第57話 舞い散る白は祝福を注ぐ

 気づけばフェンは、ただ一人で浅瀬に立ち尽くしていた。

 人の気配はない。辺り一面、水面に白い花が散っている。冷ややかな水は、フェンの足首が浸かるほどの量しかなかった。にも関わらず、花の隙間から時折見える水面は暗く、底が知れない。

 そして、白い花で覆われた浅瀬に、簡素な玉座がぽつりと置かれていた。

 空の玉座。誰もいない。誰も座らない。花も咲かない。


 静寂の中、フェンはぼんやりと空を見上げる。青を一滴だけ混ぜたような、黒がどこまでも広がる。雲一つ、星一つ、月一つない。


「こんなところにいたのか」


 不意に、声がかかった。フェンはのろのろと振り返る。

 朱い髪の彼がいた。驚きはない。声音から正体は察しがついていた。

 それでも、心臓を摑まれるような苦しさに、フェンは眉根を寄せる。


「……殿下」

「つまらん場所だ」


 彼は呆れたように紅の目を細めてみせる。いつもの仏頂面だ。笑みはない。だが、その瞳はほんの少しだけ優しい。

 彼の胸元で、赤い石のはまったペンダントが輝いている。


 あぁ、これは夢だ。フェンはそう確信した。

 だって、眼前に立つ彼の剣には血の一滴もついていない。服には傷一つない。ペンダントは王城に捨ててきたはずのものだ。

 剣を突き立てた時の感触も、飲み下した鮮血のおぞましさも、ペンダントの鎖を千切った時の身を切るような痛みも、フェンは覚えているというのに。


 最後に見るのが、この夢だというのも……自分勝手で我儘な気がしたけれど。


「行くぞ」


 手を伸ばせば触れられそうなほどの距離で、彼が言う。

 けれど決定的に遠い距離の先で、フェンは首を振った。


「行けません」

「なぜ」

「行きたくない」

「それは返答になっていないな」

「……私は」


 逃げるように、フェンは顔を俯けた。視線の先で、白い花の浮かぶ水面が頼りなく揺れる。


「私は、弱い」


 ぽつりと呟いた。フェンは両手で顔を覆う。耐えなければ。そう思ったが、結局上手くいかなかった。


「そんな私が行って、何を守れるでしょうか」

「…………」

「私は、何一つ上手く使えなかった。巫女としての力も、王族としての立場も……皆を戦に巻き込むことしか出来なかった」

「…………」

「最低、でしょう」

「……そうだな」


 返事と共に、静かに息を吐く音が聞こえた。肯定は、待ち望んだもののはずだった。それでも、フェンは急に怖くなる。怖くなる己の身勝手さが許せず、息さえ出来なくなる。

 真っ暗な視界に、水面を割いて歩を進める音が聞こえた。彼の呆れたような声が続く。


「人の善意を頭から信じ、自分の力が悪用されると露ほども思わずに妙な力で人を助ける。為政者との駆け引きは苦手で、まんまと策略に引っかかって踊らされて……それでこのざまだ。王としても巫女としても失格だろうな」

「……」

「だが、良かったじゃないか」

「……なにが、良いというんです?」

「お前の国は、とうの昔に滅んだ」


 足音は、フェンのすぐ隣で止まる。

 幾度となく繰り返されてきた言葉に、フェンは力なく顔を上げた。

 怒りよりも疲れ果てていた。悲しみよりも途方に暮れていた。何も言えずに、傍らの男を見上げる。

 彼の視線はしかし、フェンの背後に向かっていた。

 振り返った先に、ぽつりと見える空の玉座。


「王の玉座は既にない。お前は、王として生きる必要はないんだ」


 降ってきた声音は、どこまでも穏やかだった。


「王でなければ民は救えないか? 違うだろう。お前はいつだって民を助けてきたじゃないか」


 彼は瞬きをして、玉座から視線を外した。フェンの方をじっと見つめる。

 漆黒の空の中で、紅の瞳は宝石のようにひっそりと輝く。


「勘違いするな。お前の強さは、巫女の力でも、王族としての立場でもない。分け隔てなく他者を助けること、現実がどれほど否定しようとも、己の理想を信じて行動できることだ」

