第36話 彼女と惑い

 扉を開けた先では、フェンにとって見慣れた光景が広がっていた。


 朝日の差し込んだ部屋は、柔らかな光で包まれている。窓辺で黒白棋トルカに使う盤が輝く。執務机に座ったアッシュが書類片手に顔を上げる。ディール村について、また何か考えていてくれたのだろうか。慣れ親しんだ光景がフェンの胸を僅かに震わせる。


 アッシュの表情が、フェンを見て僅かに緩む。

 だがすぐに、フェンの様子がおかしいことに気づいたらしい。形の良い眉がひそめられた。書類を置いて立ち上がる。


「どうした?」

「……殿下」

「どこか怪我でもしたのか?」


 フェンのすぐそばまで来たアッシュが首をかしげる。

 顔は相変わらずの仏頂面だ。初めて会った時と寸分たがわない。人を心配するなら、もう少しそれ相応の顔をすればよいのに。そんなどうでもいいことをフェンは思って、笑いかけて、失敗した。鼻の奥がツンと痛くなり、慌てて床に視線を落とす。首を振る。


 ただ、会いたかっただけ。そうとだけ、口にすれば良かったのだ。けれど競り上がった言葉は喉の途中でへばりついて出てこない。

 フェンは自分の服の裾を掴む。何度もつばを飲み込んで、躊躇いがちに口を開いた。


「……しばらく王城を離れようと思うんです」


 絞り出せた言葉は結局、今朝方辿り着いた結論だけだった。

 アッシュの瞳に探るような光が宿る。


「何か言われたのか。昨日の夜に」

「っ、それは」


 すぐに返事をしようとしてフェンは言葉に詰まった。沈黙は肯定となって二人の間に落ちる。

 アッシュが苛立たしげに息をついた。腕を組み、フェンを睨みつける。


「……警告したはずだ。安易に力を使うなと」

「で、でも! あの場では他の選択肢なんてなかった」

「大人しく助けを待っていればよかったんだ」

「そんなの……そんなの無理ですよ! あの炎をどうやって消すっていうんです!?

