第34話 彼女と邂逅

 燃え盛る炎は瞬く間に視界いっぱいに広がった。

 炎が空気を焦がす。喉が焼ける。部屋が一気に阿鼻叫喚と化す。怒号、悲鳴、罵声、慌ただしく逃げ出す足音。


「っ、なんてことを……!」


 フェンは顔を青ざめさせて、リンの肩を揺さぶった。

「自分が何をしたのか分かっているのか!?」

「私は悪くない!」


 リンが目に涙をいっぱいに浮かべて頭を振った。


「あいつらが私たちのことを馬鹿にするからよ……!」

「だからって、こんなことをしていいわけないだろう!」

「っ、私だって、ここまでだなんて知らなかった!」


 言い訳がましくリンが喚く。


「でも……じゃあ、我慢しろっていうの!? 私たちが馬鹿にされて当然なの!? お兄さんはこの国の生まれだから、そんなこと言えるのよ!」


 リンの言葉はフェンの心臓を正確に突き刺した。唇をかみしめる。ごうごうと、燃え盛る炎が鼓膜を揺らす。


 否定するのは簡単だった。

 正体を明かして、自分が水の国の出身であるということも。

 あるいは火の国の騎士として、民を傷つけるべきではない、ということも。けれど。


 責めることができるのか。理不尽に傷つけられる彼らを。

 彼らはむしろ、自分が守らなければならない立場の人間だというのに?


