終章 愛しい人

第43話 彼と後悔

 炎が燃え盛っていた。

 赤が舞う。降り注ぐ雪は炎に触れるたびに煌めて溶けていく。十年前のあの日にひどく似た光景が目の前にある。

 その中で、彼女は笑う。銀の髪を煌めかせて。蒼の瞳を細めて。

 そうして言うのだ。


 さよなら殿下、と。

 自分たちの間にはまるで何もなかったような顔をして。



 ならば、自分は、どうすべきなのか。



 彼女が反乱軍を率いる水の国の王女で。

 自分が水の国を滅ぼした王家の人間であるというならば。



 自分は。



*****



 泥沼から引きずり上げられるような気持ち悪さと共に、アッシュは目を開けた。細かな文様の施された天井。鼻先を微かにくすぐる薬草の香り。夜闇に染まった窓に向かって、雪が吹きつけている。身を起こす。左肩に鈍く痛みが走る。


「旦那!」


 安堵の声と共に、視界に影が差した。目線を上げれば、相好を崩したゲイリーの姿がある。壁に背を預け、物憂げな様子でこちらを見やるオルフェの姿もあった。


「お目覚めのようね」


 部屋の奥から、見知らぬ女性が姿を現した。騎士団の医療班の服をまとっている。少しくたびれた様子の彼女は腕を組み、アッシュをじろりと見やった。


「その分だと、特に悪いところはないって感じかしら」

「……お前は?」

「アンジェラよ。ここは私の医務室で、あんたはここに運ばれてきた患者ってわけ」


 アンジェラはそうとだけ答えて、僅かに目を細めた。患者を労わるというよりも、品定めするような目つきだ。だが結局何も言わず、肩をすくめる。

 目が覚めたようなら、薬湯を持ってくるわ。そうとだけ言い残して、彼女は再び部屋の奥に消えていく。

 ゲイリーが安堵したように息をついた。


「よかった……本当によかったぜい旦那……! 一時はどうなるもんかと……!」

「…………」

「いやぁ、旦那を見つけた時は心臓が止まるかと思ったぜ! まさかそんなに酷ぇ傷を負ってるとは思わなくてよ……そこの兄ちゃんがここまで運んでくれなかったら、どうなってたことか。挙句、三日間も目を覚まさねぇし。というか旦那。大丈夫だよな? ここまではちゃんと記憶があるかい?」