 貴方に私と同じような力があれば別でしょうけど!」


 アッシュの指摘は正論だ。けれど正論が現実的な案とは限らない。フェンが思わず刺々しく反論すると、アッシュの眉が跳ね上がった。組んだ腕を、忙しなく人差し指が叩く。


「俺が何もできないと言っているのか」

「……少なくとも、あの炎はどうすることもできなかった。そうでしょう?」

「お前だけを助けることならできた」

「私だけ助かっても意味がないでしょう!」


 アッシュの顔が歪んだ。赤の目に苛烈な光が一瞬よぎる。ぴくりと腕が動く。お前は。そう言いかけたアッシュの唇はしかし、すぐに引き結ばれた。怒りをこらえるような間。

 それが成功したのか否か。再び口を開いた時、彼の声音は常のそれに近いものになっていた。ひどく刺々しいことを除いては。


「……それで? なぜ王城を離れようと思ったんだ?」


 これでは、質問というより詰問だ。フェンは何度か手を握ったり開いたりした。気が重い。けれど答えないという選択肢もなかった。

 慎重に切り出す。


「調べたいことができたんです」

「調べる? 何をだ?」

「不審火について」

「アレはもう片がついただろう。ルルド商会の人間が犯人だ」

「でも、もしそうでないとしたら?」

「……何が言いたい?」


 フェンは昨晩調べ上げたことを少しずつ話し始めた。

 出火にはルルド商会が関わったと思われるものと、そうでないものがあること。

 前者に関しては、水の国だった場所だけが狙われているという規則性があること。

 そして、ルルド商会が捕まった後も、爆発事件が起きていること。


「だから……思ったんです。ルルド商会以外にも、別に犯人がいると。恐らく、水の国に恨みを持つ人物か……あるいは、水の国の民が傷ついて、得をする立場にある人間か」


 そう言った瞬間だった。

 アッシュの目の奥に何かがよぎる。瞬きの間に消え失せたそれを、フェンは見逃さなかった。

 思わず一歩、距離を詰める。


「何かご存じなんですか? 殿下」

「…………」

「殿下」

「この件は、これ以上深入りするな」


 返事になっていない答えを吐き出す。その声音はひどく硬い。アッシュはフェンから背を向けるようにして歩き始めた。

 フェンは眉を上げ、その後を追う。


「どうしてですか」

「お前に知る権利はない」

「そんなはずがない! 私の国の民が狙われてるんですよ!?」

「お前の国はもう滅びたんだ」


 アッシュが語気を強めた。執務机の前で急に立ち止まり、振り返る。

 炎のように燃える瞳が、フェンを見据える。


「混同するなよ。お前は火の国の騎士だ。滅びた国を守る必要などあるものか」


 それは、これまでにも何度か言われた言葉だった。だというのに、これまでで一番、フェンの神経を逆なでする。

 心臓が捻じれるような怒りと共に、フェンはアッシュに食ってかかった。


「彼らを見殺しにしろというんですか!?」

「ハッ、そんな細腕で何が守れるというんだ?」

「なんだってやってみせますよ! 殿下が何と言おうと、私には……私の命に代えてでも、生き残った民を助ける義務がある!」

「……お前の命に代えてでも?」


 アッシュの声音が、ぐっと冷たくなった。

 そこからはあっという間だった。フェンは突然、アッシュに腕を掴まれ引き寄せられる。乱暴に腕をねじり上げられ、執務机の上に押し倒された。アッシュの顔が間近に迫る。


「お前は、分かっていない」


 密やかな声には隠しようもない怒りがにじみ出ていた。けれど彼は何に怒っているというのか。理解できないフェンは、彼を睨みつける。


「何を分かってないっていうんですか」

「何もかもだ。全てだ……全て。肝心なことはなにも!」


 ぎりりと腕を握る手に力を込められた。フェンが痛みに顔をしかめる。

 アッシュの赤の瞳が細められた。その奥で、何かが揺れる。


「どうして、簡単に自分の身を投げ出せるんだ!? お前ひとりが体を張ったところで、何が守れる!? 何も状況は変わらないだろう!」

「そんなはずがない! 爆発の真犯人を見つけだして、止めることくらいなら私にだって、」

「止められるはずがない!」


 その口ぶりは、明らかに何かを知っているそれだった。フェンは唇を舐める。アッシュは何を隠しているというのか。フェンの視線に疑いの色がにじむ。


「何を、知っているんですか。殿下」

「……言う必要はない。お前はただ、この件から手を引けばいいだけだ」

「それが出来ないから、こうやって聞いているんでしょう!」

「俺を信じられないというのか?」

「信じたいに決まってるじゃないですか! でもその言葉の、何を信じろというんです!? 肝心なことは何も言ってくれないくせに!」

「それはお前もだろう!」


 アッシュはフェンの顎を乱暴に掴んだ。自分の方へ引き上げる。爛々と光る瞳がフェンを見据える。


「昨日の夜、あの男たちに何を言われたんだ? そもそも、あいつらは何者だ? お前に何をさせようとしている?」


 紅の瞳の向こうで、フェンは自分自身の顔が歪むのが見えた。喉奥までせり上がる。水の国の出身だという男たちのこと。彼らが復讐を望んでいること。そして彼らが水の巫女たるフェンに寄せる期待。


 全て打ち明けてしまいたかった。そのつもりで、この部屋に来たのだ。アッシュに相談して、馬鹿な奴だと笑われて、どうしようもないと言いながら二人で案を考えて。そういうことがしたかった。彼ならそうしてくれると信じていた。


 けれど、本当にそうだろうか。今のフェンには分からなかった。眼前の男はフェンが相談しても尚、彼らのことを見捨てろ、と言ってのけそうだ。


 そもそも、アッシュに助けを求めること自体がおかしいのだ。フェンの理性が囁く。

 彼は火の国の人間だ。王族なのだ。

 なにより彼は、かつて水の国を滅ぼした。


 自分の身勝手で、民を見捨てる気なのか。フェンの脳裏に老いた男の瞳が蘇る。暗く、底知れない色の目が。


 フェンは肩を震わせた。

 首を振る。横に。


「っ……言えません」


 アッシュの目に映る自分はひどく弱々しかった。彼の瞳が揺れる。ついで、細められる。


「……そうか」


 ひどく抑えられた声だった。怒り、苛立ち、落胆。その何もかもを孕んだ声音のまま、彼は冷笑を浮かべる。


「なら、こちらも勝手にさせてもらうとしよう」


 次の瞬間、フェンは目を見開いた。アッシュの唇が、彼女の唇を奪う。悲鳴を上げかけた声さえも飲み込んで、彼の舌がフェンの口内に差し込まれる。熱い舌でまさぐられて、体中が熱くなった。心臓が早鐘を打つ。どろりとした唾液が流し込まれて、体中の血液が一気に逆流する。


 永劫とも思える時間が流れた後、アッシュはゆっくりと唇を離した。肩で息をするフェンを見下ろし、どちらのともしれない唾液で艶やかに濡れた唇を舌先で舐める。

 赤の瞳には仄暗い光が灯っていた。


「……悪くないじゃないか」

「っ、な、にを……」

「なんだ初めてか? それはそれで好都合だが」


 くつくつとアッシュが喉の奥で笑う。身を固くするフェンから、彼は手を離した。代わりに彼女を閉じ込めるように机の上に手を置き、もう片方の手でフェンの頬を撫でる。その手つきは、恐ろしいほど優しかった。冷たい指先がフェンの顎の輪郭をなぞり、首筋を辿って胸元へ落ちていく。見知らぬ感覚にフェンは小さく声を上げる。

 アッシュは微笑んだ。ひどく歪んだ笑みだった。


「はじめから、こうしておけばよかったんだな。説得など俺らしくもない」

「っ、い……やだ……」

「閉じ込めて、壊して、俺の傍に置いておけばよかったんだ。そうすれば、余計なことなど考えなくて済む」

「っ、殿下……っ」


 暴れるフェンを無視して、アッシュは彼女の胸元のボタンを乱暴に外した。素肌にアッシュの吐息がかかって、フェンはぶるりと体を震わせた。

 怖いと思った。けれど同時に、間近に迫る熱と彼の香りに眩暈がする。そんな自分が情けなくて、嫌で、苦しくて、フェンの眦に涙が溢れる。


 アッシュが満足げに笑った。熱を孕んだ視線がフェンの肌をなぞっていく。そして、ある一点で止まった。


 ネックレスだ。呼吸のたびに僅かに揺れる白い肌の上で、深紅の宝石が輝く。


 アッシュの表情が強張る。その手が止まる。


「お前は……どうして……」


 ぽつりと呟く。その目が苦しげに揺れる。彼が何かを言いかける。けれどフェンは、続きを聞くことができなかった。


 アッシュの手が素早くフェンの首元にのばされる。

 とん、という軽い衝撃の後、不意にフェンの意識は遠のいた。

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