第45話 彼と友

 王城の一室、朝日の差し込む部屋で、オルフェは一人仕事をこなしていた。

 羽ペンが、紙をひっかく音だけが静かに響く。作物の買い付けにかかった資金、これからの季節に売上が上がるであろう商品、積荷を積んだ馬車が通るべき経路。いつもどおりの文面を、いつもどおりに読み、処理をする。時たまに部屋を訪ねてくる商人や貴族の相談に乗ることもあった。それが終われば、また書類に目を通して。


 あんなことがあっても、変わらず自分は過ごせるのだ。自嘲めいた寂寥感は、オルフェの手を止めさせるのに十分だった。

 羽ペンを置く。目元を揉みながら椅子の背もたれに背を預ける。背後に広がる窓へと目をやる。


 アッシュが目覚めたのは、昨晩の日付が変わろうかという頃だった。あれからまだ半日も経っていない。

 冬の日差しは、昨晩ろくに眠れもしなかったオルフェにとっては眩しすぎるものだった。広がる空の青さでさえ。けれどこれもまた、いつもどおりの光景だ。火の国の王都は冷え込みはするが、雪は滅多に降らない。何かを嘆くように雪が降り注いだ、ここ四日間が異常だったのだ。


 だからこれは、いつもどおり。

 王都の中心で、反乱軍が決起しても。

 銀の騎士が、この国を裏切ろうとも。

 アッシュが、どのような決断をしようとも。


 相変わらず世界はいつもどおり回り、相変わらず自分はいつもどおり仕事をこなしている。

 ルインが死んだ時から、変わらない。


「……薄情だな」


 ぽつりとつぶやいて、オルフェは静かに目を閉じた。疲れがどっと押し寄せてくる。昨晩、医務室を出際に、ゲイリーともどもアンジェラから薬湯をもらったのだが……この分だと、今夜ももらった方がいいかもしれない。


――お、俺は謝らねぇぞ……!


 不意に耳障りな声が蘇って、オルフェは我知らず顔をしかめた。

 声の主はゲイリーだ。あの醜男は、行くあてがないからといって、オルフェの屋敷に上がりこんでいる。図々しい態度は評価できなかった。身なりも粗野だし、言葉遣いにも品がない。普段のオルフェならば、絶対に寄りつかせないタイプの男だ。


 だが彼は、激情のままにアッシュを平手打ちした。

 オルフェの屋敷にたどり着いた時でさえ、アッシュに憤慨していた。


 それは……その一点だけは、オルフェにとって羨ましいもので。


 瞼を上げ、ぼんやりと空を見上げる。冬の青空は曖昧な色だ。拭えば消えてしまいそうな薄さの雲が滲んでいる。

 自分とアッシュが、腹を割って話したのはいつのことだっただろうか。

 微かな胸の疼きと共に、オルフェがそう思った時だった。


 扉を叩く音が響く。返事を待たずに開かれる。現れた人物に、オルフェは居住まいを正すことも忘れて、目を丸くした。


「……アッシュ」


 彼は昨晩と変わらぬ出で立ちだった。髪も乱れたままだ。顔色もどこか疲れて見える。けれど。


「話がある」


 そう言った、彼の赤の瞳は、オルフェを真っ直ぐに捉えていた。



*****

 

