第40話 彼女と選択


 約束の場所は、王都の貧民街の外れにあった。

 細く入り組んだ路地を抜ける。その先に現れたのは二階建ての建屋だ。夜明けの日差しに照らされて、崩れ落ちそうな屋根と薄汚れた窓がぽっかりと浮かび上がる。

 その扉を開き、中にいた男達に自分の身分を明かした瞬間の光景は、フェンにとって一生忘れられないものになった。


 彼らは一様に歓喜に沸いた。滂沱の涙を流す者までいた。

 皆、口をそろえていうのだ。巫女様が戻られて良かったと。あなたが我々の最後の希望であると。

 それにフェンは微笑み、彼らの苦労を労った。


 これまでの不在を許してほしい。そう謝って。

 水の国の王女として、あるいは巫女として、貴方達を導くために私はここに来た。そう決意を口にして。

 それと同時に、ユリアスの言葉の真偽を確かめる、という目的を胸に秘めたまま。


 フェンは復讐を望む水の国の男たちに迎え入れられた。


*****


 反乱軍に加えてほしい、という男たちが来ている。そんな報がフェンの耳に入ったのは、彼女が水の国の男たちに迎え入れられてから、一週間後のことだった。


 椅子に腰かけ、テーブルの上に散らかった書類を読んでいたフェンは、顔を上げる。

 テーブルを挟んだ向こう側には、顔に火傷の跡のある壮年の男が立っていた。どこか緊張したような面持ちの彼に、フェンは苦笑いする。


「そんなに緊張しなくとも良いんですよ、クルガさん」

「そういうわけには参りません、巫女様」

「そもそも、私のことをフェンと呼んでほしいと、お願いしましたよね?」

「これは我らが敬愛の証でもあるのです。どうかお許しを」


 この一週間、誰に頼んでも同じような答えしか返って来ない。フェンは気づかれぬよう嘆息した。かつて呼ばれ慣れた名はしかし、今となっては荷が重いだけの称号でしかない。

 さりとて、逃げ続けるわけにもいかなかった。元より、その覚悟でここに来たのだから。

 フェンは頭を振る。割り切るしかないのだと、言い聞かせながら口を開く。


「クルガさん、念のために訊きますが……その方たちの身元は確かなのですね?」

「はい。間違いないと思います。ディール村から来た、と言っていました。私たちの国の文字を書けることも確認しています」

「ありがとう。ならば彼らを、この部屋まで連れてきてください。詳しい事情を訊きたいので」


 クルガが一つ頷いて、部屋を出て行った。

 フェンはゆっくりと立ち上がる。足を僅かにふらつかせる。きっと、着慣れない女物の服を着ているせいだ。疲れからなどではなくて。

 のろのろと書類を片付けていた彼女の指先に、鋭い痛みが走る。顔をしかめて見やれば、雫のような血が人差し指から溢れていた。

 些細な傷だ。なのに、ひどく心が揺さぶられて、フェンは唇を噛んだ。止血のために手をぎゅっと握りしめる。


 逃げるように窓辺に目をやる。

 ろくな暖炉もない部屋だが、それでも外よりは暖かいのだろう。窓は結露し、水滴が冬の日差しを反射する。二階の部屋から望む空は抜けるように青い。けれどどこか胸をかきむしりたくなるような寂しさに、フェンは目を揺らした。


 まだ、間に合うだろうか。


 護身用の短剣が、机の端にひっそりと置かれている。その隣で紙片が散らばっている。水の国の言葉で記されたそれらは、フェンが身を寄せる反乱軍の実情を知らせていた。

 ここに集まった男たちは、自らのことを反乱軍と呼ぶ。しかし、それはあくまでも便宜的な名前だ。総勢では数十人ほどしかいない。軍どころか、騎士団一つにも足るか怪しい。集められている武器も食料も、大した質と量ではなかった。