 ゲイリーの不自然なまでに明るい声は、どこか遠い。

 アッシュはゆっくりと視線を下げた。皺ひとつない毛布の白は、薄暗い部屋の中でも眩しい。記憶。一拍遅れて、ゲイリーの言葉へ理解が追いつく。記憶だ。意識を失う前の。

 アッシュの手の中で、毛布に皺が寄った。

 左肩に痛みが走る。けれどそれもまた、どこか人ごとのようで。

 アッシュは静かに口を動かした。


「オルフェ。兄上から何か言伝はあるか」


 絶え間なく話していたゲイリーの声がピタリと止まった。

 痛いほどの静寂が訪れる。

 風が窓を揺らす。


「……傷が癒え次第、反乱軍の制圧に向かえ」


 耳に届いたオルフェの声は硬い。

 けれど予想通りの答えは、胸を露ほども揺らさなかった。

 アッシュは目を細める。顔を上げる。強張った表情のオルフェをまっすぐに見据える。


「それだけか?」

「……それは……」

「オルフェ」

「……反乱軍を率いている首謀者は討つように、と」

「……そうか」

「ま、待て待て待て!?」


 呆然と二人のやり取りを聞いていたゲイリーが、血相を変えた。


「旦那、あんたまさか、騎士サマを殺しに行くつもりじゃねぇだろうな!?」

「…………」

「おい、旦那!」


 ゲイリーの喚き声を無視して、アッシュはゆっくりとベッドから出た。ふらつく足取りで扉へ向かう。体が重い。さりとて、休んでいる暇もない。

 一度、自分の部屋に戻り、服装を整える必要があるだろう。剣も調達する必要もあった。それからユリアスの下へ向かって。それで。


「おい、聞いてんのかい!?」


 不意に腕が掴まれた。緩慢な動作で振り返る。頭一つ分低い位置だ。ゲイリーが顔を歪めている。その表情がしかし、なんの脅しになるというのか。

 まるで現実感のない光景に、アッシュは口角を吊り上げた。

 乾いた笑みを浮かべた。


「なんだ」

「あんた……何をするつもりなんでい?」

「……フェン・ヴィーズは、この国を裏切った。ならば、それ相応の罰を受けねばならない」

「馬鹿言ってんじゃねぇ! 騎士サマはそんなことする奴じゃねぇだろう!?」


 怒りに目を燃やしたゲイリーが詰め寄る。

 アッシュはその手を無造作に払いのけた。


「この目で、あいつが反乱軍を率いているのを見た。あの時、あの場にいる兵士も目撃しているだろう……ならばそれが事実だ。この国にとって」

「なんだよ……それ……」


 ゲイリーが唇をわななかせた。はらわれた手を所作なげに宙に浮かせたまま、緩く首を横に振る。


「信、じられねぇ……そんなことで、騎士サマを裏切るってのか……?」

「……先にこの国を裏切ったのは、あいつの方だろう」

「そういうことを言ってるんじゃねぇ!」


 ゲイリーが声を張り上げた。その目は怒りに燃えている。


「騎士サマはな! あんたを助けるために芝居を打ったんだよ! 俺ぁ全部見てきた! 必要なら全部話してやったっていいんだぜ!?」

「はっ、笑わせてくれるな。道理で、お前が都合よく俺を見つけた訳だ」

「あぁあぁそうさ! そいつも騎士サマの指示だからな! でも俺が言いてぇのはそこじゃねえんだよ!」

「そうだな、その通りだ」

「じゃあ……!」

「いずれにせよ、あの女がこの国を裏切ったという事実に変わりはない」


 アッシュは無表情に斬り捨てた。ゲイリーがあんぐりと口を開ける。


「なん、だって……?」

「フェン・ヴィーズが反乱軍の首謀者である、という事実に変わりはないと、言っているんだが?」

「そういう……そういうことを話してるんじゃねぇんだよ! 旦那だって本当は分かってんだろ!?」

「この場で議論すべきなのは、そういうことだ。お前の邪推じゃない」

「……っ」


 アッシュが一睨みすれば、ゲイリーは顔を俯けた。ぶるりと手を震わせる。オルフェの瞳に名状しがたい感情がよぎる。風が窓を叩く。静寂が再び落ちる。

 呆気ない。アッシュは軽蔑の視線を向けた。

 弱者は弱者らしくしていればいいのだ。無感動に思う。そして。


 歯ぁ食いしばれ。ぽつりとゲイリーの声が響いた、そう思った瞬間だった。

 ゲイリーがアッシュの頬を思い切り殴りつけた。

 アッシュは思わず目を見開く。


「お、俺は謝らねぇぞ……!」


 拳をぶるぶると震わせながらも、ゲイリーはアッシュを睨みつける。


「あんたが何を疑おうが、構わんさ! だがな! あんたを助けるって言った時の騎士サマは、間違いなく本心で話してた! 騎士サマはあんたを信頼してたんだ! 王太子とか火の国とか関係ねぇ! あんた自身を!」

「…………」

「旦那なら、何もかも上手く終わらせてくれるって、信じてたんだ! 騎士サマは自分の全部をあんたに賭けて、覚悟決めてんだよ! なら今度は、あんたが腹くくる番だろ!?」

「…………っ」

「なぁ旦那! あんたは本当に、騎士サマが何を考えていたか、分からねぇってのか!?」

「分かっている!」


 アッシュは声を荒げた。ゲイリーの胸倉をつかむ。肩に鋭い痛みが走る。

 責め立てるような痛みに、アッシュは顔を歪めた。


「分かっているに決まっているだろう! あいつがどういう思いで俺に剣を向けたのか!」


 記憶が途切れる、その直前。彼女は間違いなく、アッシュの胸元へ向けて剣を振り下ろそうとしていた。

 なのに自分は生きていて、傷は左肩にあるだけだ。

 それが何を意味するのか、分からないはずがない。


 彼女の言葉の真偽が、分からないはずがないのだ。


 けれど。


「だが、だからなんだ!? 俺はこの国の王族で、あいつは敵国の王女だ! そうである以上、この選択肢を選ぶしかないだろう!」

「そんなもん、言い訳だ! あんたには覚悟がねぇだけじゃねぇか!」 

「覚悟だと!?」

「ビビってるだけだよ! あんたは! 全部上手くやる自信がねぇんだろ!? だから騎士サマを救う道が選べねぇんだ!」


 ゲイリーの悲鳴のような声が鼓膜に突き刺さる。アッシュは奥歯を噛み締めた。舌打ちと共にゲイリーを投げ捨てる。

 扉へ向かう。乱暴にそれを開く。がらんとした廊下では、風が窓を揺らす音だけが響いている。背後ではゲイリーが喚いている。やけに耳につく音に顔をしかめる。

 それでもアッシュは躊躇なく、闇に包まれた廊下へ足を踏み出した。



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