 煙と焼かれた空気が胃の奥底を焦がす。だというのに、腹の底にひやりとしたものが沈む。リンの肩を掴む指先が僅かに震える。


「じゃあ……じゃあ、彼らが死ねばいいというのか?」

「それは……」

「その通りだ」


 フェンの言葉に、はっとしたようにリンの涙にぬれる瞳が揺れる。しかし震える言葉の続きを紡いだのは、壮年の男だった。

 炎の中で、その目はぎらぎらと輝く。火傷の跡が陰鬱な模様を描く。


「なんで、あいつらに気を遣う必要がある? あいつらは俺たちの家族を殺したんだ。当然の報いじゃないか」

「わしらは嬢ちゃんを評価するぞ。いい気味じゃ。われらの家族と友も炎にまかれて死んだ。同じように奴らも苦しみ死ねばいい」


 リンがびくりと肩を震わせる。老いた男が言葉を続けて引き攣った笑い声を上げる。

 フェンは背筋が凍る思いがした。ゆるりと首を振る。


「おかしい……そんなの……だって、戦は十年も前に終わってるんだ……」

「戦が終わったら、俺たちの悲しみも終わるのか?」


 壮年の男はそう言って、フェンにどろりとした視線を向ける。


 ぞっとした。

 その目に宿る怒りも憎しみも、少し前のフェンが抱いていたものと寸分違わない。

 業火が揺れる。あの日に引き戻される。赤と血にまみれたあの日に。互いが互いを殺しあっても、何もおかしくなかったあの頃に。


 間違っている、と思う。人が人を簡単に殺していいはずがない。

 けれど糾弾する言葉は、乾いた喉に貼りついて出てこなくて。


「フェン! どこにいる!?」


 鋭い声がフェンの頭を叩いて、現実に引き戻した。揺れる炎の向こうで、アッシュが駆け寄ってくるのが見える。


「っ、こっちです……!」


 フェンは二度頭を振った。まずは彼らを助けねば。逃げるようにそう思い、フェンが声を上げる。その瞬間だった。


 木が軋む音。それと同時に、燃え盛る柱が二人の間に崩れ落ちてくる。進路をふさがれ、炎の向こうでアッシュが盛大に舌打ちした。


「おい、大丈夫か……!?」

「っ、はい……!」

「早くこっちに来い!」


 アッシュが示したのは、倒れた柱と壁の間にできた僅かな隙間だ。人が一人、通れば崩れてしまいそうなほど細い道。


 フェンはしかし、躊躇した。辺りを見回す。

 リンは心底怯え切った顔をして立ち尽くしていた。老いた男は、壮年の男に支えられて立ち上がりはしたものの、それがやっとという様子だ。

 こちら側にいるのは、自分だけではない。

 そしてアッシュが示した細い空間以外に、逃げ道はない。


「フェン!」

「っ……離れて下さい……!」


 アッシュの急かすような声に怒鳴り返しながら、フェンは腰に下げた剣を抜いた。もう一度辺りを見回す。頭を必死に巡らせる。それでも結局、同じ結論がはじき出される。


「炎を消します……!」

「やめろ!」


 フェンの言葉にアッシュの顔色が変わった。その瞳に焦りの色が浮かぶ。


「お前だけでも逃げてくればいいだろう!」

「どうしてですか!? こっちにはまだ人がいるんですよ!?」

「ここは人目がありすぎる! お前の正体がバレてもいいのか!?」


 剣の柄を握る、フェンの手に力がこもる。

 頭中で警鐘が鳴り響いていた。

 アッシュの警告を素直に受け入れろと、理性が叫ぶ。ここで力を使えば、取り返しのつかないことになると、直感が喚く。


 けれど同時に、救うべき人間がいるにも関わらず、正体が明かされることに一瞬でも恐怖を抱いた自分に、嫌気がさす。


「そんなこと、言ってる場合じゃないでしょう!」


 アッシュと自分自身に怒鳴り返して、フェンは剣を正眼に構えた。唇を動かす。素早く、正確に。


『我らが母なる水神よ――!』


 足元から蒼の燐光が巻き起こった。渦巻く光が、被っていた帽子を吹き飛ばす。押し込めていた銀の髪が溢れて、蒼の光の中に舞う。

 背後で誰かが息をのんだ。嫌な予感が心臓をひりつかせる。けれどそれさえも、フェンは無視する。


『集いて仇なす炎を鎮めたまえ――!』


 蒼がはじけて、炎に襲い掛かった。

 踊り狂う炎の赤が一気に涼やかな蒼に塗り替えられる。するりと指先から熱が抜けていく。炎がゆっくりと小さくなり始める。蒼と紅が舞う向こう側で、アッシュが顔を歪める。


 そんな顔をさせたいわけではないのに、とフェンの胸がつきりと痛んだ。

 どうかこのまま何事もなければいいと、身勝手な願いが頭をよぎった。

 未だ二人を分かつ炎の先で、アッシュの唇が動いた。


 けれど。


「……巫女様……!」


 背後から響いた声が、フェンの願いを砕く。

 感極まった男の声だ。構えていた剣の切っ先が僅かに揺らぐ。それでもフェンは覚悟をもって剣をしまい、振り返る。


 男たちと目があった。老いた男と壮年の男。彼らは歓喜に瞳を輝かせている。炎の色を映して輝くそれは異様なまでに苛烈で、フェンは僅かにたじろぐ。

 それでも、震える胸を押し隠して毅然と彼らを見下ろした。


「……えぇ、そうです。いかにも」


 フェンは静かに顎を引いた。老いた男の眦に涙が光る。


「まさかこうしてお会いできる日が来ようとは……! 我らが国が滅んだ時に、お亡くなりになったとばかり聞いておりましたから……!」

「……それに関しては謝罪いたします。民を差し置いて、私が真っ先に姿を隠したこと、さぞお怒りのことでしょう」

「いいえ……いいえ! 巫女様の御身があってこその、我らなのです! そのように頭を下げられるな!」

「ですが」

「故あってのことなのでしょう。聞きましたぞ? 巫女様は、長く火の国で騎士として働いてらっしゃった、と。憎き敵の下で過ごされた辛苦の日々を想うと胸が張り裂けそうだ……けれどこうして相まみえることができた! これも我らが水神様のお導きでしょう!」


 老いた男が意気揚々とまくし立て、言葉を切った。

 巫女様、と感極まったように老いた男がフェンを呼ぶ。そして彼は、ひどく幸せそうに口を動かす。


「本当によかった……これでやっと、この国に


 炎の中で、その言葉だけが冷え切っていた。

 フェンの心臓が不自然に脈打つ。


「……復讐、ですって?」

「えぇそうです、巫女様」


 老いた男はゆらりとフェンの方に歩き出した。炎に照らされた顔には、恍惚としてた表情が浮かぶ。


「ずっとこの時を待っておりました。この十年、我らは片時たりとも復讐の火を絶やすことはなかった。そのための準備もして参ったのです。ここに巫女様も加わりますれば、皆の士気も上がりましょうぞ」