 勝利を手に入れるためには、何もかもが足りなかった。

 討ち死にするためならば、これで良いのかもしれない。

 けれどこの期に及んでも、自分は彼らを無駄死にさせたくない。


 だからこそ敢えて、フェンは水の国の男たちの下に戻ったのだ。


 王城に留まる選択肢はなかった。ユリアスが何を仕掛けてくるか分からなかったからだ。アッシュを直接助けに行くわけにもいかない。よしんば助けられたとて、アッシュの疑いを解かねば状況は悪化する一方だ。ぐずぐずしている間に、復讐心に燃える水の国の男たちが事件を起こすかもしれない、という懸念もあった。


 だからフェンは、この場所を選んだ。ユリアスが虚偽を語っているとして、それが最も露見するであろう場所。『水の国の巫女』という立場を、最も効果的に使うことができる場所。そしてフェンが反乱軍を率いることで、反乱軍の男たちの行動を制御することもできる。


 後者の二つに関しては、概ね上手くいっていた。

 問題は、ユリアスの話の虚偽を判ずる手がかりが未だに得られない、ということである。


 ここにいる男たちに話を聞く限り、彼らは爆薬である小瓶の存在を知らなかった。

 さらにいえば、リンと名乗ったあの少女の姿がここにはない。


 分かったのは、この二つだけ。

 けれどどちらの事実も、ユリアスの話を覆すには決定打に欠ける。リンが、反乱軍とは異なる集団に所属している可能性も捨てきれない。


 もどかしい状況が、フェンの心を少しずつ追い詰めていた。幾ら調べても、これ以上の事実が出てこない。

 自分は間違った選択をしているのではないか。焦げつくような不安が常に腹の底にある。己の無能さに嫌気がさす。握りしめた拳の奥で、爪が掌に食い込んだ。ろくな休眠もとれていない肌は荒れ果てている。


 そこで遠慮がちに扉が叩かれ、フェンは我に返った。

 拳をほどき、強張っていた表情を無理矢理にでも和らげて、微笑んだ。

 窓に映る自分は、ここにいる男たちが敬愛し救いの主と崇める水の巫女だ。そのことを確認して、悲鳴を上げそうになる心を無視して、彼女は声をかける。


「どうぞ。入ってください」


 扉が開いた。そして入ってきた人物を見た時、フェンは思わず目を丸くしてしまった。

 旅装姿の少女が一人、男が一人。堂々たる様子で先陣きって入ってきたのは少女の方だ。男は両手いっぱいの箱を抱えて、遅れて入ってくる。

 そしてそのどちらの顔も、見覚えがある。


 少女は、ディール村でフェンとアッシュが炎から助けた子供だ。

 そして男の方は。


「ゲイリー殿……どうして貴方がここに……」


 箱を床に置いたゲイリーが、気まずげに目を逸らした。代わりに、一歩進み出たのは少女の方だ。

 笑みを浮かべている。どこか余裕すら感じさせる態度は、歳に不相応なほど大人びている。細められた目の奥で、不穏な色が躍る。

 フェンは眉をひそめた。記憶の中にある少女とあまりにも雰囲気が違う。

 その答えは果たして、すぐに明らかとなった。


「久しぶりだな、忌々しい水の巫女よ」


 少女の愛らしい唇から紡がれたのは、乱暴な言葉だ。同時に、細められた少女の目の奥で、不穏な色が躍る。

 炎にも似た揺らめき。それにフェンの背筋にぞくりとしたものが落ちた。


「……炎の神か」

「ご名答。さすがは巫女だな」

「……まさか、その子と契約を結んだのですか?」

「そうであれば良かったのだがな。これは仮の器にしか使えぬ。我の声は聞こえたが、力を使おうとすれば、この様だ」


 少女は――あるいは炎の神は、ひらりと右手を振った。掌に引き攣れたような火傷の跡。痛ましい傷に、フェンは思わず顔を歪ませた。彼女は神の力を扱いきれなかったのだ。過ぎた力は人間を殺す。


 フェンの様子に、少女は機嫌よさそうに鼻を鳴らした。遠慮なく部屋を進んだ彼女は、いささか乱雑に椅子をひき、そこに胡坐をかく。


「ちなみに、そこの醜男は我の従者だ。これは何かと非力な器でな。もちろんお前は、この男が誰か知っておろうが……あぁ安心しろ。確かにこの男は、ディール村とかいう陰気な村で、真面目に教師をしておったよ」

「……どういう、つもりです?」


 フェンは上機嫌にしゃべる少女を睨みつけた。気づかれぬよう、机の上の短剣に手を伸ばす。

 少女は肩をすくめた。


「喜べ。寛大なる我が、お前を助けに来てやったぞ」

「助けに?」

「民を捨てるか、想い人を救うか。どちらかを選ばねばならぬのであろう?」


 短剣の柄に触れかけていた指先が、止まった。何故それを知っているのか。フェンの疑問を見抜いたように、少女がにんまりと笑う。


「炎の前では、人は正直だ」

「どういう、ことです?」

「噂話に秘密に密談。あるいは懺悔。明るい陽の下で到底できないような話は、影のある場所でするしかあるまい? 炎をぽつりと、灯した暗闇の中で」


 例えば、ユリアスがフェンに選択を迫った、あの部屋のように。


 思い当たって、フェンは唇を震わせた。


「そう……ですか。つまり、炎を介して私たちを見ることができると」


 少女は首肯した。フェンは目を伏せる。炎を介して全てが見れるというならば、存外、この不審火についても全てを知っているのかもしれない。爆発が怒るたびに炎が生まれるのだから、目には事欠かないはずだ。ぼんやりと考えて、フェンは胸中で苦笑いする。


 思ったよりも驚きは小さかった。水神の力を使い慣れているからなのか。それとも、彼女の心がくたびれてしまったせいなのか。


 急に、自分が小さな存在のように思えた。いくら考え動いても、現実はそれを軽々と蹴散らしてやってくる。まるで雪解けの頃の濁流のようだ。

 希望も願いも、容易く押し流されていく。


「騎士サマ……大丈夫かい?」


 ゲイリーがおずおずと声を上げた。フェンは彼に向かって、ゆっくりと微笑む。


「大丈夫……少し考え事をしていただけなんだ。すまない、ゲイリー殿」

「あんた随分、顔色がよくないぜい?」

「気のせいだ。心配しないで」


 フェンが少女の方を向き直れば、彼女の興味深そうな視線とかちあった。

 値踏みするような無遠慮な視線だ。フェンが顔をしかめれば、少女が感慨深げに頷く。


「悪くないな。そういうところが、ますます我の興味をそそる」

「御託はいい。要件を聞きましょう……貴方は何故ここに来たのです?」

「助けに来たと言っておろう?」

「なぜ?」

「ははっ。何故? お前に意趣返しができるからだ」


 事も無げに言って、少女は呵々と笑った。ゲイリーに向かって横柄に顎を動かす。


「おい、従者。箱の中を見せてやれ」

「だがよう……ルル。騎士サマも疲れてるみたいだぜい? なにも一気に喋らなくても……」

「黙れ。我はのろのろするのが嫌いなんだ。あと、を呼ぶなと、何度言えば分かる?」


 炎の神に一睨みされて、ゲイリーは首をすくめた。のろのろと蓋に手をかけ開く。


 箱一杯に、小瓶が並んでいた。おびただしいほどの数が。

 けれど何より重要なのは。


 フェンは息をのんで、箱に駆け寄った。はやる気持ちを隠そうともせず、小瓶を取り上げ、口に詰められた布を出す。

 甘く苦い香りと共に、目の前一杯に広げられた布の色は、


 明るくて柔らかい赤。浅緋色。

 ユリアスの色だ。


「小麦を保管してる小屋で見つけたんでい。それを全部持ってきたんだが……」


 フェンの顔を伺うように、ぼそぼそとゲイリーが付け足した。


「なぁ、騎士サマ。これはなんだってんだ? ルルに訊いても、はぐらかすばっかでよう」

「……爆薬だ」

「爆薬? なんでそんなもんが、あの村にあるってんだ?」

「火の国の商人が持ち込んだのさ」


 ゲイリーの疑問に、火の神が得意げに応じた。


「冬越えは厳しい。だから秋の間に、村人たちは足りない分の小麦を商人から買い上げる。そして小麦を運び入れる時に、火の国の商人が小瓶を隠していった。付け足しておくが、この村だけではないぞ? お前が知る、およそ全ての村にが隠されている」

