第37話 闇に揺れる白、あるいは彼の願い

 燃え盛る酒場から、やっとの思いで帰ってきたリンを待っていたのは、ライの怒号と平手だった。


「小瓶を使ったのか!? しかも王都の中で!?」

「っ……」


 ぶたれた頬がじん、と痛む。スイリ薬局は騒然となっていた。ライがあらん限りの悪態をつく。周りの男たちが何とかライを押しとどめているが、そうでなければ再びリンを殴りつけそうな勢いだ。

 床に転がったリンの目に涙が浮かぶ。それでも必死にライを睨みつける。


「使ったわよ! だって、皆が私たちのこと馬鹿にするから!」

「放っておけばいいだろう! そんなもの! なのにお前ときたら……! よりによって、このタイミングで……!」

「見返してやろうと思っただけよ……! おじさんたちが言ってたもの! 小瓶を使えば、相手をちょっと驚かしてやれるって! なのに……なのに何なの、あれは!? あんなの誰かを殺すための道具じゃない!」


 誰かを殺す、という言葉に、ライを押さえつけていた男たちが目に見えて動揺した。表情が変わらなかったのはライだけだ。リンはぞっとして目を丸くする。


「もしかして……皆にも隠していたの? 私たちが人殺しの道具を作ってるってことを?」

「その言い方はやめろ!」


 ライが無造作に男たちの腕を振りほどいた。苛立ったように爪を噛む。隈で縁取られた目を忙しなく視線を動かす。

 その様子に、男たちが顔を見合わせた。一斉にライに詰め寄る。


「おい、どういうことだ? ライさん」

「人殺しの道具なんて聞いてないぞ?」

「道を整備するときに、岩を砕くために使う、って言ってたじゃないか」

「黙れ、お前ら!」


 口々に上がる男たちの疑問をしかし、ライは一言で黙らせた。落ちくぼんだ目には異様な眼光が灯っている。口角が引きつったように上がる。


「俺は嘘をついてはないぞ。岩に使えば、それを砕く便利な道具となる。そうだろう? ところがこいつは、この小瓶を間違って人に使っただけだ」

「それは……」


 リンは顔を俯ける。反論できなかった。ライの言葉自体はおかしくない。だが何故か信用もできない。

 男たちもどこか納得していない風だった。だみ声の男――リンがここで働き始めてから、何かと面倒を見てくれている彼が、ぽつりと漏らす。


「だが……最近妙な奴が訪ねてきたじゃないか。ほら、ルアードっていう商会のいけ好かねぇ若いあんちゃんが……あいつも何か嗅ぎまわってた。それは俺たちがヤバい仕事をしてるって、疑ってたからじゃないのか?」

「だったら、どうだというんだ?」


 ライは苛立ちを隠そうともせず、語気を強めた。

 だみ声の男の目が不安に揺れる。

 だがライはそれにさえ気づいていない様子だった。ふらりと歩き始める。入り口近くにかけていた上着を羽織った。その上から薄汚れた外套を被る。

 リンは思わず声を上げた。


「どこに行くの?」

「用を思い出した。出かけてくる」

「こんな夜遅い時間に?」


 絶対まともな相手じゃない。そう諫めかけたところで、ライがリン達の方を振り返る。

 フードの下から、ぎらぎらとした眼光がのぞいた。


「心配しなくても、全部上手くいくんだ。そういう約束だ。お前たちは黙って俺に従っていればいい」

「でも……」

「お前らのことは、俺が責任をもって守る……何があってもだ」


 ライが呟く。その言葉は、彼自身に言い聞かせているようでもあった。



 ――それが、三日前のことだ。

 ライがどこに行っていたのかは分からずじまいとなった。リンが知っているのは、彼が夜明けごろに戻ってきたということだけ。

 そして結局、リンは彼の下で働き続けている。


「あいつ、元々寡黙な男だなんだがなぁ……帰ってきてからますます喋らねぇんだ」


 だみ声の男はそう言って、リンが作業していたテーブルの上に木箱を置いた。中に入っていた小瓶が揺れて、澄んだ音を立てる。


「なぁ、それじゃあ俺たちも不安になるってもんだ。だろ?」


 リンの隣で、聞いてもいないのに男が返事を求めてきた。けれどそれも仕方のないことなのかもしれない。リンはため息をついて、辺りを見回した。


 スイリ薬局の地下、ルンドン工房の中は、やけに閑散としていた。

 整然と並べられた細長い木のテーブルが三脚。その上に小瓶の入った箱が幾つか置かれている。壁に沿うようにして置かれている大窯からは、湯気が立ち昇っていた。 元々薄暗い部屋は、立ち上る湯気のせいで、ますます視界が悪い。


