第53話 彼と王太子

 まるで物語の一節のような光景に、広間の客が感嘆の息を漏らした。

 ぽつりぽつりと拍手が響き始める。それが広間中を満たすのに、さして時間はかからない。


 火の国を想う、若き君主達を鼓舞するかのような音の洪水。

 ユリアスが祝杯を掲げ、来る年の繁栄と、血を分けた弟の無事を告げる。呼応するように客たちも祝杯をあげ、夜会に華やかなざわめきが戻ってくる。


 ゲイリーとオルフェは、ワイングラスを片手に持ったまま微動だにできずにいた。

 このように事が動くことは想定していなかった。アッシュがユリアスに下るような演技をすることなど聞いていない。



 ――否、そもそもあれは本当に演技なのか。

 自分たちは、アッシュに裏切られたんじゃないのか。



 二人の間に、じっとりと粘つくような不安が漂う。喧騒の中で、それは一層暗く、重いしこりとなって転がる。そして。



 不意に、アッシュが顔を上げた。人々の間を縫って、二人の方に鋭い視線が送られる。

 一瞬だけだ。ユリアスに声をかけられた彼は、すぐに人混みの中に消えてしまう。


 だが、力強い光を宿したそれは、ここ数日間で随分見慣れた色を宿していて。


 靄を払うような鮮烈な色に、ゲイリーは目を瞬かせた。グラスを握る手に、僅かに力がこもる。


「……なぁ、オルフェ」

「……呼び捨てにするなって言ってるだろ」

「あんたは、どう思うんでい?」


 アッシュの消えた人混みを見つめたまま、ゲイリーはゆっくりと尋ねた。ややあって、大仰な嘆息が降ってくる。


「……あれで演技でなかったら、ぶん殴ってるところだね」

「っ、へへっ。違ぇねぇや」

「それに、状況の持って行き方が下手糞すぎ。なんで、敵に有利な空気を作るのに協力してるんだよ、あいつは」

「ふふん! そこは、心配無用だぜい? このゲイリー様が一発ババン! と流れを変えてやるってんだ!」

「もうそれが不安でしかないんだけどね、俺は」


 二人は素早く視線を交わす。肩をすくめあう。どちらともなくワイングラスの中身を一気に空けた。空の盃をテーブルに置く。祝いの空気にそぐわぬ乱暴な音に、近くにいた貴族の男が眉を潜める。二人はそれを気にも留めず歩き出す。


 オルフェは、だらしなく開いていた襟元を整えながら。

 ゲイリーは、抱えていた仮面を被りながら。


「まずは、ご婦人方からだ。ヘマするなよ」

「任せとけってんだ」


 誰一人として自分たちを歓迎しない空気の中、ゲイリーは唇を親指の先で乱暴に拭い、笑った。


*****


「――間に合ってよかったよ」


 ほっとしたような笑みを浮かべてみせたユリアスを、アッシュは真正面から見据えた。


 広間の二階にある小部屋だ。灯りのない部屋は暗い。広間を見下ろすように設けられた窓からのみ、光が漏れ込む。だがそれも、かろうじて二人の横顔を照らすほどの光量しかなかった。窓の外からは、礼服とドレスを纏った客達の談笑が届く。


 その中で、アッシュとユリアスは、相対するように座っていた。

 二人の間には黒白棋トルカの盤が置かれている。豪奢な造りの盤上には、既に白と黒の石が散らばっていた。

 繊細な彫刻の施された石が、広間からの光を受けて陰鬱な影を盤上に落とす。


「君のことだ。聖夜祭には来ない可能性もあるかな、って思ってたし」


 言いながら、ユリアスは白石を一つ置いた。次いで、白で挟まれた黒を取り、白石に置き換えていく。

 肘掛けに頬杖をついたまま、アッシュは目を細める。


「……今年は特別です。夜会など、ろくなものじゃない」

「ふふっ。その割には、さっきはなかなかの振る舞いだったと思うよ?」

「それはどうも」

「嬉しいことだね。やっと、王族らしい覚悟が芽生えたみたいで」

「…………」

「てっきり、反乱軍を助けたい、とでも言い出すのかと思ったけど」


 ぱち、ぱち、と石を置く乾いた音が、アッシュの耳に届く。さして大きな音でもなかった。だというのに、窓の外の喧騒に紛れることはない。盤上の黒が白で塗りつぶされていく。


 やがてユリアスは、最後の一つの白石を置いた。

 広間から響く、白々しいほどに華やかなざわめきが、ぐっと大きくなる。

 バルコニーに漏れ込む灯りが、若き為政者を柔らかく照らす。

 ゆっくりと足を組んだ彼は、にこりと微笑む。


「ちゃんと、正しい判断ができてるじゃないか。僕も、努力した甲斐があったというものだ」


 アッシュは新たな黒石を手に取った。盤面を見やる。

 今や黒石は散り散りに置かれているばかりで、その数は片手で数えられるほどだ。

 状況は圧倒的に白が有利だった。

 けれど。


「……兄上は、黒白棋トルカのコツを知っているか」


 アッシュは静かに、黒石を盤上に置く。

 ユリアスが怪訝な顔をした。それを視界の端に収めながら、アッシュは黒で挟まれた白を置き換え始める。


黒白棋トルカ自体の決めごとは、さほど難しくはない。相手の石を挟んで、自分の石の色に置き換えていく。単純であるがゆえに、戦局は一手で大きく変わる」

「それが、何だというのかな?」

「この遊戯で一番油断してはならない局面は、自陣が有利になった時だ」


 アッシュの手は止まらない。白を黒へ、淡々と置き換えていく。音も立てず、密やかに、素早く。

 ユリアスは穏やかな笑みを貼りつけている。組んだ足の上に置かれた指先が、忙しなく膝を叩く。


「遊戯は所詮、遊戯だよ」

「勿論だとも、兄上。だが……俺は遊戯の話だけをしている訳じゃない」

「そう……それで?」


 ユリアスの目が、すいと細められた。アッシュは肩をすくめる。

 石を置き換える手は、まだ止まらない。


「正しい判断とは何なのか。俺はずっと考えてきた。十年前の戦の日から、ずっと」

「ははっ。何を言い出すかと思えば……その答えは、とうの昔に示してあげただろう?」

「そうだな。兄上の考えは確かに正しい。我々の国だけを大切に守るやり方は、何よりも効率よく、最善だ」

「それが分かっているならば、何を議論することが、」

「だが……正しい判断は、きっと一つではない」


 アッシュは静かに語気を強めた。白を黒に塗り替える。その手を止める。黒石を指先に持ったまま、まっすぐにユリアスを見据える。


「申し訳ないが兄上。俺は俺の正しさを信じることにした」


 広間に響いていた人々のざわめきは消えている。

 代わりに朗々とした男の歌声が響き始めている。


――深き森に 王子一人、騎士一人 赤き炎の謎追いて 至る先に待つは 光か闇か 夢にも似た現の物語の はじまりはじまり……


「……なんだ、これは」


 ユリアスが初めて顔を歪ませた。朱の瞳に苛立たしげな色が宿る。組んだ足の上で、拳が握られる。


 それにアッシュは口角を上げた。


 紅の目を炎の如く苛烈に光らせる。

 今やで、指を動かす。


「あんたの筋書きでは踊らない――全て奪い返させてもらうぞ、ユリアス」


 そして盤上に、黒石が打たれる。



 アッシュの最後の一手が。

 黒が白を上回る、重要な一石が。

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