第11話 彼と吟遊詩人

 なんだこれは、とアッシュは我が目を疑った。


 一向に動かない体に鞭打って、かろうじて顔だけ上げる。その眼前で広がるのは、紅と蒼。


 業火を前に、フェンが毅然と立っている。不思議な抑揚をつけて歌っていた。応じるように、フェンの周りに光が舞う。蒼光は瞬く間に数を増して、形を成す。


 それは冬の澄んだ光のように掴みどころがない。

 それは静かな湖面にも似た底知れぬ深さがある。

 深く、冷たく、穢れを知らず、怖いくらいに澄み切った、蒼の水。


『……我が名において 仇なすものを鎮めよ 流転し 母なる神へと戻せ』


 どこまでも透き通った声が命じる。

 その命を喜ぶように、辺りを揺蕩っていた蒼が、紅蓮の炎に殺到した。水が炎に触れる傍から白煙がもうもうと立ち上る。抵抗するかのように炎が勢いを増そうとする。けれど蒼く輝く水がそれを許さない。


 熱風とも冷風ともつかない風が吹きぬけた。フェンの銀の髪を揺らす。蒼を従える後姿は恐ろしいほど神々しかった。


 炎は、ほどなくして消えた。同時に、蒼の光も消える。まるで最初から何もなかったかのように。性質の悪い幻覚であるかのように。

 そしてフェンは、地面に崩れ落ちた。



*****


 記憶にあるのは、抜けるように青い空だった。


「だからねぇ、僕は言ってやったんだよ。あいにくですが、貴方のことはお遊びです、って」

「えぇー……なんでそんなことしちゃうかなぁ……兄さんは顔だけは良いのに」

「だけは? え、ちょっとさりげなく僕のこと馬鹿にしてる?」


 くすくす笑う声が聞こえる。暖かい日差し。優しく吹く風。死の臭いを感じない空気は、どれほどぶりだろうか。

 なぁ、アッシュ、聞いてくれよ。

 その声に、アッシュは振り返った。そうして気づいた。

 こんな風にオルフェは穏やかに笑わないこと。

 その傍らにいる、利発な目をしたオルフェの弟はもういないこと。

 これは、夢であるということ。


*****


 ぱちぱちと薪木が爆ぜる。

 焚火の炎は優しく夜闇を照らす。太陽は当の昔に地に落ちていて、炎から一歩遠ざかれば、そこは暗闇の世界だ。夜を告げる鳥の鳴き声が響き渡る。


 壊れた馬車に背を預けていたアッシュは、ゆっくりと瞼を上げた。焚火を見つめる内に寝ていたらしい。時間にすれば半刻もないだろうが、寝る前に比べて、体の疲れはずいぶん取れていた。


 目立った外傷もなく、半時して動けるようになった彼は、仕方なく野宿をすることに決めた。アッシュは王族だが、野宿自体に抵抗はない。戦地では、ここよりもっとひどい環境のことが多かった。


 すぐ近くには、目を覚まさないフェンが横たわっている。その反対側には、助けた男が一人。よほど金が好きなのか、かき集めた硬貨――おそらく彼のものではない――の数を数えては、にやにやしている。調子っぱずれな鼻歌さえ聞こえる。


「……おい」

「っ、へ、へい!」


 アッシュが声をかければ、頓狂な声を上げて男は硬貨を取り落とした。恐る恐るアッシュの方を見やる。その様子から、男がアッシュの立場を理解していることが伺える。


「お前……ゲイリー・ルードマンと言ったか」

「は、はあ」

「何をしにこんなところへ?」

「へ……? そ、それは乗っていた馬車が壊れやがりましてござって、」

「そうじゃない。この森にいる、ということは、森を抜けた先の村に行く予定だったか、行った後なんだろう。一体何をしに来たんだ、こんなところに」


 あと、普通に話せ。ゲイリーの聞くに堪えない敬語に、アッシュは早々に見切りをつける。

 緊張からなのか、額いっぱいに汗をかいたゲイリーは、それでも少しほっとしたようだった。


「……なに、ってネタを仕入れに行ってたのさ」

「ネタ?」

「そうさ。なんせ俺様は吟遊詩人だからな!」

「……という割には、竪琴もなにもないようだが」

「そりゃそうさ。酒代のための尊い犠牲になったからな」

「酒代ねぇ……」

「チッチッチッ! これだから素人ってのは困ったもんだ」


 胡乱気な視線を向けるアッシュに、やれやれと言わんばかりにゲイリーは頭を振った。

 いいか、と言ったゲイリーは、ピンと立てた人差し指で、己の頭を指して見せる。


「俺みたいな玄人になると、ここで勝負すんだよ」

「…………」

「古今東西、あらゆる話を仕入れ、面白おかしく伝えて回るのが俺の仕事さ。疑うってんなら、何か入用の話を言ってみな? いくらでも話してやるぜ。ただし、一回につき銅貨五、」


