第42話 世界で一番あなたがきらい

 アッシュは闇夜を馬で駆けていた。王城を出てから、大した時間は経っていない。そのはずなのだが、冷たい針のような焦りと緊張が自分の歩みをひどく鈍らせている気がした。

 白く煙る息を吐き、目指すべき空をちらと見上げる。僅かに雪の舞う夜空には、ありえない光景が広がっている。


 漆黒であるべきはずの空が、紅色に染まっていた。建物の隙間からは、天に浮かぶ月をも焦がさぬ勢いで燃え盛る炎が垣間見える。


 馬が不穏な空気を感じ取ったようにいななく。それをいなすこともせず、暗闇の中でアッシュは唇を噛み締める。手綱を握る手に力がこもる。少しずつ喧騒の大きくなる路地を駆け抜ける。

 ここに来るまでのやりとりが、彼の脳裏に一気によみがえった。


*****


「何をしに来た?」

「別に何も?」


 暖炉の炎が薄暗い部屋を橙色に染めていた。必要最低限の――けれど贅の尽くされた家具が、炎に照らされて長い影を床に落とす。窓の外に細い銀の月が浮かぶ。


 王城の一室。アッシュが軟禁されている部屋に、ユリアスは供も連れずに訪ねてきた。いつもと変わらぬ微笑を浮かべ、ご丁寧にもワインを手土産に。

 アッシュが無言で睨みつける先で、ユリアスが肩をすくめて見せる。


「いやだな。そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。たった二人の兄弟だろう? 君のことが心配で、様子を見に来たんだよ」

「詭弁だな」

「可愛げがない」


 ユリアスは呆れたように失笑して、部屋の中へと歩を進めた。勝手知ったる様子で、ワインの瓶をテーブルに置く。緻密な紋様の刻まれた棚を開け、ワイングラスを取り出す。


「余裕がないね。軟禁状態とはいえ、もう少し身なりには気を使うべきだよ? こういう状況だからこそ」

「こういう状況に追い込んだのはお前だろう……!」

「私が? これは驚いたな……なるべくしてなっただけのことじゃないか」

「笑わせるな。仕組んだんだろう? なるべくしてなるように」


 アッシュが呻く。グラスを手に、ユリアスが振り返った。

 変わらない笑み。その奥底に、嘲笑するような光が宿る。


「手がかりもない憶測は、ただの言いがかりだよ。アッシュ」

「…………」

「あぁ、すまないね。君がこんなにも躍起になるのは久しぶりだから……つい本気で答えてしまったよ」


 僕もまだまだ未熟だね。柔らかな声音は薄暗い空気に溶けずに漂う。暖炉の中で炎が爆ぜる。グラスをテーブルに置き、ユリアスはワインを注いだ。

 赤黒い液体が、器の中でゆらりと揺れる。

 ユリアスがグラスの一つを手に取る。立ち尽くすアッシュに向かって、それを掲げて見せる。ユリアスの背後で、夜空の月が雲で陰る。


「さぁ。祝おうじゃないか。今日という日に」

「……何だと?」


 聞き捨てならない言葉にアッシュが眉をひそめた時だった。


 窓の外で、赤が閃く。


 アッシュは息をのんだ。慌てて窓に駆け寄る。

 火の元は見えない。王城の外であり、王都の中心。あの方角にあるのは、フェンと待ち合わせに使ったこともある大広場。分かるのはそこまでだ。

 それでも紅蓮の炎が、夜空を焦がす様がありありと見えた。闇に沈んでいるべき王都の建物が、赤黒い光に照らされている。

 ただの火事で収めるには、あまりにも火の手が強い。

 何が、とアッシュが問うより早く、扉の外が俄かに騒がしくなる。

 振り返ったアッシュの目の前で、勢いよく扉が開いた。オルフェが息せき切った様子で入ってくる。その顔はひどく歪んでいる。


 やってくれたな。荒い呼吸の間にオルフェが吐き出した言葉は、果たしてアッシュとユリアスどちらに向けられたものだったのか。

 ユリアスが微笑み、アッシュが顔を強張らせる目の前で、オルフェは苦々しげに言葉を続けた。


「……水の国の民が、暴動を起こした。率いているのはフェンだ」


*****


 オルフェの言葉を聞くや否や、アッシュは部屋を飛び出していた。

 彼を止める者など誰もいなかった。突然の暴動で、ほとんどの兵士が慌てふためいていた。そのせいであれば、まだ良い。だがきっと、それだけではあるまい。アッシュは確信する。

 十中八九、ユリアスが制したのだ。不審火の事件の真犯人が現れ、アッシュの冤罪が証明された。兵士たちにそう宣言したのだろう。まるで全てが偶然の積み重ねで起こったかのように装って、自分の弟の無実を喜んで見せたに違いない。


