第32話 彼女と小さな幸せ

 アッシュとの待ち合わせ場所は、フェンもよく知る場所だった。


 王都一、大きな広場だ。主要な道は全てここを経由し、王城へ通じる。日暮れにも関わらず人通りが多いのも、いつも通り。中心に据えられた噴水から水が上がるたび、西日に反射してきらきらと光る。

 なにもかも、見慣れた景色だった。感慨深い何かがあるわけもない。


 だというのに、先ほどからフェンの心臓は痛いほどに鳴っている。


 そわそわと辺りを見回し、息を何度も胸いっぱいに吸っては吐いてを繰り返す。胸元をぎゅっと押さえる。頭の中でもう何百回も繰り返すのは、アッシュに会ってからの一連の流れだ。


 きっとアッシュは、王城に通じるこの通りからやってくるはずだ。

 だからまずは、笑顔で挨拶をする。

 次に服を貸してくれたお礼を。

 それからさりげなく……あくまでさりげなく、を見せて、重ねてお礼を言って。それからゲイリーを探し始めればいい。


 そうだ。それでいい。

 フェンが自分にそう言い聞かせたところで、鐘が鳴る。

 真っ白な鳥が茜空にはばたく。


「待たせたな」


 声は背後から届いた。

 フェンの心臓が飛び上がる。


「殿下……、どうしてそっちから……」


 王城とは正反対の方角のはずだ。そう思いながら、ゆっくりと振り返ったフェンは、アッシュを見て呆気にとられた。


 装い自体はシンプルだ。白のシャツに濃紺のスラックス。少しくたびれた上着を選んでいるのはわざとなのだろう。

 髪も染めたのか、いつもの朱色というよりは茶色に近い赤髪になっている。そして、色つきの硝子の入った眼鏡。

 平民というには少し無理があるが、一介の商人と捉えれば大して目立ちはしない服装ではある。


 ……ではあるのだが、どうしてこうも色気を感じるのか。


「……どうした?」

「……っ! いいえ……っ!」


 アッシュに顔を覗き込まれて、フェンは顔を赤くして顔を逸らした。

 これは誤算だった。考えてみれば、アッシュが普段とは違う服を着ていることなんて、当然のことなのだが。


 王宮でのアッシュは、きっちりと礼服を着ていて、どこか近寄りがたい雰囲気さえある。それを見慣れているフェンにとって、今日のラフな出で立ちのアッシュは新鮮だ。妙に胸がざわつくのは、そのせいなのか。それとも会うのが三日ぶりだからか。


