第44話 彼と答え
夜闇に包まれた王城は、ひっそりと静まり返っていた。遠く、深夜を告げる鐘の音が響く。
その中をアッシュはひたすらに歩く。足早に、ただひたすらに。そして辿り着いた先の扉を、音を立てて開けて、閉じた。
見慣れた自室だ。雪を孕んだ風が灰色の窓を叩いている。執務机、ソファ、火の消えた暖炉、窓辺に置かれた
机の上に山積みになった、ディール村に関する書類でさえ。
彼女との思い出でさえ。
「……っ」
アッシュは奥歯を噛み締め、紙の束を叩き落とした。一度そうしてしまえば止まらなかった。書類を破り捨てる。床に散らばった紙を踏みつける。炎の消えた燭台を床に叩き落とす。
呻き声を上げる。何もかもが壊れる音だけが響く。傷が責めるように痛む。それがますますアッシュを苛立たせる。
綺麗ごとを言うな、と叫んでやりたかった。
ゲイリーに。
あるいは己自身に。
十年前の、あの戦争を思い出す。
誰も彼もを救いたいと、青臭い理想を掲げたあの日を。
誰も彼も救えず、ルインが死んで幕を閉じたあの日を。
理想の無力さを思い知ったあの日を。
綺麗ごとだ。綺麗事なのだ。何もかも救いたいなど。
誰かを守りたいのなら、何かを捨てなければならない。
一を捨てねば、万を守ることも叶わない。
それがこの国の王族として正しい結論なのだ。
そのはずだ。
その選択肢しかないのだ。
自分には。
だから。
まとまらぬ思考でそう思う。幾度目か分からぬまま、再び紙の束を乱暴に掴む。手の中で、乾いた音を立てて紙が歪む。細やかな筆跡で記された文字が歪む。彼女の記した文章が歪む。
アッシュは、ぴたりと動きを止めた。呼吸が、僅かに乱れた。
彼女の筆跡を震える指でなぞる。
不意にフェンの声が耳朶を打った。
理想ばかりを語る、自分の大嫌いな、彼女の声が。
――誰かを犠牲にして手に入れる幸せが、本当の幸せのはずがない。
違う。それはただの絵空事だ。
――皆に幸せでいてほしいんです。そう願うことの何がいけないんです? 夢をみなきゃ、叶えることだってできない。
違う。夢は叶わぬものだから夢なのだ。
――過去の貴方を許すとはいえない……でも私は、今の貴方を信じたい。
……違う。
自分は、信頼に足る人物なんかじゃない。本当の自分を知れば、きっとお前も軽蔑するだろう。
ユリアスの策略に気づいておきながら、国のためと言い聞かせて、見て見ぬふりをした自分は。
誰かが死ぬことを恐れて、理想を諦めてしまった自分は。
結局のところ、自分の選択で誰かが傷つくのが嫌なだけなのだ。
だから大儀の掲げられた選択を選んでいるだけなのだ。
自分は弱い。弱くて愚かだ。お前と違って。
そしてそんな自分を、お前は、きっと。
――いいんですよ。
最後の最後、響いた彼女の声が、アッシュの思考を止めた。
記憶が鮮やかに蘇る。
黄昏色の空。太陽が地に落ちる寸前の光が染め上げる空気の中で、彼女は微笑んでいる。
その声は、ひどく穏やかだった。
その手は、アッシュが越えられなかった距離を容易く飛び越えて、彼の手を包んでいた。
そして彼女は言うのだ。
殿下が信じられない分、私が信じますから、と。
蒼の瞳を美しく煌めかせて。
そしてそんな彼女を……自分がとうの昔に諦めてしまった理想を信じ続けるフェンを。
愛おしいと、守りたいと、思ったのではなかったのか。
彼女を救って、彼女の愛する何もかもを守りたいのだと、そう思ったんじゃなかったのか。
他ならぬ自分が。
自分自身が。
ならば。
「……っ」
声にならない声が漏れる。その場に崩れ落ちる。
くしゃくしゃにゆがんだ紙を、アッシュは胸にかき抱いた。
「……くそったれ!」
己の弱さに悪態をつく。徐ろに左肩の傷に手を伸ばす。躊躇いなく傷口を掴む。激痛が頭を叩く。それに構わず力を込める。指が食い込み、纏う服にジワリと赤が滲む。
その痛みはしかし、アッシュの目を覚まさせるのには十分だった。
うるさいほどに響いていた風の音は止んでいた。
窓の外の空は白み始めていた。
弱々しく差し込む冬の朝日が床に散らばった紙を照らしていた。
――騎士サマは自分の全部をあんたに賭けて覚悟決めてんだよ! なら今度は、あんたが腹くくる番だろ!?
「……いいだろう、やってやろうじゃないか」
アッシュは呟く。他ならぬ自分自身に向かって。
そして彼は、決然と顔を上げた。
こんなにも弱い自分を、それでも信じるのだと彼女は言う。
ならばやってやろうじゃないか。
全部、終わらせてやる。
火の国の民も、水の国の民も、誰も犠牲にせずに。
お前を、救ってやる。
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