 全て同じだ。十年前のあの日と。

 ルインが自殺した時、ユリアスは若き研究者の不慮の死を嘆いてみせた。

 その状況と今の状況の、何が違うというのだろう。


 ユリアスの思惑通りに、全ての偶然が起こる。


 アッシュは奥歯を噛み締める。細い路地が終わる。視界が唐突に開ける。馬から飛び降りる。

 炎が、広場を覆いつくしていた。

 舞い散る白雪が、火に触れるたびに煌めいて消える。見覚えのある噴水が紅蓮の炎に照らされ煌々と輝いている。火と煙に紛れて、兵士と粗末な身なりの男たちが剣を交えている。怒号と剣戟。そして揺れ踊る業火の狭間。


 目的の人物は、噴水の前に立っていた。

 銀の髪が惜しげもなく炎にさらされて舞う。

 蒼の瞳に、炎の赤が躍る。


 そうして彼女は、笑った。剣の切っ先をアッシュに向けて。


「待っていたぞ。アッシュ・エイデン」

「フェン……」


 予感はしていた。それでもアッシュの声は僅かに震えた。剣が向けられているにも関わらず、体が動かない。そしてそれがいけなかった。


 フェンがアッシュに躍りかかる。迫る刃を、アッシュはかろうじて交わす。体勢が崩れた。その隙を見逃さず、フェンはアッシュの脇腹に蹴りを入れる。

 アッシュは小さく呻いて、仰向けに地面に倒れこんだ。フェンはすかさず、アッシュの体を跨ぐようにして膝をつく。アッシュの首元に、冷たい切っ先を宛がう。

 アッシュを見下ろし、フェンは嘲笑った。


「どうした? 火の国の王太子ともあろう者が情けない。こうも弱い男に我らの祖国が滅ぼされたとはな!」

「っ……なぜだ!? どうしてお前が、そちら側にいるんだ! フェン・ヴィーズ!」

「分かりきったことを。私は水の国の巫女で、最後の王族だ」


 冷え切った口調は、アッシュの記憶の中にある彼女とは似ても似つかぬものだった。

 息をのむアッシュに、フェンは目を細めて続ける。


「よもや、十年前の戦を忘れたわけではないだろう? 貴様らは我らの祖国を蹂躙し、数多の民を殺した。のみならず、戦が終わってもなお、我らのことを不遇に扱っている。この十年、我らは耐えに耐えた。だがそれも今宵で終わりだ」

「違う……違うだろう……!」

「違う? なにが?」

「それはお前の言葉か!? 本当にお前はそう思っているのか!? どうせ、あの時の男たちにでも言わされているんだろう!?」


 拳を震わせ、アッシュは叫ぶ。幼子のような思考だとは分かってはいても、そう言わざるをえなかった。そうと信じたかった。フェンの目を祈るように見つめる。自分の知る、彼女の面影を少しでも見つけようとする。


 フェンは目を逸らさなかった。アッシュの視線を受け止める。澄み切った水よりもなお深い蒼の目が揺れる。そして閉じられて。


 彼女は大きく噴き出した。


「あははっ、笑わせてくれるな! 火の国の王太子よ! お前が私の何を知っているというんだ!?」

「知っているに決まっているだろう! お前はこの国の騎士として、俺に仕えていたんだぞ!?」

「私が本心でお前に仕えていたと思うのか!?」

「……っ、だが……お前は……っ」

「嘘だよ。全部嘘に決まっているじゃないか」


 食い下がるアッシュを、フェンは一言で斬り捨てた。

 笑いを収め、無表情で首を僅かに傾ける。

 赤光を弾いて輝く銀の髪が、さらりと零れる。


「お前に寄り添ったことも、お前の傍にいたいと言ったことも、何もかも。お前に取り入るための方便だと、どうして気づかない?」

「……フェ……ン……」

「あぁそれとも……私に情でも移ったか? ははっ、当然か。人殺しのお前に優しく接しようとする人間など、いなかったものな。だが……少し考えれば分かるだろう?」


 呆然とするアッシュに、フェンは顔を近づけた。炎の中で美しく色づく唇がアッシュの頬を掠め、その耳元に寄せられる。そして彼女は囁く。

 睦言のように甘く。

 けれど明確な決別の意思を滲ませて。


「私がお前に、想いを寄せるはずなどない。お前は私の国を滅ぼした……世界で一番きらいな男なのだから」


 アッシュの表情が凍りついた。顔を離したフェンは、それを満足げに見下ろした。

 そして彼女は剣を振り上げる。

 紅蓮の炎に照らされた顔に、艶然とした笑みを浮かべて。


「さよなら、殿下」


 その言葉を最後に、アッシュの意識はぶつりと途切れた。

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