 必死の予行演習もそっちのけでフェンがぐるぐると考えていると、アッシュがどこか満足げに呟いた。


「ちゃんと、俺の渡した服を着てきたな」

「そ、それは……もちろんです。せっかく用意してくださったものですし……」


 フェンは服の裾をぎゅっと掴む。おかしなところがないか、急に不安になって、さっと自分の服装に目を走らせた。


 少し大きめの黒のシャツは、きっちりズボンに入れ込んでいた。腰に下げた剣は護身用。髪はしっかりとキャスケット帽子に入れ込んでいるから、髪色でばれることもないはず。


「それに……」


 途中まで言いさして、フェンは逡巡した。唇をかみしめる。出かける前のアンジェラの嬉々とした言葉が蘇る。

 ちゃんと、を見せなさいよ、という言葉が。


「……あ、あの。これもちゃんと着けてきました、から」


 何を、と言うのが恥ずかしかった。代わりにおずおずと、少しだけ胸元のボタンをはずして見せる。


 フェンの胸元……白い肌の上で、赤い宝石のはまったペンダントがきらりと光った。


 アッシュが息をのむ音が聞こえた。フェンは慌てて顔を上げる。

 眼鏡の硝子越しに、赤の瞳と目があう。

 彼は何故か神妙な面持ちだ。


「……こんなところで見せる奴があるか」

「え?」

「いいから早く隠せ、阿呆が」


 少しばかり苛立ったような声音に、フェンは慌てて従った。何故かアッシュは目元を押さえている。

 もしかして、なにかまずかっただろうか。フェンはさっと顔を青ざめさせた。


「と、というか! これ、頂いてよかったんですよね……!? もし間違いとかだったら、今すぐにお返しして、」

「間違いじゃない。お前のものだ、これは」


 お前のもの。その言葉が妙に耳について、フェンの胸をざわつかせて。

 フェンは視線をうろうろとさまよわせながら、必死に口を動かした。


「……ですが……ええと……」

「気に入らなかったか?」


 少しばかり不安げなアッシュの声音に、フェンはぶんぶんと首を横に振った。


「そんなことは……!」

「なら、何をそんなに気にしているんだ」

「その……理由が分からないというか……どうしてこんな高級なものを?」

「……詫びの代わりだ。三日前の。お前には怖い思いをさせてしまったから」

「詫びなんてそんな……! むしろ私の方こそお礼を言うべきで……」

「気にするな……俺が受け取ってほしいんだ。お前に」


 そう言ったアッシュは、眼鏡の奥で優しく目を細める。それに思わずフェンは目を奪われた。

 色つきの硝子の向こうで、彼の瞳が煌めく。


 今はどんな色に輝いているのだろう。

 ほんの少しばかり眼鏡をしているのが惜しく感じられて。


「あ、ありがとう……ございます……」


 結局気の利いた返しも思いつかず、ぼそぼそと呟けば、アッシュがほっとしたように息を吐く。


「似合っているぞ。お前は肌が白いから、濃い色がよく映える」


 声音はいつもと変わらないのに、どこか甘く感じられるのは自分の気のせいなのか、なんなのか。

 そもそもこの場合、なんと返せばいいのか。

 気恥ずかしさで空回りする思考を必死で動かして、けれど答えは見つからなくて。フェンが途方に暮れた時だった。


 小さく、腹の虫が鳴る。


「す、すみません……!」


 顔を赤くしながらフェンが謝れば、アッシュが噴き出した。


「いや、俺こそ配慮が足りなかった」


 夕飯を食べがてら、ゲイリーを探す算段をつけようか。くつくつと喉の奥で笑いながらアッシュにそう提案され、フェンは急いで首を縦に振った。


*****


 陽が暮れたばかりの城下町は、人通りが多かった。


 帰宅を急ぐ者。仕事終わりに一杯やっていこうという者。どさくさに紛れて、盗みを働こうとする小悪党まで。通りは人々の賑やかな声で溢れている。道の両端に立ち並んだ露店からは腹の虫を騒がせるような、香ばしい匂いが漂っていた。


 その中を、フェンとアッシュは二人で連れ立って歩く。


 アッシュに先導されて歩き始めはしたものの、途中からはフェンが彼に色々と教える立場になっていた。


 立ち並ぶ露店の中でも、特に美味しい料理が食べられる店はどれか。

 あそこの店は、甘酸っぱく味つけされた紅茶が絶品。

 こっちの店の甘味は、夏に出たばかりの新作。


 幾つかを指さして、その中でもアッシュが気に留めたものを、フェンはすかさず買っていった。

 毒見も兼ねてなので、必然的に一つの食べ物を二人で分け合うことになる。


 この肉は悪くない。

 その紅茶の味はなかなか。

 あの果物の砂糖漬けは甘すぎる。 


 互いに感想を言って笑いあう。

 実際のところ笑っているのはフェンくらいのものだし、アッシュの口数が多くなったわけでもなかった。それでも常の仏頂面の中でアッシュはどこか楽しげだった。そのことがフェンとしても嬉しくて。


 勿論、今回の外出の目的はゲイリーを探すことだ。露店で物を買うついでに、情報を集めることも忘れない。

 身分も当然偽っている。上手く嘘を吐くコツは、真実を少しばかり混ぜること――そんなアッシュの提案により、二人はお忍びで城を出てきた貴族と付き人という関係である。


 全て必要に駆られてのことだ。

 この距離の近さも、今日限りの嘘。

 時折すれ違う男女のように、手をつなぐことも腕を組むこともない。

 それでもフェンにとって、この時間はひどく心地よかった。

 聖夜祭の飾りで彩られた街並みは、燈籠ランタンの柔らかな灯りで照らされて、煌めいている。

 人々のざわめき中で、フェンの話に静かに耳を傾けるアッシュは、時節柔らかな笑みを浮かべて見せる。

 たったそれだけのことなのだけれど。


 自分たち二人は、どう見えているんだろうか。人混みの中で、仲睦まじげに腕を組んで歩く男女を見かけて、不意にそう思う。


「――どうした?」


 少し前を歩いていたアッシュが、フェンの方を振り返った。ぶっきらぼうな声音にも気遣うような色がある。それが何とも彼らしくてフェンは小さく微笑む。


「いいえ、なんでも」


 そう言いながら、フェンはアッシュの方に歩を進めた。


 例えば自分たちが、ただの平民だったならば。そんな益体もない仮定に、胸の内で蓋をしながら。

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