第50話 彼と神
「なかなか話が進まないから、あんた達の無能さに嫌気がさしていたところなんだけれど……やっとあの子の居場所を突き止めてくれたみたいじゃない」
「アンジェラ……どうしてお前がここに?」
アッシュが低い声で問う。彼女は微笑む。それは、言いしれぬ不安を覚えさせるのに十分で。
アッシュが反射的に剣を抜こうとした、その時だった。
アンジェラは形のよい唇を優雅に動かす。
ひれ伏せ、と。
瞬間だった。アッシュの全身から力が抜ける。ぐらりと視界が強制的に揺さぶられる。目に見えぬ何かに押さえつけられる感覚がして、言葉のとおりに跪く。アッシュだけではない。オルフェとゲイリーもだ。
声を上げようとすれば、アンジェラは眉を寄せた。黙って、と短く告げる。たったそれだけで、己の意思とは無関係に口が噤まれる。
「駄目よ? あんた達。人からもらった飲み物を、簡単に信用して飲んだりしては」
呆然とするアッシュの耳に、アンジェラの忍び笑いが届いた。力を振り絞って視線を上げれば、彼女は優雅に首を傾げてみせる。
アッシュは顔をしかめた。拳を握りしめる。
「……今、なにをした?」
「あら意外だわ。まだ喋れるのね」
「とぼけるな……!」
「わめかないで。あんたの聴いた言葉のとおりよ」
アンジェラは事もなげに言って、目を細めた。
微笑みはそのままだ。
けれど視線は冷たい。氷のように。あるいは冬の日の凍てついた水のように。
人ではない何かの視線。
「お前は、なんだ?」
アッシュは低く呻いた。砂に染み込む水のように抜けていく力をかき集め、気づかれぬよう腰元の剣に手を伸ばす。
アンジェラはそんなアッシュを面白がるように見つめ……不意に軽い足取りで歩き始めた。
足音は、静かな空気の中に殊更軽やかに響く。
「女の子っていうのはね、秘密の話に弱いものなのよ」
「……なんの、話だ」
「秘密の話、殿下はお好きかしら?」
歩きながら、アンジェラは芝居がかった動作で指を鳴らした。
暖炉の中で燃え盛っていた炎が煙と音を残して立ち消える。
まるで、勢いよく水でも浴びせかけられたようだ。
水を。
「……水神か」
ただの勘だった。だが妙な確信を持ってアッシュが呟けば、アンジェラが窓を背にして立ち止まる。
振り返った。宵闇色の空を背負って、にこりと微笑む。
「思ったより察しがいいじゃない。神様なんて信じない、もっと頭の固い連中だと思ってたわ」
「……あいつが力を使うところは何度も見たからな」
「フェンのことを、あいつ呼ばわりなんて、いい御身分ね。人間の分際で」
鼻先で笑いながら、アンジェラは窓際に腰掛けた。優雅に足を組む。窓際に置かれた
アッシュ達を見下ろす。
「なかなかに良い眺めだわ。やはり、こうでなくちゃね」
「……何が目的だ」
「あら、分からない? 私、怒ってるのよ」
「…………」
「私の大事なフェンを面倒事に巻き込んだ張本人じゃない。もっとあんた達がしっかりしてれば、こんなことにならなかった。違う?」
アッシュは渋面を作った。まさにアンジェラの言うとおりだ。さりとて、彼が謝るべき相手は目の前の彼女ではない。
アンジェラが勝ち誇ったように、こちらを見てくる。自業自得とはいえ、アッシュは苦々しく呟いた。
「……そんなに大切ならば、もっと後生大事に守っておけ。お前はフェンと契約とやらを結んでいたんだろう? 俺なんかよりも、よほど上手くあいつを守れるんじゃないのか?」
「勿論よ。あんたの国を滅ぼしていいのならね」
さらりと告げられた言葉に、アッシュは思わず眼光を強めた。アンジェラは意に介した風もなく、肩をすくめる。
水神は巫女を愛し、巫女は民を愛した。
かつてゲイリーが歌ったのと同じ伝承を口ずさんだアンジェラは、くすくすと笑いながら頬に手を当てた。
「その言葉のとおりよ。私はあの子を愛してただけであって、他はどうだっていいの」
「……お前は、水の国を守護する神だと聴いたが?」
「あの子が大切にするから、守ってやってただけだわ。私にとって大切なのは、あの子だけですもの。フェンを見た時に、おかしいとは思わなかったかしら? あんたたちの国が攻め込んできた時に、どうして水神の力が振るわれなかったのか、って」