 それでも、部屋が閑散としていることだけは分かる。いつもならこの時間――深夜近くになれば、大勢の人間が作業をしているというのに、だ。

 あの騒動から夜が明けて、この工房を辞める人間が増えたのだ。これも、だみ声の男の受け売りである。


「それにしてもお嬢ちゃんは立派だなぁ。ここを辞めようとは思わんのかい?」

「やめたって、行く当てなんかないもの」

「そうか? この前、貴族の屋敷でも働いてるって言ってたじゃないか」

「あれはちょっと前にクビになったの」


 男の顔が憐れむように歪んだ。リンは苛々しながら、机の上の小瓶を手に取る。大窯に向かう。

 同情するくらいなら、自分が言ったことについて覚えていてほしい。同じ質問は、少し前にされたばかりだ。


「私だって、こんな仕事続けたくない。でも、お金がなくちゃ生きていけないじゃない」

「こんな仕事、なぁ……だがな、嬢ちゃん。こう考えることもできねぇかい? ライの奴の言ってることが正しくて、嬢ちゃんの言い分は心配し過ぎだ、って」

「おじさんは、あいつのことを信じるの?」


 リンは足を止めて、きっと男を睨みつけた。

 男が弱ったように、頭をぼりぼりと掻く。


「そうじゃなくてだな……ええと、そういう可能性もあるんじゃねぇか、ってことを言いたいだけでなぁ」

「……本物を見てないから、そんなことが言えるんだわ」


 リンは刺々しく返しながら、大釜の方に向き直った。懐から布切れを出す。元々は小瓶の中に詰め込むための布だが、リンは一枚拝借して手ぬぐい代わりに使っていた。

 薄汚れたそれを、鼻と口元に宛がう。小瓶を足元に置いて、身の丈の半分ほどもある木蓋を両手で持ち上げた。


 白い湯気が一層深く立ち込める。むせかえるほど濃密な甘く苦い香り。木蓋を床に置き、リンは何度か咳き込んだ。この香りだけは未だに慣れない。くらくらと眩暈がしそうになるのを必死にこらえて、小瓶を手に立ち上がる。

 湯の中で、細かく千切った白い花弁が揺れている。それを丁寧に脇によけ、中で湯だっている液体を柄杓ですくって小瓶に入れた。


 スゥーリの花は煎じて飲めば薬になる。母がそう言っていたことを思い出して、胸が痛んだ。


 母は知っていたんだろうか、このことを。自分たちが作っているのは薬なんかじゃなくて、人殺しの道具だということを。


「あぁそうだ嬢ちゃん。一つ伝え忘れてたんだが」


 窯に蓋を置き、リンは振り返った。だみ声の男が箱から布を取り出し、ひらりと振ってみせる。


「今日からは、この布を小瓶に詰めてくれ。今まで使ってた布は廃棄だそうだ」

「なんで?」

「なんでってそりゃあ、ライがそう言ってたからだよ」


 リンに布を手渡した男は事も無げにそう言って、完成した小瓶が入っている木箱を持ち上げた。

 この男は、なんでもライが言っていたから、で片づけてしまう。それに釈然としないものを感じながら、リンは手元に目を落とした。


 布は二枚だ。リンが手ぬぐい代わりに使っていた布と、男から手渡された新しい布。どちらも赤色だが、微妙に色が違う。

 そのことが妙に気にかかって、リンは二枚の布をまじまじと見比べた。

 やっぱりそうだ。新しく使う布の方は、これまで使っていた布の色よりも少し濃くて深い色をしている。

 そのことにリンが気がついた時だった。


 にわかに、騒がしい音が響く。リン達は同時に天井を見上げる。

 複数の足音。言い争うような声。怒号と何かがひっくり返されるような音。


 ――最近妙な奴が訪ねてきたじゃないか。ほら、ルアードっていう商会のいけ好かねぇ若いあんちゃんが……あいつも何か嗅ぎまわってた。


 数日前のだみ声の男の言葉を思い出す。嫌な予感に、布を握りしめたまま、リンは顔を青ざめさせた。木箱をそろりと床に置いた男は、リンの方を振り向く。

 強張った表情から、男が自分と同じ可能性を考えていることが見て取れた。


「……嬢ちゃん、隠れとけ」

「で、でも……」

「いいから!」


 決然とした声で促される。リンはたまらず近くの空の木箱の中に身を隠す。すかさず、上から麻布が被せられる。なにかが蹴破られるような音がした。そして、怒号が明瞭になる。