 五枚、と言い切るよりも早く、硬貨が一枚飛んできた。受け取り損ねて地面に転がったそれを拾い上げたゲイリーは、ぱっと顔を輝かせた。

 銀貨が一枚。平民が半年は優に暮らしていけるほどの大金。


「ぐ、ふふ。流石殿下……気前がいいねぇ……」

「さっき見た、あれはなんだ?」

「水神の巫女さ」


 アッシュの早口の質問に、ゲイリーは事も無げに返した。

 銀貨に何度か口づけし、懐に大事そうにしまってから、小さく咳ばらいをする。


「巫女は民を愛し 神は巫女を愛した」


 醜男に似合わず、朗々とした声で歌ったゲイリーは片目をつぶる。


「水の国は水神を祀ってた国だ。それは殿下も知ってる通り」

「あぁ」

「水神の巫女は、神に愛された生娘さ。民に請われれば雨を請い、民が嘆けば雨を止める」

「呪い師のようなものか」

「これだから火の国の奴らは頭が固い!」


 アッシュの質問に、ゲイリーは嘆くように頭を振った。


「呪い師だなんて、そんな怪しげで珍奇なものじゃあ、ない。あんたも見ただろう? 巫女の祈りは奇跡と同義だ」


 水の国は資源に乏しい国だった。商いは農作物が大半で、これといった強い兵団が存在したわけでもない。それでも国土は、火の国の三分の一に匹敵するほどの広さだった。


「ある伝説はこう歌うのさ。隣国のいかなる国も水の国に手を出そうとはしなかった。いや、正確に言えば、手を出せなかったのだ、ってな」

「その奇跡とやらのせいで、か」

「そういうこった……まぁ、殿下はそれをあっさり滅ぼしちまったわけで、吟遊詩人としては、そこがそそられるんだがな」


 ゲイリーの話は、アッシュを考え込ませるのに十分なものだった。

 おかしい、と。自分があの国に攻め込んだ時、そんな妙な力を見たことがあっただろうか。確かに多くの水の国の民は抵抗したし、王族は方々に逃げ散った。それら全てを炙り出して、殺して回った戦争は、アッシュが経験した中で、最も最悪な部類の戦争だった。


 奇跡とやらで水の国は守られていた。もしそれが本当なら、その奇跡はアッシュたちに向かってふるわれて然るべきではないか。


 炎で包まれた国を思い出した。フェンにとっても忌まわしい記憶だろうが、アッシュでさえ、それは変わらない。多くの民を殺した。けれどそれと同じくらい、多くの仲間が死んだ。その中には、発明好きだったオルフェの弟も含まれている。


 穢れた赤の記憶の中で、鮮明に覚えていることがある。どこだったかの村に攻め入って、炎の中で誰彼構わず剣を振るった。その最中で感じた視線。

 地面に伏し、顔だけをかろうじて上げていたのは少女だったのか、少年だったのか。今では知るすべもない。それでも、自分と同い年くらいの子供の、怒りと憎しみと絶望をないまぜにした目だけは忘れられない。

 蒼い、目。


 ――水神の巫女は、神に愛された生娘さ


「……じゃあ、これは女なのか」


 アッシュがハタと気づいて思わずに呟くと、ゲイリーが驚いたように声を上げた。


「ええ? あんた、気づいてなかったのかい?」

「知るか。第一、こいつは騎士団で働いてるんだ。女が入れるようなところでは、」

「騎士団! 銀髪!」


 今度はゲイリーがアッシュの言葉を遮る番だった。

 興奮したように立ち上がる。その目は爛々と輝いている。


「もしかして、こいつぁ銀の騎士サマかい!?」

「あぁ、まぁ、そうとも呼ばれてるな」

「なんて偶然! なんて奇跡! 男装した水の国の王女が火の国一番の騎士になってるたぁな!」

「……は?」


 アッシュの声が突然、一段低くなった。ゲイリーが怯えたように体を震わせる。


「な、なんだよう……」

「王女と、言ったか」

「そ、そうだが?」

「お前は見たことあるのか? 王女とやらを?」

「み、見たことはねぇけど、間違いねぇや」

「なぜそう言える」


「だって……王家の中で一番早くに生まれた生娘が、水の巫女になるからさ」


 その返事を聞くや否やアッシュは立ち上がった。流れるような動作で、傍らに置いてあった剣を抜き放つ。ピタリと、フェンの首元に突き付ける。


「……おい、起きているんだろう」


 ゲイリーが息をのむ。焚火が爆ぜる。その中で、フェンはゆっくりと目を開ける。

静かな、蒼い目――それに見つめられて、アッシュは呻いた。


「答えろ。お前が水の国の王族というのは、本当か」



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