「……っ、そんなもの……そんなもの、一体何になるというんです……?」

「そんなもの? なら、そんなもので救われた者の立場はどうなる? どうしようもなく小物な吟遊詩人は? 故国を滅ぼされた恨みを抱える村人は?」

「…………」

「なにより、どこぞの国のどうしようもなかった王太子の立場は? お前が動かなければ、誰一人として救われなかった。行動できなかった。救われたからこそ、今ここにいる」


 フェンは緩く頭を振った。彼の声は優しい。じわりとしみる。それでも、その言葉を受け入れることは甘えなのではないか。

 そう思い、惑う彼女に彼は手を伸ばす。


「いいか。それは、お前にしかないものだ。巫女の力よりも、王族としての立場よりも、よほど大切で、お前をお前足らしめるものだ」

「っ……私は、そんなに良い人間じゃない!」


 フェンは悲鳴のような声を上げた。伸ばされた手から逃れるように半歩下がる。頭を激しく振る。己を責めるように掌に爪を立てる。


「だって! 私は……っ」


 喘ぐように呼吸をしながら、フェンは言葉を紡ぐ。


「私はっ……助ける価値があるのかと、思ってしまったんだ! 皆のことを……! 助けることを、迷ってしまった! 貴方が言うような善人じゃない! 私は!」

「それでいい!」


 彼の一喝に、フェンは瞳を揺らした。言葉が止まる。震える息だけが吐き出される。

 彼女を、紅の瞳は静かに見つめている。

 諌めるように、呆れたように。

 そして慈しむように見つめて、彼は口を開く。


「それで、いいんだ。完璧な人間がどこにいる?」

「……でも、」

「俺だって、大した人間じゃない。兄の影を恐れ、過去を悔やんで、立ち止まったままの男だった。今回の件は、俺にこそ責がある」

「……でも、」

「そんな俺を、それでもお前は信じてくれただろう?」

「……でも!」

「フェン」


 彼は、ゆっくりと距離を詰めた。水面が動き、花が揺れる。その中で、彼の手がフェンの手を掴む。その手は冷たい。だが微かな温もりは、フェンの冷え切った手に確かに届く。

 フェンの小さな手を、彼は両手で包み込む。


「あの時……共に歩みたいと、言ったのはお前だ。お人好しのお前のことだ。俺を助けたいと思ったから、そう言ったんだろう? だが共に歩むということは、一方的に助けることじゃない。守り、守られ、苦しい時には互いに助け合う。そういうことじゃないのか」

「……そ、れは」

「俺はお前と共に歩みたい」


 真っ直ぐな言葉は、正確にフェンの息を止めた。視界が揺れる。彼に抱き寄せられる。ペンダントの先で揺れる赤い石が、フェンの指先に当たる。

 そして彼女の頭を抱え、その髪を武骨な手で不器用にいた彼は、言い聞かせるように囁く。


「お前が苦しんでいる時には助けてやりたいし、お前を傷つける者からお前を守ってやりたい。だからお前も俺のことを助けてくれないか。俺の弱さを、お前の強さで導いてくれ」

「……殿下は、弱くなんて、ないですよ」

「お前がいるからだ。だから俺は強くなれる」

「………………そんなの……」


 すすり泣きにも近いフェンの声に、彼は笑った。


「俺一人でも成し遂げられない。お前一人でもきっと無理だ。だが、力を合わせればうまくいく。ディール村で炎神を退けた時のように」


 最後の一言は、どこか冗談めかした言い方だった。フェンは思わず噴き出す。

 鼻の奥がつんと痛んだ。目元が熱くなる。吐き出す息がみっともなく震える。

 それでも顔を上げる。

 涙で滲んだ視界のまま、彼を真っ直ぐに見つめて、笑う。


「……あんなに簡単にはいきませんよ」

「だが、無理ではない。そうだろう? 俺とお前なら」

「……そうですね。私と、貴方なら」



 二人で、共に戦えるのならば、きっと。



 ぱきり、と何かが砕ける音がした。

 夜が明ける。花が揺れる。音もなく、水面にさざ波が立つ。いつの間にか玉座はなくなり、朝日にも似た眩しい光が差し込んでいる。

 注ぐ光に、水面に散った白の花が――スゥーリの花が、一斉に輝いた。


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