第27話 彼女と神
フェンは走り始めた。向かう先は子供たちを囲う炎の方だ。
時節、行く手を炎に阻まれる。その度にアッシュが炎をはらって道を作る。決して炎が消えるわけではない。それでも、先を進むには十分だ。
薄く水の張る川をしぶきを上げて駆け抜ける。炎が現れるたびに、川面に揺れる小さな白い花弁が赤に染まって消えていく。足を進めるたびに、ひどい頭痛を感じた。それでもフェンは足を止めない。
程なくして、フェンは子供たちの近くに辿り着いた。炎は相変わらず煌々と燃える。焼かれた空気を吸うたびに、肺が痛む。
肩で息をしながら、フェンは静かに剣を構えた。
『我らが母なる水神よ』
祈りの言葉を口にする。再び蒼の燐光が舞い始める。視界が霞む。炎にあぶられているはずなのに、指先からどんどん凍えていく。
――力を使う気か
不意に、あの男の声がした。ざらついた声音はフェンの神経を逆なでするように笑う。
――愚かな。たかが水の神ごときの力で、我を祓うことなどできぬ
その言葉に……フェンは紡ぐ祈りの言葉を止めた。戸惑うように辺りを揺れる蒼の光を無視して、彼女はどこへともなく語りかける。
「えぇ、そうですね……だから、提案があるんです。炎の神よ」
その言葉に、すぐに返事はない。だが心なしか驚いたように辺りの炎が揺れて。
――よもや、またそのように名を呼ばれるとはな
感慨深げな男の声が響いた。それにフェンは、自分の推測が正しかったことを知る。
――答えよ。なにゆえ、我を神と称する?
その問いに、フェンは微笑んだ。
「私の知っている神様とそっくりなので」
男の声がした。アッシュと別れる前にフェンがそう告げた時、彼は妙な顔をした。男の声など聞いていない、というのだ。さりとて、フェン自身は、聞こえた男の声が幻聴だとも思えなかった。
その時に、思い出したのだ。
どこからともなく現れる炎。限られた者にしか聞こえない声。そのどちらも、彼女が水神と契約した時とまるで同じ状況だということに。
水の国が信奉していたのは水神だけだった。けれど、信じられていないから、神が存在しない、とは限らない。
――水神ごときと一緒にされるのは我慢がならぬ
呻くような男の声に、フェンは目を細めた。
「ずいぶんと目の敵にしてらっしゃいますね?」
――あやつの力は、我の足元にも及ばぬ
「では、私と契約していただけませんか?」
フェンの言葉に、男の笑い声が響いた。炎が面白がるように大きく揺れる。蒼の光が戸惑うように明滅した。
――愚かな人の子よ! 一柱のみならず、我も求めるか!
「そうです。なにか問題でも?」
――過ぎたる力は身を滅ぼすぞ
「これは貴方にとっても利のある話なんですよ?」
体中の寒気が止まらない。まるでフェンが炎の神と話すのを嫌がっているかのようだ。それでもそれを無視して、フェンは努めて冷静に、前を見据える。
男が耳を傾けるような気配を感じた。そうであればいいと願いながら、フェンは笑みを深める。
「神の力を受け入れられる人間は少ない。たとえ、貴方の声が届く人間がいたとしても、その人間が貴方の強大な力に耐えられるかどうかは、別の問題だ」
――それが出来るというのか? お前が?
「もちろん。水の神を受け入れて、尚も生きていられることがその証拠でしょう」
値踏みするかのような無遠慮な視線が、どこからともなく送られた。フェンは背筋を伸ばす。蒼の燐光を無視して、まっすぐに視線を受け止める。口角を上げる。挑発するように。
「それとも……炎の神ともあろう方が、私と契約するのが怖いのですか?」
――……面白い
不意に、フェンの前で炎が渦巻いた。複雑に赤と紅が混ざり合う。炎は、瞬く間に大人ほどの大きさになった。
どの炎よりも、ひときわ大きく、強く燃え盛る。紅蓮の炎は人の形こそ成していないが、畏怖の念を感じさせるには十分だった。
剣を握る手が微かに震える。それでもフェンは目を逸らさない。
――その言葉を忘れるなよ。我は汝と契るもの。汝自身をも滅ぼす、破壊の力をもたらさん
姿なき男が歌うように話す。そのたびに、紅蓮が揺れる。金にも近い赤の火の粉が辺りを舞う。蒼の光が、少しずつその輝きを弱める。
そして炎が、まるで手のようにフェンの頬へと伸ばされて。
それにフェンは、この炎こそが炎の神そのものなのだと確信をもって。
彼女は目を細め……笑みを消した。
「えぇ……ですから、貴方との契約はお断りします」
そう、フェンが静かに告げた瞬間だった。
炎の背後から、剣が突き立てられる。
「……気安く触れるなよ。神風情が」
剣を握るアッシュが低く呟く。炎が馬鹿にしたように揺れた。
ただの剣で炎は切れない。そう思っているのだろう。実際、その通りだ。
いかにアッシュの剣技が優れようと、ただの剣で神を殺すことはできない。
いかにフェンが水神の力を奮おうと、全ての炎を消しきることもできない。
けれど、アッシュの剣にフェンの全ての力を集めて、アッシュが元凶を斬ったとすれば。
フェンは、アッシュの握る剣の切っ先を無造作に掴んだ。掌が切れる。鮮血が零れる。零れて刃を伝う。痛みに構わず、彼女は素早く口を動かした。
『我が血に集いて 鎮めの加護を与えよ――!』
蒼の光が一気に輝きを増した。フェンの意に沿って刃へ伝う。フェンが手を離すと同時に、アッシュが蒼の剣を振るう。炎を両断する。
男の絶叫が響いた。蒼光が瞬く間に炎を覆いつくす。蒼が紅を喰らう。白煙が立ち上る。炎が少しずつ消えていく。
それに安堵を覚えて、フェンは座り込んだ。アッシュが駆け寄ってくるのが見える。少しずつ暗くなり始める視界の端で、彼が手を伸ばしてくれるのが分かる。それに応じたくて、フェンは重い腕をなんとか上げようとして。
――忌々しい……! 忘れるなよ、この恨みは必ず晴らす……!
苛立たしげな炎の神の声が微かに鼓膜を打つ。それを最後に、フェンの意識は落ちた。
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