「……それも……見たんですね。炎を介して?」

「そうさ、水の巫女よ。そしてこれは、今お前が最も欲しいものであろう? 手がかりだものな。お前にとって、最も忌々しい男を追い詰めるための重要な鍵だ」


 少女は愛らしいともいえる仕草で首を傾げた。

 黙りこくったフェンの表情を覗き見るかのように。


「くれてやろう、全て。もしもお前が水神を捨て、我だけと契ることを受け入れるなら」

「……やはりそれが狙いですか」

「安心しろ。契約を交わしたとて、この器のような使い方はせん。お前はお前の意思を持ったまま、我の力を振るえばいい。それに……あぁそうだ。この器も返してやろうじゃないか。我が離れれば、この娘も目を覚ますだろうて」


 少女はニタニタと笑う。

 猫なで声で続ける。


「小瓶も、我の力も、お前の好きに使えばいい。我は寛大だ。あの男のように、選択を強いるような野暮はせん」


 フェンはゆっくりと布を握りしめた。

 これのどこが寛大だというのか。目の前の神は知っているのだ。フェンには選択肢が残っていないことを。


 フェンの手の中にあるのは、間違いなく手がかりだ。けれど、フェンが告発しても意味がない。

 ユリアスは、フェンが水神の巫女であることを知っている。その立場を公表され、フェンが……そして水の国の民が、真犯人であると騙るに違いない。火の国への恨みが、彼らを復讐へと駆り立てたのだと。あるいは、フェンが公表する前に、この小瓶という証拠を握りつぶされるかもしれない。


 さりとて、この小瓶のことを隠すわけにもいかなかった。水の国の村ばかりが狙われる爆発が、今後も見過ごされることになってしまう。


 ならば小瓶は、然るべき人物に、然るべき時期に手渡すべきなのだ。


 この国で唯一、ユリアスと対等に渡りあえる立場にある彼に。

 彼の無罪が立証され、王太子として動けるようになった、その時に。


 そしてそのために必要なのは、この小瓶の存在を示さずに、彼が無罪であると周囲に示すこと。

 言い換えるならば、彼の他に真犯人がいるのだと、一時的にでも周囲に思わせること。


「……ゲイリー殿。この小瓶を、なんとかアッシュ殿下に届けてくれないか。ユリアス殿下に知られないようにして」


 フェンは色を失った唇を動かした。ゲイリーが目を瞬かせる。


「だがよう……」


 やや間をおいてから、彼は言いづらそうにフェンの方をちらりと見上げた。


「聞いたぜい? こっちに来てから……。旦那は今、牢の中なんだろ? 不審火に関わったとかなんとかで……」

「いいや、彼は外に出られる」


 フェンの確信めいた言葉の意味を、炎の神だけが察したようだった。

 ゲイリーが胡乱気な視線をフェンに向ける中、少女はうっとりと笑う。


「素晴らしい。やはりお前は、破滅を司る我にこそ相応しい」


 命果てる時こそ、命が最も美しく燃える時よ。歌うように言って、少女は立ち上がった。

 窓から差し込む、冬の日差しが陰りを帯びる。部屋の空気からぬくもりが消える。


 そして前触れなく、赤い燐光が舞う。

 フェンと少女を囲うように。

 

「お、おい……! 騎士サマ……!」

「すまないな、ゲイリー殿。こきつかってしまって……報酬はきちんと用意するから」

「そういうことじゃねぇんだ……! あんた、何をする気で……!」


 焦ったようなゲイリーの姿は、瞬く間に数を増した赤に塗りつぶされて見えなくなる。

 赤は朱へ。朱は紅へ。そして紅蓮の炎へ。

 何も燃やすことなく、炎は燃え盛る。世界が炎で満たされる。

 その中で、炎の神はいっそ優しさすら感じさせる手つきでフェンの頬を撫でて。

 そして嗤った。


 我は汝と契るもの。汝自身をも滅ぼす、破壊の力をもたらさん。




 フェンの胸の奥底で、何かが砕けて、壊れる音がした。

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