 部屋は、ひどく静かだった。

 オルフェとアッシュはテーブルを挟むようにして、ソファに座っている。そのテーブルの上では、先程オルフェの従者が持ってきたお茶が置かれていた。

 冷めきったそれは、今やオルフェの表情を映すだけの鏡になっている。


「……話っていうのは」


 オルフェは、やや顔を俯けながら、ぼそりと問うた。それが精一杯だった。

 視界の端で、アッシュが静かに目を閉じる。そして、ゆっくりと瞼を上げる。


「お前に、協力して欲しい」

「……人殺しに協力しろって?」

「違う」

「違う?」

「俺は、あいつを助けようと思う」

「なんだそれ」


 オルフェは疲れたように笑った。


「昨日と言っていることが真逆じゃないか」

「分かっている」

「今度はどんな最低な嘘で俺を騙してくれるわけ?」

「騙すつもりはない」

「ははっ……そうだな。そうだよな。俺が勝手に踊らされて、騙されたってわけだ」

「オルフェ」


 アッシュが僅かに語気を強めた。オルフェはぴたりと卑屈な笑いを止める。

 目の前の男の表情は微動だにしない。何を考えているのか、読めない顔。

 それが無性に腹立たしくなって、オルフェはアッシュを睨みつける。


「……俺が、お前を信用できると思うか?」


 アッシュが再び目を閉じた。無言の肯定に、オルフェの胸が僅かばかり清々する。

 あとに残るのは引き攣れるような痛みだけだ。それを無視するように、オルフェは膝の上で拳を握りしめる。


「お前は肝心なことを何も言わなさすぎるんだ。だから信用できない」

「…………」

「正直今でも測りかねてるよ。お前が正しいのか、ユリアス殿下が正しいのか。それともどちらも間違っているのか」

「……それもこれも、俺がルインを死なせたせいか」


 重い口を開いたアッシュに、オルフェは口角を上げた。

 十年間ずっと待ち望んでいた答えは、暗い満足感と計り知れない心の痛みをもたらす。


「分かってるじゃないか。そのとおりだ」

「…………そうか」

「おかしければ笑えばいい。十年も前のことを引きずってる俺をさ」

「いいや、笑わない……笑えるはずがない。お前の言うことは正しい」


 歯切れの悪かった返事は、最後の最後だけ明瞭だった。

 虚をつかれたオルフェは思わず言葉を止める。

 アッシュの紅の目が、再び自分を捉えた。

 その瞳には憂いが滲んでいる。

 けれど同時に決然とした光も宿っている。


「だからオルフェ……お前は、信用しなくていい。俺のことを」

「……は?」


 アッシュは目を細めた。うろんげな声を上げるオルフェに向かって、彼はゆっくりと言葉を続ける。


「お前が俺を信用出来ないのは、俺の責任だ。そういう態度を示してこなかったからな。ルインのことだって……この十年、俺はちゃんとお前と話してこなかった。お前が俺を恨んでいるだろうと、思いながらも、だ」

「……今更、そんなこと言うわけ」

「お前には、俺を恨む権利がある」

「…………」

「十年前の……あの選択は最善ではなかったかもしれない。でも、あのときの俺は、あれ以上の選択ができなかった。その弱さがルインの死を招いたのだから、俺があいつを殺したも同然だ」


 これもまた、待ち続けてきた答えに違いなかった。アッシュの選択がルインを殺した。どんなに綺麗事を並べ、逆恨みに等しいと分かっていたところで、オルフェの中でそれだけが真実だった。


 だからきっと、自分は彼を嘲笑うべきなのだ。オルフェはぼんやりと思う。

 彼をここぞとばかりに責めるべきだ。十年間、蓋をしてきた恨みも悲しみも彼にぶつけて、彼を傷つければいい。あるいは、今この場で彼を見捨てるだけでもよかった。

 それだけで、きっとルインは浮かばれるはずで。自分が抱えてきた苦しみも、消えてなくなるはずで。


 けれど結局、口から転がり出てきた言葉は、たった一つの質問だけだった。


「謝ろうっていう気はないのか? ルインが死んだことを」


 アッシュの顔が僅かに歪んだ。それでも静かに首を横に振る。


「……それは、できない。謝れば俺はあいつの死の責任を放棄することになる」


 どこまでも下手くそで、どこまでも彼らしい答え。

 それはしかし、オルフェが一番求めていたかもしれない、答えで。

 何も言えなくなってしまったオルフェを、目の前の男はどう捉えたのか。

 彼はゆっくりと頭を下げた。


 頼む、協力してほしい、と、そう言って。


「俺は全部を救って、この事件を終わらせるつもりでいる。火の国も、水の国も、フェンのことも。そのためには、お前の協力が必要だ。お前だけじゃない。多くの人の力が」

「…………」

「その過程で、見極めてくれればいい。俺がお前の信用に足るのか否か」

「……俺がお前のことを裏切るとは思わないわけ?」

「思わない」


 アッシュは言い切った。頭を上げる。表情はもう、常の仏頂面に戻っている。彼が何を考えているのか知ることは難しい。それでも、その目は自信に満ちている。


 そう、それはまるで自分たち兄弟が、最初に出会ったときの彼のようで。


「お前を失望させるような真似は、もう二度としない。絶対に」

「……なんだ、それ」


 力強く言い切る、その言葉にオルフェは思わず吹き出した。アッシュが眉根を寄せる。なぜ自分が笑われているのか、分かっていないに違いない。


 だが当然だろう。

 アッシュのやり方は、下手くそだ。言葉巧みに人心を掌握するユリアスとは大違いだと思う。

 そこは信頼を勝ち取ってから協力させるところなんじゃないの、とか。形だけでも謝って、俺を信用させればいいのに、だとか。目の前の男に言いたいことは山程あった。

 けれど結局、こういう不器用な方法しかとれないところが、彼らしさなのかもしれない。


 そして、叶いそうにもない夢を、本当に叶えてしまうところが。


 オルフェは笑みを収めて、一つ息を吐いた。


「俺が一番我慢ならないのはね、ルインの発明品が……小瓶が悪用されていることだ。それさえできれば、水の国とか火の国とか……フェンのことだってどうでもいい。君の事情なんか、どうでもいいんだ。正直に言うとね」

「あぁ、分かっている」

「でも、」


 オルフェは顔を上げた。アッシュの目を真っ直ぐに見つめる。

 責任感が人一倍強いくせに、どうしようもなく不器用な友を。


「……小瓶の犯人を本当にお前が止められるっていうんなら、協力しようじゃないか」

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