「何の用だ!」


 だみ声の男が声を張り上げながら、リンのいる木箱から歩み去って行く。リンは暴れ出しそうになる心臓を押さえながら、麻布の隙間から目を凝らす。

 小さく息をのんだ。


 白くけぶる視界の先、見知らぬ男たちが入り込んできている。その先頭に立つのは金髪に片眼鏡をかけた若い男。

 女好きしそうな顔をした彼は、だみ声の男の問いかけに、やや硬い笑みを乗せて応じた。


「ルアード商会の者だ――申し訳ないが、君たちの身柄を一時的に拘束させて頂く」


*****


 小さな物音が響いた。それにアッシュは静かに目を開ける。

 いつの間にか陽が落ちていたらしい。執務室のソファの上、横になったままゆるりと視線を動かせば、暗闇の中で羽ペンが所在無げに床に転がっていた。アッシュはため息を吐く。さりとて拾い上げる気にもなれなかった。

 闇に沈む天井を見上げる。

 あれから何度目の夜だろうか。四度目か、五度目か。あやふやな記憶から日付を追うことは難しかった。

 代わりにちらつくのは、悲しみに歪んだ蒼の瞳だ。あるいは無防備に震える白く艶めかしい肌。そしてどんなに贅をつくした宝石よりも美しい銀の髪。


 彼女は今、王宮の片隅の部屋に閉じ込められている。

 そして、閉じ込めたのは他ならぬ自分自身だ。


 その事実は、薄暗い愉悦と傲慢な安心感をアッシュにもたらした。彼女はもうどこにも行かないし、行かせない。たったそれだけの事実が、アッシュの心をひどく慰める。

 彼女は、分かっていないのだ。水の国の民を守りたいという願いが、どれほど彼女自身にとっての苛酷であるかを。

 彼女の国はもう滅びた。ゆえに守るべき義務も背負うべき運命もない。そのことを、どうして認められないのか。


 彼女を守りたいと思う、自分の気持ちをどうして分かってくれないのか。


 アッシュは嘆息をつく。ついた息は夜闇を震わせることなく溶けていく。

 そう、自分はただ守りたいだけなのだ。胸中で呟く。火の国の銀の騎士でもなく、水の国の巫女でもなく、フェン・ヴィーズという一人の女性を。いつの間にか、自分の中でひどく大切な存在になっていた彼女を。

 フェンは、自分を頼ってくる他者に優しい。けれど、フェンを取り巻く他者は誰もかれもが彼女を傷つけていく。

 ディール村で、フェンのことを責め立てた副村長たちも。

 酒場で爆発があった時に近くにいた男たちも、きっとそうなのだろう。アッシュには確信があった。あの男たちとのやり取りは聞こえなかったが、フェンの様子がおかしくなったのは、その後からだったのだから。


 では、自分はどうなのか。


 暗闇がそう囁いた気がした。彼女の意思を無視して、閉じ込めて、それで本当に彼女を守ることになるのか、と。

 やめて、という彼女の震える声が鼓膜に染みつく。それはアッシュに、この上ない愉悦感と胸を刺すような罪悪感をもたらした。

 ――そう、罪悪感だ。

 アッシュは目を閉じる。片腕を瞼の上に乗せる。浮かんだ罪悪感を鼻先で笑い飛ばす。


 今さらだ、何もかも。

 たとえ自分が間違っていたとしても……あるいは自分が彼女を傷つけることになったとしても、彼女を守れればそれでいいじゃないか。


 たった一つ、自身の中で揺るぎない選択肢をアッシュは胸中で繰り返す。

 そうするうちに、アッシュの意識はするりと闇に溶けて行く。眠りに落ちる。分かった上で、彼は身を任せる。

 十年前からずっと変わらない、浅い眠りに。

 そして、ずっと変わらないからこそ、次に目の前に広がった光景にもアッシュは驚かなかった。


 そこは、小屋だった。

 薄汚れた窓を通して、柔らかな日差しが部屋の中に差し込む。壁際の棚に並べられた小瓶が、大小さまざまな影を伸ばしている。簡易的に組まれた暖炉の上で、小さな窯から湯気が立ち昇っている。

 それから。


「――アッシュ、どうかした?」


 柔らかな声がかかって、振り返った。自分よりも頭一つ分背の低い少年が、小瓶片手に首をかしげている。少年の兄と同じ金髪が、陽光に照らされて淡く輝く。

 それにアッシュは、笑った。

 あぁまたこの夢かと、そう思った。

 そしてあの日と同じ返事をする。

 オルフェの弟に向かって。


「いや。なんでもない……ルイン」

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