第39話 彼と彼女の岐路
アッシュは静かに瞼を開けた。
部屋の中の全てが暗闇に沈む。それでも彼は、この光景が夢ではなく現実なのだと知る。
自分が愚かな選択をし、オルフェの弟が死んだ、あの日の果て。
フェンを守りたいと思い、結局彼女を傷つけた、あの夜の続き。
「――ずいぶん疲れてるみたいじゃないか」
誰もいないはずの部屋から声がかかって、アッシュは耳を疑った。体を起こす。声の主を見つけて目を見張る。
「……オルフェ。どうしてここに……」
オルフェは、窓にゆったりと背を預け立っていた。月も浮かばぬ夜空を背負い、彼は片眼鏡の奥で目を細める。
「呑気なことだね? それとも全部が上手くいっているからこその、余裕なのかい?」
「……なんのことだ?」
「なんのこと? まったく、君たち王族はとぼけるのが上手だな。今も、十年前も」
オルフェが乾ききった笑い声を上げた。アッシュに何かを投げてよこす。それを片手で受け取り、アッシュは息を飲んだ。
見覚えのある形をした小瓶だ。
中に液体が入っている。
小瓶の口の部分には、導火線の役割を果たす布。
十年前、自分たちが戦場で使った、そのままの姿の小瓶が掌の中にあって。
「……どうして今さら……」
「どうして? 笑わせないでよ。君が作るように指示したんだろ?」
「馬鹿な!」
アッシュは顔を上げた。信じられない思いでオルフェを見つめる。
「なぜ俺が、わざわざ作る必要がある? これは廃棄したはずだ。お前と一緒に。ルインが死んだあの日に」
「ルインの名前を出すな! お前が殺したも同然のくせに!」
オルフェが急に声を張り上げる。アッシュを睨みつける。荒い呼吸を繰り返す。その合間に、暗い言葉が吐き出される。
「お前を信じた俺が馬鹿だった。愚かだったよ。痛感してる。お前はいつだって、肝心なことを言わない。だからお前の動機だって、俺には想像もつかない。でも、お前が指示したことは証明できる」
「証明だと?」
「調べさせてもらった。この国で起きている不審火の事件……その大半は作為的に起こされたものだ。その小瓶を使って」
フェンと全く同じ言葉に、アッシュに思考が止まる。
オルフェの目がぎらぎらと光る。
「小瓶の出どころも押さえてある。薬局を偽装して、小瓶を作る工房にしていたんだろ? 彼らには色々と話を聞かせてもらったよ。そうしたら、君に指示されたっていうじゃないか」
「待て! 俺はそんな話、知らんぞ……!」
「白々しい演技はやめろよ」
「俺の話を聞け、オルフェ!」
「じゃあ、小瓶の中に入っている布は、なんだ!? 深紅は、お前しか使えないはずの色だろう!」
オルフェの怒号が、アッシュの視線を再び小瓶に導く。正確に言えば小瓶に詰められた布へ。暗闇でも分かった。
布の色は深紅だ。そして火の国で、この色を使えるのは自分しかいない。それはこの国では、公然の事実で。
けれど同時に、アッシュ自身には全く身に覚えがない。
悪夢のような違和感に、アッシュは奥歯をかみしめる。そしてその違和感が、アッシュの記憶を断片的に引き寄せる。
犯人は、水の国の民が傷つくことで得をする人間かもしれない。そう言って、目を伏せたフェンが。
研究資金の話は、兄さんには内緒にしてほしい。そう言って、微笑んだルインが。
そして。
――この戦が終わった時に、水の国の民がいなくなっているのが理想だ
そう言って、アッシュの記憶の中で笑うのは。
アッシュは嫌な予感に顔を強張らせた。小瓶を握りしめる。顔を上げる。オルフェを無視して立ち上がる。彼が何事かを叫んだ。けれどそれさえも耳に入ってこなかった。
扉を開ける。そこにはオルフェの私兵の姿が見える。
「捕らえろ!」
オルフェの鋭い声と共に、兵たちが一斉にアッシュに掴みかかった。
*****
フェンは扉を叩き、彼の名を呼ぶ。外からの返事はなく、鍵が開くこともない。それでも気力の続く限り声をかけ続ける。
そうして声が枯れ切ったころ、フェンはずるりと壁に背を預けるようにして座り込んだ。扉を叩き続けた拳が、じんと痛む。
正面にはめられた窓には、月さえ浮かばない。部屋は暗く、テーブルもベッドも夜闇に沈んでいた。
