第41話 彼女と本心

「――私からの指示は以上です。異論は?」


 フェンはゆっくりと視線を動かした。薄暗い部屋では、数人の反乱軍の男たちが騎士さながらに頭を垂れている。鎧の代わりに薄汚れたフードをまとった彼らの返事はない。けれどその沈黙は、何よりも強い了承の意を示していた。

 彼女の傍らに置かれたテーブルの上、たった一つ灯された蝋燭の先で、炎が空気を焦がす。

 フェンは静かに目を細めた。


「あなた方には苦労を強います……ですが決して、ここでは死なぬよう。今宵の我らの目的は、あくまで反乱軍を王都から移動させること。我らは陽動であり、時が来れば直ちに撤退します」

「心得ております」


 男たちの先頭で、クルガは力強く応じた。フェンは静かに顎を引く。ご武運を。フェンのその言葉を合図に、男たちは足早に部屋を出て行く。

 それを見送り、フェンも素早く身支度を整えた。フードをまとう。壁に立てかけてあった剣を腰に差す。蝋燭の火を消す。暗闇がぐっと濃くなる。孤独が増す。心を揺らすこともせず、フェンは部屋を――反乱軍が潜伏地として使っていた建物を後にする。


 王都は夜の静寂に包まれていた。

 ひっそりとした路地をフェンは静かに駆け抜ける。凍えるほど冷たい空気は息を白く染めたが、不思議と寒さは感じない。


 目的の場所は、程なくして見えた。

 路地が終わり、両側にひしめきあっていた建物が消える。目の前に広がるのは、王都一の大きさを誇る広場だ。

アッシュと待ち合わせた時には賑わっていたこの場所も、深夜近い今となっては人気はない。中心に据えられた噴水から静かに水が流れ出ている。時おり吹く風が、どこからともなく細雪を運ぶ。

 広場の中心に向かって歩を進めながら、辺りをさっと見回した。先に出発した男たちの姿はない。別の路地を使っているせいで、到着が遅れているのだろう。


 フェンは噴水の前で立ち止まった。空を見上げる。

 夜空に浮かぶ星は、瞬きもせずにフェンを見つめている。弓張り月が銀の光を静かに振り撒く。雪が月光を弾き、かすかに輝く。


――愚かだなぁ、お前は本当に。


 胸の内から揶揄するような声がした。問わずとも声の主は分かる。フェンは静かに目を閉じた。

 瞼の裏の暗闇に浮かび上がるのはフェン自身だ。口元にニヤニヤとした笑みを刻み、目に炎の色を揺らめかせている。

 悪趣味な炎の神に、フェンは淡々と応じた。


「そんなこと、分かっていますよ」

「いいや、分かっておらぬ。我と契約した今、全てを滅ぼしてお前の望む世界を手に入れることだって出来るのだぞ? だというのに、お前は水の国の民に真実を隠し、己を追い込んで、あの男を助けようとしている」


 改めて指摘されても、フェンの心は揺れなかった。当然だった。全て覚悟の上なのだから。


 反乱軍の男たちには、火の国に対して決起することと、フェンが炎の神と契約したことしか伝えていない。

 どちらも嘘ではなかった。彼女は水の国の王女として、男たちの望みを叶える必要がある。そして水の力を使わねばならない局面でない限り、水神との契約が破棄されたことを男たちが知る術はない。


 けれどわざわざ王都の中心で騒ぎを起こす意義は、別にある。


 派手に暴れ、王城に勤める兵士をおびき出し、炎を見せる。そして不審火の犯人が別にいることを臭わせる。

 全ては彼を助けるため。


 何も言わぬフェンに機嫌を悪くしたのか、炎の神はつまらなさそうに唇を尖らせた。


「我には理解できぬよ。何故お前がそこまであの男を信頼するのか。あの男が犯人と繋がっていて、手掛かりが握りつぶされる可能性だってあるだろうに」

「……信頼、はしていませんよ」


 フェンがぽつりと漏らせば、炎の神が僅かに眉を上げた。その胸元に、王城で捨ててきたはずのペンダントが揺れているのが見えた。

 深紅の石が輝く。それはまさにフェン自身の未練の象徴で。

 幻覚だと分かってはいても、痛むはずもないと思っていた胸が、少しだけ悲鳴を上げる。

 フェンは顔を俯ける。


「水の国の王族としての私は、彼を信頼してはいけないでしょう?」


 吐き出した言葉は、僅かに震えた。

 炎の神が目を細める。


「ならば尚のことだ……何故あの男を助けようとする? まさに裏切られるかもしれないだろう?」

「好きだから」


 その言葉は、迷いなく口をついて出てきた。ゆっくりと顔を上げて炎の神を見つめる。深紅の石を身に着けた己自身に向かって、フェンは不器用に微笑む。


「好きだから、助かってほしい。それだけです。本当は……彼だけでも助かってくれれば、手掛かりが握りつぶされたっていい」


 それは、偽りならざる本心だった。フェンの心の底の底。立場も何も関係ない、一人の人間としての願い。自分に期待を寄せる、全ての人を裏切る願い。


 そしてだからこそ、フェンがこの願いを優先することはない。


 手がかりを上手く使って、水の国を狙った爆発を止めてほしい。水の国の王族としては、そう願うのが正解だからだ。誰かに尋ねられれば、きっと自分はそう答える。たとえアッシュ自身に訊かれたのだとしても。


 被り続けてきた仮面は、もはや自分の力で脱ぐことができないほど、フェン自身に染みついてしまった。大切にしたいと思っていたペンダントでさえ、捨て去れてしまうほどに。彼との繋がりを持っていたいという願いは、フェン自身の願いであって、王族としては正解ではないのだから。


 あぁ全く、自分という人間は。フェンは自嘲する。そんなフェンの胸中を正確に察して、炎の神は嘲笑いながら、あえて言葉にして見せる。


「身勝手な女だな、お前は。やはり王族には向かない」

「分かっています。大丈夫ですよ。この本心は、誰に見せるつもりもない」


 炎の神に向かって、あるいは自分自身に言い聞かせるようにして、フェンは瞼を上げる。たったそれだけのことだ。

 それだけで、水神の巫女であり、水の国の王族でもあるフェン・ヴィーズへと、彼女は戻って。

 路地から一人、また一人と、反乱軍の男たちが姿を現していた。

 それを確認して、フェンは剣を鞘から取り出す。目の前に掲げる。


 一度始めれば、後戻りはできない。そう呟いたのは、フェン自身だったのか。それとも彼女に宿る炎の神だったのか。

 その答えを知ることもなく、知りたいとも思わず、フェンは唇を動かした。

 微笑みを浮かべて。


『破壊をもたらす炎神よ 我が名において 数多の敵を屠れ 滅びをもたらす 嵐を運べ』


 歌を紡ぎ終わる。その瞬間、細雪の舞う広場に、紅蓮の炎が顕現した。

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