第46話 彼と治療師
オルフェの元を訪れた翌日、アッシュは医務室へと向かっていた。
歩くたびに肩の傷が痛む。医務室を飛び出てから、大した手当もしていない傷は熱を帯びていた。血の滲んだ上着だけは交換したものの、傷口はどうしようもない。
廊下の壁に嵌められた窓から、ちらりと空を見上げる。冬の陽は僅かに傾き始めていた。だが、オルフェとの約束の時間にはまだ余裕がある。
弱い日差しが、繊細な文様で彩られた窓枠を通して、床に曖昧な影を落とす。意味がないとは分かっていても、アッシュの足は自然と早くなった。
今は、僅かな時間でさえも惜しい。
誰も犠牲にせずにフェンを救う。そのために、課題は山積みだ。しかも悠長に時間をかけている暇はない。
アッシュはノックもせずに、医務室の扉を開けた。
暖炉に火は灯っていない。部屋はひやりと冷たい。カップを両手に持つようにして、アンジェラが窓辺に寄りかかっている。やや遅れて顔を上げた彼女は、アッシュの姿を認めて不機嫌そうに顔をしかめる。
「なにかしら。殿下」
「お前に用があって来た」
「そうなの?」
「痛み止めに効く薬はないか。あと替えの包帯を」
アッシュの左肩を見て、彼女は眉を吊り上げた。
「ずいぶん血が出てるわね。私はちゃんと手当したはずだけど?」
「……こけたんだ」
事情を説明するのも億劫で、そうとだけ答えれば、アンジェラが眉を跳ね上げた。
「へえ? そう……まぁいいわ。そこのベッドに座ってて」
彼女はカップをテーブルに置き、身を翻した。
アッシュは静かにベッドに腰を下ろす。痛みに顔をしかめながら上着を脱いだ。左肩全体が、シャツもろともべっとりと血で濡れている。アッシュはため息をついた。
「どうぞ。痛み止めの薬湯よ。しばらくすれば効きはじめるわ」
アンジェラは程なくして現れた。包帯を小脇に抱え、もう片方の手でカップを差し出す。湯気の立つそれを躊躇いなく受け取って、アッシュは一気に飲み干した。顔をしかめる。喉を焼く熱さ、独特の香り、隠しようもない苦味。
そしてその中に僅かに混じる、氷塊を飲み込んだような一瞬の冷たさ。
「…………」
「さっさと肩を出して。包帯を交換しましょう」
眉をひそめていたアッシュは、アンジェラの言葉に緩く首を振った。感じた違和感を気の所為と片付け、言われるままに羽織っていたシャツから左肩だけを出す。
跪いたアンジェラはてきぱきと仕事をこなしていった。血で真っ赤に染まった傷口を見ても動じることはない。騎士団付きの治療師なのだ。これくらいのことは当然なのだろう。
騎士団付きの治療師。アンジェラ。その名を口の中で転がして、アッシュはふと思い出した。
「……そういえばお前は、フェンと知り合いなのか」
無駄口を叩くこともせず、黙々と手を動かしていたアンジェラの手が止まった。
「今更気づいたの」
じろりと視線を上げる。責められるいわれはないはずだ。それでもアッシュは居心地の悪さから僅かに身動ぎした。
アンジェラが巻きかけの包帯をきつく縛り上げる。アッシュが痛みに顔をしかめれば、彼女は小さく鼻を鳴らした。
「いい気味だわ」
「……どういう意味だ」
「私の大切なフェンを殺すとか殺さないとか。無神経にこの部屋で話してたでしょ」
「…………すまない」
「口ばかりの謝罪はいらないわ」
アンジェラが片眉を上げた。
「あの子を結局どうする気なの」
刺々しい言葉は、冷ややかな空気によく響いた。
アンジェラの目が細められる。
目覚めた時に向けられた視線と同じものだ。何かを見極めようとするような視線。
それをしかし、アッシュは真正面から見据えた。
「助けるに決まっている」
「あの子がどういう立場なのか、分かった上で言ってる?」
「無論だ」
「あんたの立場と正反対なのよ?」
「俺だからこそ救えることもあるだろう」
「そう。やけに自信があるのね」
それきりアンジェラは黙した。包帯を巻き終え、立ち上がる。遠くで鳥の鳴く声が控えめに響く。
彼女はアッシュを見下ろした。窓から差し込む陽光が、アンジェラの横顔に陰影を落とす。
「期待しているわ、殿下」
そういった彼女は、どこまでも無表情だった。
*****
一体あの時、アンジェラは何を考えていたのか。
思案にふけっていたアッシュは、オルフェに何度か名前を呼ばれてやっと我に返った。
西日の差し込む馬車は、いつの間にか止まっていた。向かいに座るオルフェが怪訝な顔をしている。
「大丈夫かい?」
「……あぁ」
「しっかりしてくれよ。お前が会いたいって言い出したんだから」
「分かっている」
顔をしかめて応じれば、オルフェは軽く肩をすくめて馬車の外に出た。その仕草は、見慣れた彼そのものだ。
それに心の片隅で安堵し、アッシュはフードを被り直してその背を追った。
澄んだ空気は、吐く息を白く染める。西日が馬車の影を地面に長く伸ばす。その先にあるのはオルフェの屋敷だ。
王城から程近いという立地にも関わらず、その門構えは質素である。オルフェの後をついて、手入れの行き届いた小さな前庭を横切る。さすがは商人上がりの貴族ともいうべきか。無駄がほとんどない。屋敷の中にも、使用人の姿は見当たらなかった。だがさりげなく置かれた調度品は、どれも一級品である。
「一応、念押ししておくけど」
暗くなり始めた廊下を進む。先を行くオルフェが、外套を脱ぎながら、ちらと振り返った。
「小瓶を作ってた連中に話を聴いても、大した情報は得られないと思う」
「やけにそれを強調するな」
「当然だろう? 俺が直接、彼らから話を聴いたんだ。その時に、情報は引き出せるだけ引き出した。だからこそ、君を小瓶の犯人だと疑ったわけだし……正直もう一度話を聴いたところで、新しい情報が出てくるとは思えない」
「そこを率いていた男が、俺との繋がりを自白したんだな?」
「そう。ライ・ティルダ、って男だ。君から指示を受けて爆薬を作った、と言ってた。極めつけは小瓶だ。薬局の地下にあった工房に、大量の小瓶が置かれていて、その全てに深紅の布が入っていた」
「それだけ見れば黒だな」
アッシュが他人事のように笑えば、オルフェは立ち止まった。げんなりとした顔をしてみせる。
「……やっぱりお前が犯人だった、とかは、やめてくれよ」
「それがありえないことを、今から証明しに行くんだろう」
「……その余裕は一体どこから出てくるんだ」
オルフェは呆れたようにため息をついて、再び歩き始めた。
さほど大きくはない屋敷だ。程なくして辿り着いた場所は、アッシュもよく知る部屋の前だった。
扉の前で、アッシュはすいと目を細める。
「お前の部屋に、そいつらがいるのか?」
「はずれ。正確に言えば、俺の部屋は入り口ってところかな」
オルフェがにやりと笑いながら、胸元から鍵を出してみせた。オルフェの部屋自体に鍵はかけられていないはずだ。
隠し部屋ということらしい。
アッシュは怪訝な顔をした。
「しかし、よく兄上が許したな……スイリ薬局の人間をお前の屋敷に置いておくことを」
もしもスイリ薬局の人間がユリアスと繋がっているのならば、彼らの身柄を預けることはユリアスにとって不利益にしかならないはずだ。
それは同感だね。そう言いながら、オルフェはくるりと鍵を回してみせた。
「俺もてっきり、ユリアス殿下が彼らを管理するだろう、と思ってた。引き渡しを求められる覚悟もしてたしね」
「だろうな」
「反対はされたよ、一応ね。でも結局引き下がってくれた」
「……よほど自信があったんだろう」
オルフェに彼らを引き渡したところで、ユリアスが不利になるような情報は一切漏れない、という自信が。
そして実際その通りになった。
アッシュは顎に手を当てた。
今回の件、ユリアスが噛んでいることは間違いがない。周到な兄のことだ。手がかりはほとんど残していないだろう。
小瓶の製造など、最たる例だ。オルフェから聴いたところによれば、製造に関わっていた人物は皆、水の国だった村から王都へ出稼ぎに来ていた人間らしい。仮に製造元が明らかになったとしても、ユリアスは水の国の民が罪を被るように仕組んでいる。
今回の事件に関わる人物たちとの不用意な接触を、ユリアスが避けていることも、容易に想像できた。
だが逆に、全く誰とも会わずに今回の事件を進めることも出来ないはずだ。
特に小瓶の製造を指示する段階では。
ルインは生前、研究資金を得る目的で、ユリアスに自身の研究について打ち明けていた。その段階で、ユリアスが小瓶の作り方を知ったとしても、何もおかしくはない。
ルイン亡き今、自分とオルフェを除けば、小瓶の作り方を知っているのはユリアスだけだ。
そうなれば、小瓶を作る手法を誰かに伝える必然性が出てくる。
問題は、その誰かから、真実を聞き出せるか、否か。
「……一つ考えがある」
アッシュが一段声を落とす。オルフェの顔に緊張が走る。
その瞬間だった。
「だぁから! 俺様は正式な客人だってぇの!」
オルフェの部屋から間抜けな怒号が響く。二人は顔を見合わせた。どちらからともなく、ため息をつく。
図ったようにオルフェの部屋が内側から開いた。彼の従者らしき年かさの男と、それに追われるようにして飛び出してくる醜男。
ろくに前も見ていなかった彼は、まともにアッシュにぶつかってくる。アッシュの左肩に鈍い痛みが走る。
「……ゲイリー・ルードマン……」
アッシュの地の這うような声に、男は……ゲイリーはびくりと体を震わせた。
恐る恐る顔を上げる。その目が驚愕に開かれる。
「な……っ、なんで旦那が、こんなところにいるんでい……!?」
「それは俺の台詞だよ」
慌てふためくゲイリーに、ぴしゃりと言ってのけたのはオルフェだ。
口元には女好きのする笑みを浮かべている。だが目は露とも笑っていない。
「なんであんたが、勝手に俺の部屋に入ってるわけ?」
「ひ、暇だったから……」
「なんだって?」
オルフェがわざとらしく聞き返せば、ゲイリーが開き直ったように顔を上げた。というか! と言いながら、アッシュから身を離す。
「お、俺ぁまだ旦那のことを許したわけじゃねぇからな!」
音を立てん勢いで、アッシュに指を突きつけてみせた。指先も膝も震えているために、迫力など微塵もないが。
こんな男の言葉に、少しでも心が揺らされた自分が情けなくなってくる。アッシュが白けた視線を向ければ、ゲイリーが怯んだように一歩後ずさった。
「って、訳だからよ! 俺ぁ、旦那とは口も利かないぜ! じゃあな!」
一方的に言いおいて、ゲイリーは駆け出した。あっという間に、その姿が見えなくなる。
子供か、あいつは。苦々しく呻いたアッシュに同意するように、オルフェも呆れたように息をついた。
*****
スゥーリのはなは しろいはな
あきのおわりに はなひらく
医務室に軽やかな歌声が響いた。日が暮れ始めた部屋は、刻一刻と薄暗さを増す。暖炉に火がいれられることはない。そもそも、この一日で暖炉は一度たりとも使われていない。
身を切るほどに寒い空気の中、アンジェラは足音高く歩き回る。薄い羽織ものは歩く度にひらめき、袖口からは素肌が時折のぞく。口から吐く息は白い。けれど彼女の顔に苦悶はなく、笑みさえ浮かぶ。
スゥーリのはなは いやしのはな
いとしのきみを よびさまさん
誰もいない部屋で、彼女は棚からカップを取り出す。数は三つ。それを窓の近くに置かれたテーブルに並べる。窓辺には、スゥーリの花が一輪だけ飾られていた。今朝方、王城の近くを流れる川辺で摘んできたもの。未だ艷やかな白い花弁を、黄昏色の陽光が淡く染め上げる。
アンジェラは、あらかじめテーブルに置いていたティーポットを引き寄せた。テーブルの端に腰掛け、高い位置から冷水をカップに注いでいく。
スゥーリのはなは やくそくのはな
しんじあうふたりに さちおくる
「……なんて、ね」
カップの中で水面が踊る。ゆらりゆらりと揺れるそれを見つめながら、アンジェラは笑う。
信頼など脆く儚いものだ。
そんなものがなくても、自分ならばあの子を救える。
十年前の、あの日と同じように。
そう思い、嘲笑うアンジェラを、鏡のようになった水面が正確に映す。
そして彼女は指を鳴らした。
水面に映る像が切り替わる。ここではないどこかを映し始める。
静かな部屋に、三人分の男の声が響き始める。
「さぁ……期待しているわよ。しっかり、あの子の居場所を突き止めて頂戴」
今や部屋は暗闇に満ちていた。アンジェラは静かに目を細める。
その瞳を、獣そのものに引き絞らせて。
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