その光景は言いようもない不安を誘う。フェンは両膝を抱えた。乱れた衣服をぎゅっと両手でかき抱く。
これが、何度目の夜なのか。フェンには皆目見当がつかなかった。
目覚めた時には、この見知らぬ部屋にフェン一人きりだった。鍵をかけられ、出ることの叶わない、この部屋に。
フェンは顔を俯ける。
痛いほどの静寂が、必死に蓋をしていた感情の渦を開けようとしている。
それが怖くて、フェンは固く目をつぶった。
この感情に飲まれては駄目だと、必死に言い聞かせる。それでも弱った心では、大した制御もできなかった。
このまま一生、部屋を出られないんじゃないか、という焦りがあった。
ろくな抵抗もできないまま、アッシュに組み敷かれた事に対する恐怖があった。
アッシュに自分の気持ちを理解してもらえないことに対する悲しみも。
けれど一番、フェンの脳裏にこびりついて離れないのは、彼が最後に見せた表情だ。
苦しげに細められた、彼の目。
――どうして……お前は……
後悔がフェンの胸を刺す。自分の身勝手が彼にあんな顔をさせたのではないか。そう思って。
フェンは顔を俯けた。銀の髪が頬をかすめ、滑り落ちていく。
不意に、扉の向こうから静かな足音が聞こえた。フェンは弾かれたように立ち上がる。
鍵の外れる音は間を置かずして響いた。扉が動く。
そうして現れた人影に、フェンは思わず目を見開いた。
赤い髪に、同じ色の目。
けれど、アッシュではない。
「……ユリアス、殿下」
「やぁ、フェン。思ったより元気そうだね?」
燭台を片手に部屋の中に入ってきたユリアスの声音は、常のように穏やかなものだった。だからこそ、夜闇が満たす部屋で場違いなほど明るく響く。
フェンは思わず呆けたような声を上げた。
「どうして……ここに?」
「どうして? そうだねぇ……君を助けに、とでも言ってほしいかい?」
ユリアスが後ろ手に扉を閉める。妙に引っかかりのある言い方にフェンが目を瞬かせれば、ユリアスは冗談だよ、と言って微笑んだ。
緩く波打つ赤の髪が、揺れる。
「君にお知らせを持ってきた。その上で、君自身がどうしたいか、選ばせてあげようと思ってね」
「お知らせ?」
「アッシュが捕まったよ」
「……え?」
フェンは顔を跳ね上げた。全身から血の気が引く。ユリアスは肩をすくめて、ゆっくりと歩き始めた。
「不審火の事件があっただろう?」
フェンの目の前を通り過ぎ、窓辺に向かう。近くにあったテーブルに燭台を置いた。彼はそのまま、窓に背を預ける。
再び彼が振り返った時、その表情は先ほどと少しも変わっていなかった。
「オルフェ君がそれについて、色々調べてくれていてね? その結果、アッシュがあの事件に関わった疑いがかけられた」
「なにを……言って……」
「不審火の事件の犯人は、この前捕まえたルルド商会だ。けどね、それとは別に、爆薬を作る指示をした人間がいる」
「それがアッシュ殿下だと言うんですか!? 何を根拠に……!」
「これだよ。爆薬でもあるこの小瓶が、根拠だ」
ユリアスが懐から取り出した小瓶を掲げた。
蝋燭の灯りの下、瓶の中の透明な液体が揺らめく。その口には布が詰められている。ユリアスはその布を瓶から取り出して、広げて見せる。
布の色は、深紅。
アッシュしか、使うことが許されない色だ。
フェンは我知らず、胸元をかき抱いた。
「でも……だって……動機が……」
「動機かい? さあ、なんだろうね……水の国に恨みでもあったんじゃないかな」
「そんな……そんなはずない! だって、彼は……!」
冗談めかしたユリアスの声音に、フェンは激しく頭を振った。根拠も何もなかった。回らない思考では、子供のように否定することしかできない。
それは、ユリアスにも分かったはずだ。ところが彼は気を悪くした風もなく、優しくフェンを見つめる。
「信じられない? そうだろうね。フェンならそう言うと思った……だからこそ、君にはもう一つ教えてあげよう」
テーブルの上で、頼りなく蝋燭の炎が揺れた。
その先で、彼は笑みを深める。
「爆薬の製造には、水の国の民が関わっている。王都に出稼ぎに来ていた、ね」
