間だろうが!」
「はっ! わしらが? 火の国の人間?」
老いた男が顔を歪めて、唾を床に吐いた。
「馬鹿を言え……! 我らは誇り高き水の国の民! お前らのような下種と一緒にするでない!」
老いた男の声に、場が一瞬静まり返った。フェンの腕の中でリンが身を固くする。
どっと笑い声が起こった。
「水の国……水の国だって? ぶははっ! 何年前の話だよ!? そんな名前の国、もうねぇだろうが!」
「それこそ、俺たちの国に滅ぼされたんだろ! えぇ?」
「田舎くせえと思ったぜ! 服もおんぼろだしよ! あんな国の生まれなら、そりゃあ、そうもなるよなぁ!」
露骨な嘲笑が幾つも降ってくる。フードをまとった男たちの顔が強張り、拳が握られる。フェンは耐えきれなくなって声を上げようとする。
けれど投げつけられる侮蔑の言葉を止めたのは、そのどちらでもなかった。
「――あんたたちが、そんなだから」
喧噪の中で、響いたのはリンの声だ。暗く、淀んだ声音。さして声を張り上げたわけでもない。だというのに、その場の視線が一斉に集まる。
「……リン?」
フェンを押しのけて、リンがふらりと立ち上がる。ひた、と自分たちを嘲笑する男たちを見据える。能面のような表情だ。だが幼いがゆえに、その瞳に隠しようもない憎悪の光が躍る。
「だから私たちが苦労してるんじゃない……っ!」
リンが懐から何かを取り出した。
布の入った小瓶。どこからともなく漂う、甘ったるく苦い香り。小瓶の中で、ゆらりと揺れる透明な液体。
「っ、駄目だ……!」
フェンは反射的に手を伸ばした。けれどリンを止めることは叶わない。
小瓶が、男たちに向かって投げつけられる。男たちは馬鹿にしたように小瓶を避ける。小瓶が燈籠に当たる。
そして燈籠の中の蝋燭と、小瓶が触れ合う。
瞬間、爆発音とともに、炎が生まれた。
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