「なりません、復讐など……! また戦を起こすつもりですか!?」

「戦? それもよいですな! 巫女様が率いて頂ければ、奴らの鼻を明かしてやることもできましょう!」

「っ、そういうことを言っているのではありません! 十年経ったのですよ!? 皆やっと、穏やかな生活を取り戻しつつあるのです! 戦を起こせば、それが台無しになることが、どうして分からないのです!?」

「穏やかな生活?」


 僅かに嘲笑交じりの声は、壮年の男のものだった。フェンが目を見張るその先で、彼は火傷の跡を歪ませて口角を吊り上げる。


「巫女様はご存じないのですか?」

「なにを、です?」

「最近、水の国の村だった場所で、あちこち爆発騒ぎが起きてるんです。ダリル村にいた私の父も、それに巻き込まれて死にました……そしてその全てで、火の国の商人が出入りした後に炎が出ている」


 フェンの背筋が凍った。掌に嫌な汗がにじむ。炎が爆ぜる音が、やけに耳につく。


「……火の国が何か仕掛けたというのですか?」

「それ以外にどう考えろというのです?」


 男の顔から笑みが消える。暗く淀んだ瞳が炎に染まる。どろりと絡みつく視線がフェンに投げかかる。


「勝てずともよいのですよ、巫女様」

「……なんですって?」

「我々はただ、復讐をしたいだけなのです。我らの痛みの一端でも、奴らに味あわせたい」

「十年前、我々は全てを奪われた」


 老いた男が言葉を継いで、すがるように手を伸ばした。


 暗がりから延びる手は、亡者のそれだ。あの戦で死んでいった者たちの手。嫌な想像に、とっさにフェンは身を引こうとする。だが、枯れ木のように細い腕は素早くフェンの服の裾を掴み、離さない。

 老いた男の底なし沼のような眼がフェンをとらえる。


「家族と友が殺され、我々だけがおめおめと生き残った……生き残ってしまった。もう限界なのです。この気持ちは、抱えて生きていくには、あまりに重すぎる」


 フェンは唐突に気づいた。

 この人たちは、死のうとしているのだ。復讐の末に。


 炎が空気を焦がす音が響く。勢いはずいぶん収まっていた。それでもうるさいくらいに響くそれは、記憶の中の音だ。

 燃え盛る街。焼け焦げた臭い。血と業火で染まった景色。

 男たちの目が再びフェンをあの日に引き戻す。


 ぐらりと眩暈がした。

 自分という器に、薄暗い感情が注がれている。

 憎しみも怨嗟も悲しみも、全てがないまぜになった水の国の民の感情が。

 それが自分を飲み込むような錯覚を覚えて、フェンの全身が総毛立つ。血の気が引く。悲鳴を上げそうになる。

 だが。


「――失せろ」


 低い声と共に、視界が不意に暗くなった。老いた男の手から引き離すように、乱暴に後ろ向きに引っ張られる。たたらを踏んだフェンは抱き留められる。

 たくましい胸元と鼓動の音の主は顔を見なくてもよく分かった。そこから伝わる熱に、フェンは初めて自分の体が凍えそうな程冷え切っていることに気づく。


「何者じゃ、あんたは」


 老いた男が呻いた。


「邪魔をするでない! 我々は重要な話をしとるのだ!」

「炎は消えただろう。早くここから立ち去れ」

「立ち去るのはお前の方じゃ! この方をどなたと心得る!? そのような薄汚い手で触れて良いお方では、」

「失せろと言っているのが聞こえないのか」


 アッシュは、獣のように低く唸った。声を荒げたわけでもない。だというのに、その端々に明確に滲んだ殺意が、老いた男を黙らせる。


 ややあって、遠ざかる足音がした。

 それをきっかけに、フェンの緊張の糸が切れる。意識が不意に遠ざかる。

 闇の中に沈む、その直前で、微かな声が聞こえた気がした。


 行くな、という、今にも泣き出しそうな声が。

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