それは、フェンの力を初めて目の当たりにした時に、抱いた疑問そのものだ。思わず耳を澄ませるアッシュに、水神は笑みを深めてみせた。
「私が使わせなかったからよ。神の力は人の身には過ぎる代物。力を使いすぎれば、たとえ巫女といえども死んでしまうわ……あの国の人間どもは、あの子に力を限界まで使わせて、使い捨てるつもりだった。だから私は、あの国を見捨てたのよ」
「見捨てた、だと?」
「そう。戦が終わるまで、あの子を眠らせて、閉じ込めて、誰にも教えてやらなかった。まぁ結局、最後は目を覚ましたあの子の懇願に負けて、外に出してあげたけれど……もうその時点で、あんたが水の国を滅ぼしてくれてたでしょう? だからあの子は助かった、ってわけ」
そう言って、アンジェラは穏やかに微笑む。フェンのことを本気で想う、慈愛に満ちた表情を浮かべる。
だがどこか、狂った光を瞳にたたえる。
アッシュの背筋に薄ら寒いものが落ちた。
彼女の言うことは一見すると正しい。フェンを守るというその一点だけを切り取るなら。
だが。
「そのやり方では、あいつは幸せにならない」
アッシュは顔をしかめて呟いた。アンジェラの顔に不愉快そうな色がにじむ。
「……偉そうな口を利くじゃない」
「同じような誤ちを犯したからな」
「知ってるわよ、それくらい。あの子を通して見てたもの」
アンジェラの声が一段低くなった。たったそれだけだ。それだけで冷水を流し込まれたように全身が急激に冷え切る。言葉が紡げなくなる。
そんなアッシュを嘲笑うように、彼女は窓際から腰を上げ、ゆったりとした動作で歩いてくる。
「やっぱり、あんたのことは、どうしたって嫌いだわ」
本能的な恐怖が思考を停止させようとしていた。冷え切っていく体に反比例するように強烈な眠気が襲ってくる。それを必死に抑えて、アッシュは頭を巡らせる。
違和感があった。
フェンを探すだけなら、わざわざこんなに回りくどいことをする必要があるだろうか。現に彼女は、アッシュがフェンを閉じ込めたことを知っている。
それを知っていて、今のフェンの居場所を知らないのは何故か。
そしてアッシュ達の体の自由を奪うのみで、すぐに命を奪わないのは何故か。
「あ……いつは、炎の神と契約した……」
口を動かせば、耐え難い吐き気が襲ってきた。それでも何とか堪えてアッシュは口を動かす。
アンジェラの柳眉がピクリと動いた。
「……知ってるわ。それも」
「契約が……どういうものかは知らん……。だが、恐らくお前とフェンの契約は切れているな……? だから、お前はフェンの行方を追えなくなり……こんな回りくどいことをせねばならなくなった」
「…………」
「今、俺たちを殺せないのも、そのせいなんじゃないのか?」
「自惚れるな」
「っ、」
アンジェラは
彼女の指先で、音もなく黒い石が凍りついた。次いで砕け散る。破片が降り注ぐ。暗闇の中で床に当たって、乾いた音を立てる。
「殺せないんじゃない。殺してないだけよ」
「……そうか。それは懸命な判断だな」
「戯言を」
「俺ならば、あいつを救ってやれる」
肩の痛みは耐え難いほどだった。全身は今や凍りつきそうなほどだ。それでもアッシュは笑う。
笑い、アンジェラを睨みつける。
「賭けを、しようじゃないか」
「賭けですって?」
「そうだ。俺はあいつを救う。その過程で、俺のやり方が気に食わないなら、お前は俺を殺して、好きなようにフェンを助ければいい」
「くだらないわね。今あんたをこの場で殺して、フェンを助けに行った方が、余程確実じゃない」
「何度も言わせるなよ……それでは、あいつは幸せにはならん」
「……うるさいわね」
「本当はそれが分かっているから、わざわざ俺達の前に姿を現したんだ。お前は。違うか?」
アンジェラが目をギラつかせた。足音高く歩き始める。その指先に、見覚えのある蒼の燐光が灯る。どこか不吉な光が。
アッシュはしかし、それを真っ直ぐに見据えた。赤の目を光らせ、腹に力を込める。
「黙って俺に賭けろ! フェンのことを本当に助けたいのならば!」
怒号が、空気を震わせる。
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