時間が止まったかのようだった。フェンは凍りつく。彼は何を言っているのか。そう思うと同時に、前触れなく思い出す。
酒場で、リンと名乗る少女が取り出した小瓶。あれが放たれた瞬間、爆発が起こった。夜会の時と、全く同じ爆発が。
そしてあの少女は、水の国の民だ。
フェンの目が揺れる。そんなフェンを面白がるように、ユリアスは目を細める。
「こう考えることも出来るかもしれないね? 水の国の民は、祖国を滅ぼした火の国の王太子に恨みを持っていた。だから彼を嵌めるために、あえて彼が犯人だと分かるような仕掛けをして、爆薬を作っていた」
「……そ、んな……」
「この話も信じられないかい? ふふっ、君は真っすぐで、純粋で、とてもじゃないけど王族には向かないな。水の国の巫女さん」
フェンは思わず一歩後ずさった。急に怖くなる。眼前の男が、自分の全く知らない人間に見えた。
赤の目が暗闇で光る。アッシュと全く同じ色の目が。
けれど決定的に異なる、何かを宿した目が。
「さぁ選択の時間だ、フェン・ヴィーズ。君はどうしたい?」
最初の話だけを信じて、水の国の民を救い、アッシュを見捨てるか。
それとも二つ目の話を公にして、アッシュを救い、水の国の民を見捨てるか。
*****
フェンは崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。
ユリアスの姿は既にない。蝋燭が空気を燃やす、微かな音が響く。
――好きな方を選ぶといいよ。あいにく、悩んでいる時間はそうないだろうけどね。
去り際のユリアスの言葉が耳朶を打つ。言われずとも分かっていた。
もしもアッシュが本当に囚われているのなら、悠長に悩んでいる暇などない。不審火の真犯人ともなれば、最悪、処刑される可能性すら考えられた。
ならば、彼は本当に犯人なのか。
胸の内で自問して、フェンは唇をかみしめた。
アッシュに仕える前の自分ならば、すんなり受け入れたかもしれない。十年前の戦争で、兵を率いて水の国を滅ぼしていたのは彼だ。
けれど今のフェンにとって、アッシュは冷酷な王太子以上の何かだった。
ぶっきらぼうで、不器用で、優しくて、それ以上に大切な、何か。
それともこれは、ただの自分の願望なのか。
ただの願望で、民を見捨てるのか。
フェンは床の上についた拳を握りしめた。砕けそうになる心を叱咤する。
必死に頭を巡らせる。
ユリアスの話は、概ねフェンの推測と辻褄があう。爆薬を作るよう、指示した人間が別にいる。あるいは、爆薬の製造に直接携わった誰かがいる。どちらにせよ、ルルド商会の他に真犯人がいるということだ。
それが誰なのか。根拠は今のところユリアスの話しかない。けれど。
もし、ユリアスの話に嘘が含まれているとしたら。
不意に思い当たった可能性に、フェンの心臓が跳ねる。
何か特別な理由があったわけでは決してない。それでも思い返せば、ユリアスの行動には違和感がある。
いつから、フェンが水の国の巫女だということを知っていたのか。
どうして、フェンがこの部屋にいることが分かったのか。
何故、わざわざアッシュのことをフェンに告げに来たのか。
まるで、全てがユリアスの掌の上にあるかのような。
「……っ」
足元から這い上がる悪寒に身を震わせた。フェンは固く目を閉じる。怯えそうになる自分を叱りつける。自分がどうすべきなのか。ただそれだけを懸命に考えて。
ゆっくりと目を開く。
胸元でペンダントが揺れた。深紅の宝石。それを指先で優しくつかんで、そっと撫でて。
意を決して、力任せに宝石を引っ張った。鎖が千切れて飛び散る。その音を聞きながら、手の中の宝石を床に投げ捨てる。迷いを振り切るように。
フェンは立ち上がった。
入り口の方を見つめる。扉は開け放たれている。その奥には、この部屋よりも深い暗闇が広がっている。その闇に向かって、彼女は足を踏み出す。
誰もいなくなった部屋では、蝋燭の灯りだけが燃え続ける。
床に転がった深紅の宝石は、僅かな灯りの下で静かに輝く。
そして王都に、真夜中を告げる鐘の音が鳴り響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます