第58話 かくして彼らは希望を紡ぐ
フェンは目を開けた。
「……で、んか」
掠れた声と共に、フェンは剣を引き抜く。鮮血に塗られた剣は、アッシュが先刻取り落とした剣の隣に落ちる。アッシュが口角を釣り上げる。
ぐらりと傾いだその体を、フェンは慌てて抱きとめ、そのまま共に地面に座り込んだ。
「っ、殿下……!」
「……手間を、かけさせてくれる」
呻き声ともつかない声を上げながら、フェンの首元でアッシュが苦笑した。どこか強がるような声音は強烈な安堵と不安をもたらして、フェンは喉を震わせる。
「ごめん、なさい……殿下……! 私……っ」
「……騒ぐな。左肩の傷を刺されただけだ。心配する必要はない」
「でも……」
早く手当をしなければ。フェンは不安を押し殺し、辺りを素早く見回した。
周囲では天高く炎が燃え盛っていた。金にも近い燐光を撒き散らす業火は、炎神の本体に違いなかった。その動きを封じるように、蛇のごとく絡みつき輝くのは清流の如く澄んだ水。吹きつける風は熱で熱せられ、白雪に混じって蒼と紅の燐光を巻き上げる。
炎にまかれて、周囲で戦っているはずの兵士と反乱軍の姿はよく見えない。
助けなど呼べそうにもない。唇を噛みしめるフェンに、アッシュが荒い息を吐きながら呟く。
「……いいか、フェン。よく聞け」
「殿下、喋らないで下さい……!」
「俺は、水神と契約した訳ではない」
警告を無視して囁かれた声に、フェンは思わず息を呑んだ。
アッシュが小さく笑う。
「あの女が協力しなかったせいで、契約できなかった。お前でなければ駄目だと、頑として聞き入れなかったんでな」
「そんな……じゃあ今、炎神を縛っているのは……」
「あれは、あの女が俺に一回分だけ預けた水神の力だ。お前を炎神から引き剥がし、一時的に動きを封じるだけの力しかない」
フェンの目の前で炎が大きく揺れた。戒めの水は先程より随分弱々しくなっている。アッシュの言葉を証明するかのような光景に、フェンは彼の背中に添えた手に力を込める。
炎神が再び解き放たれればどうなるか。重傷を負ったアッシュをどうすれば救えるか。そのために自分ができることはなにか。
水神は、今、誰とも契約していない。
ならば。
結論が出るのに、さして時間はかからなかった。
フェンはアッシュの両肩を掴んで、ゆっくりと離す。そっと、額を合わせる。二人の間で、アッシュの首にかかった赤い石のペンダントが揺れる。
「いけるか?」
アッシュが言葉少なに問う。その顔色は決して良くない。だが瞳の煌めきは、先程と寸分違わない。
そしてその目に、フェンは力強く頷く。
「大丈夫です」
フェンは胸に手を当てた。瞼を閉じる。体の中に、既に炎神の気配はない。
素早く意識を集中させれば、慣れ親しんだ感覚を僅かに感じた。蒼の光。水神の感覚。どこまでも澄んで冷たく、けれどすべてを包み込む気配。
私は、貴方と契りを交わす。
囁くように呟けば、フェンの周囲に柔らかな光を放つ蒼が舞った。彼女を慕うように頬を撫でる。フェンは呼びかける。
「――力を、貸して。アンジェラ」
姿はない。それでも確かに、気高き神であり、優しき医師であり、なによりフェンの最良の友である彼女の感情が蒼の光を通して伝わってくる。
呆れたような肯定。
それに少しだけ微笑んで、フェンは静かに瞼を上げた。アッシュと目があう。彼も僅かばかりに微笑む。
地面に転がっていたアッシュの剣を拾い上げながら、フェンはゆっくりと立ち上がった。やけに重いそれを取り落としそうになれば、遅れて立ち上がったアッシュが手を重ねて押し止める。
武骨な手から伝わる彼の体温が、フェンを確かに奮い立たせる。
『――我らが母なる水神よ』
彼女は静かに呼びかけた。蒼の光は一際強く輝く。対抗するかのように、眼前の炎が禍々しく燃え盛る。炎神が、何かを喚いているのが聞こえる。
だが、その声は届かない。もう二度と、決して。
『巡り巡りて 彼の者を鎮めよ』
響くフェンの声をかき消さんと炎が吠える。水の戒めが破られ霧散する。業火が眼前に迫る。
それでも、怖くない。そう思う。思って、フェンが剣を握る手に力を込めれば、重ねられたアッシュの手が応じるように力を込める。
『流転の
フェンの口から放たれた言葉が、再び水神の力を呼び寄せた。
散った蒼が渦巻き、紅の光を飲み込む。フェンの周囲を揺蕩っていた蒼の燐光は、剣を伝い水神の加護を授ける。アッシュがフェンの手を握ったまま剣を動かした。向かってくる炎神を
炎と水が交わり、白煙が猛然と上がった。弾けた風がフェンとアッシュの髪を激しく揺らす。炎神の絶叫が響く。
鮮血の代わりに流れるのは紅の光だ。逃げ惑うそれを蒼光が捉え、剣に封じ込める。相反する二神の力が剣を激しく揺らす。吹き飛びそうになるフェンの体をアッシュが支える。
炎はやがて、全て剣に封じ込められた。剣が僅かに赤光を帯びる。周囲で燃え盛っていた炎が急速に消えていく。フェンはゆるゆると息を吐き出し、剣の柄を握る手を緩めた。再び落ちそうになる剣をアッシュが代わりに掴む。そして。
フェンとアッシュは弾かれるように身を離した。
互いの背後から迫る刃に、アッシュは赤光を帯びた剣を、フェンは地に落ちていた剣を拾い上げ、素早く刃を受け止める。
「剣を引きなさい! クルガ!」
炎と白煙が晴れた先で、フェンが刃を受け止めた相手は反乱軍の一員であるクルガだ。
フェンの一喝に、クルガは火傷の跡の残る顔を歪める。
「っ、姫様……! どうして止めるんです……!?」
「これ以上の争いは、許しません」
眼前の男に向けて……あるいは彼の背後で武器を構えようとしていた反乱軍の男たちに向けて、フェンはきっぱりと言い放つ。
クルガの目が、さっと怒りに染まった。
「何を今さら……っ! 俺たちは理不尽に傷つけられたんだ! 祖国が滅ぼされたこと、悔しくはないのですか!? 恨めしく思わないのです!?」
「思わぬ訳がないでしょう」
「ならば!」
「ですが、過去に固執して新たに血を流すことが許されるとでも!?」
一段声を大きくし、フェンはクルガの剣を払いのけた。ふらついた彼は、フェンをぎっと睨む。剣を再び構えようとする。
その眼前に、フェンは切っ先を突きつける。
「争いを、生むことは容易でしょう。憎しみを抱いて、怒りのままに相手を傷つけることだって簡単です。ですが、誰かを傷つければ、その相手が今度は貴方を憎む。永劫にそれを続けるつもりですか? 自分と同じ悲しみを、罪もない子供達に背負わせると?」
「……くっ」
「それでも是と答えるならば、私を倒していきなさい」
クルガが目を見開く。構えかけた剣がピタリと止まる。その目を、フェンは真っ直ぐに見つめる。
「私のことを、裏切り者と
反乱軍からの返事はない。
それでもフェンは、肩で息をしたまま視線を逸らさない。
彼女の背後で、アッシュが喉を鳴らして笑う声がした。
「……だ、そうだが? あっちがこう言ってるんだ。俺たちも相応の態度を見せねばならないだろう?」
「ですが、殿下!」
声を上げたのは、火の国の兵士に違いなかった。そして恐らく、アッシュが刃を受け止めている相手でもあるのだろう。
その兵士が、諌めるような声を上げる。
「彼らは我らに刃を向けてきたのですよ!? 先程だって、そこの反乱軍の男は、殿下の命を狙っていた!」
「ハッ、憎しみなぞ、一度で消えるものでもないだろう。構わんさ。それを受け止めるのも俺の役目だ」
「何を悠長な! それならば、危険因子は根絶やしにした方が、」
「笑わせてくれる」
アッシュは鼻を鳴らした。剣が一度退けられる音が響く。間髪入れずに再び刃が交えられる。フェンの背中に、アッシュの背が触れる。
重傷を負っているにも関わらず、彼はどこまでも常の口調で言葉を続ける。
「お前たちの不信ゆえに引き起こされる戦も、俺たちの信じる理想ゆえの平和も、等しく同じ確率で起こりうるものだ。ならば、ありもしない未来の心配をするより、目の前の人間と向き合え」
「……ですが……!」
「それでも刃を向けるというならば、俺が相手になろう」
「っ、殿下! 反乱軍に肩入れされるおつもりですか!?」
「勘違いするなよ」
アッシュの低い声に、兵士がぐっと言葉をつまらせた。
「過去は違えど、この場にいるのは我らが国の民だ。ならば、俺には民を守る義務がある」
戦場に静寂が落ちる。周囲の男たちは武器を構えたまま、動きを止めている。フェンとアッシュは彼らを
武器を捨てろ。どちらからともなく言いながら、二人は互いに剣を構えた。
呼応するかのように、蒼の光と紅の光が二人の剣から舞う。
吹きつけた風が、曇天を散らす。
空から光が注ぐ。
男たちの目に迷いが浮かぶ。
「武器を捨てろ!」
フェンとアッシュの一喝が、戦場に響く。
*****
「まぁまぁの及第点、ってところかしらね」
アンジェラは、独りごちて嘆息をついた。
彼女がいるのは森の入口だ。大木に背を預けたアンジェラの視線の先には、戦場がある。
炎は既に晴れていた。粗末な身なりをした男達と兵士が立ち尽くしているのが見える。その中心では、紅と蒼の光を伴って、互いを庇い合うように二人の男女が並び立つ。
愚かしくも愛しい契約者と、腹立たしく疎ましさしかない王太子だ。
少なくともアンジェラにとっては。
「……ぐ、っ……何を……」
足元から上がる弱々しい声に、アンジェラは氷のように冷たい視線を向けた。
火の国の兵士が地面に倒れ伏している。その手元には一対の弓矢が転がっていた。先程までフェンを狙っていた武器を、アンジェラは足音高く踏み潰す。
「あの子を狙うからこうなるのよ」
「っ……貴様、第二王太子の手の者か……!」
「黙って」
アンジェラの鋭い声に、男がくぐもった声を上げて黙り込んだ。
驚愕の滲む表情に、彼女は美しくも獰猛な笑みを浮かべる。
「私が、なんですって……?」
「…………っ」
脂汗を滲ませて浮かべる兵士の表情は、かつてアンジェラがアッシュ達に術をかけた時のそれと全く同じ。
……いいや、あの時でさえ、忌々しい王太子はアンジェラに挑みかかってきたのだった。
己に水神としての力の一部を分け与えよ、とそう言って。
戦場に潜んでいるであろうユリアスの息のかかった兵士だけを、水神の力で足止めせよと、付け足して。
不愉快な事実は、アンジェラを苛立たせるのに十分だった。八つ当たり気味に男を踏みつければ、聞き苦しい呻き声が上がる。今頃、ユリアス側についた他の兵士にも術は発動していることだろう。
まったく、図々しい王太子の願いを叶えてやった己の寛大さには涙が出そうだ。
胸中で自賛しながら、アンジェラは再び視線を向ける。
戦場では、男たちが次々と武器を下ろし、跪き始めていた。反乱軍も、兵士も別なく。それに彼女は鼻を鳴らす。
少なくとも目の前の男たちに対しては、アンジェラは一切手出しをしていない。反乱軍は勿論のこと……あの中に、ユリアスからの密命を請け負った兵士もいない。故にアンジェラが力を奮うまでもない。
そしてだからこそ、目の前の光景はフェンとアッシュが積み上げてきた、その結果の全てなのだろう。
「――金炎が踊り 蒼が舞う かくして彼らは悪神を封じ 国に平和をもたらす」
ゲイリーの紡いだ歌の最終節を口ずさみ、アンジェラは肩をすくめた。
いつの間にか雪は降り止んでいる。
重く立ち込めていた雲は風に散らされ、青空が見え始めていた。
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