第18話 彼女と赤

 フェンは、息ができなかった。


 彼女を抑える者はもういない。口元に宛がわれた、妙な臭いのする布もない。それでも彼女は身じろぎ一つ、瞬き一つできない。


 暗がりの中で、燃えるような紅い目をした彼が、静かに立っていた。纏う服は闇夜に溶けそうなほど黒く、それが余計に、鬼火のように彼の瞳を際立たせる。足元には倒れ伏した二人の男。彼らは動かず、呻きもせず、ただただ血だけを流して、事切れている。むせかえるような生臭い血の臭い。その中で彼は笑う。


 ただ嗤う。


「早く、かかってきたらどうだ」

「っ、これ以上近づくな!」


 唯一生き残った男、ダンシーは必死の体でフェンの喉元に短剣を突きつけた。その切っ先は震えている。


「人質のつもりか」


 アッシュは唇の端についた返り血を舐めとって、笑った。ゆらりとダンシーの方に足を踏み出す。歩くたびに、無造作に手に握られた刃から鮮血が零れる。それはひどく恐ろしく、陰惨で、けれど同時に美しい。


「こういうことをする、ということは、自分が何をしていたのか、十分自覚あってのことなのだろうな」

「う、うるさい……」

「大人しくしていれば、無駄に部下を死なせずにすんだわけだが」

「よ、寄るな……刺すぞ、このおん、……っ!」


 刺すぞ、この女を。そう言うはずだったダンシーの言葉は途中で悲鳴に変わった。

赤い紅い血が舞う。短剣を持ったままの、ダンシーの手と共に。

 宝石のように赤黒い雫がフェンの白い頬にかかる。


「手……おれの手が……ッッ……!」


 ダンシーが意味を成さない叫び声をあげて床の上に倒れ伏した。剣を閃かせたアッシュはしかし、悪びれもせず、憐れみの表情さえない。


 ただ、なにか思いついたように、あぁ、とだけ小さく声を上げる。


「前回も、手を落としておけば良かったんだな。そうしておけば、こうも回りくどいことをせずにすんだ」


 フェンは震える息を吐いた。雨粒が窓をたたく音が、やけに大きく聞こえる。ダンシーの呻き声は、次第に静かになった。死んではいない、と思う。そう思いたい。


 アッシュが、ゆらりとフェンの方に視線を向けた。それにフェンの体が強張る。

紅い目は、さらに苛烈に光る。暗く淀んだ光を宿す。その目は、けれど空虚だ。どこまでもどこまでも、底の知れない深い、闇。


 いつかの日に見た少年の瞳と、まったく同じ色。


 それはけれど、一度アッシュが瞬きした途端に掻き消えた。

 その顔から、笑みが消える。


「大丈夫か」


 剣を鞘にしまい、フェンの方に手を差し出しながら、アッシュは問うた。問われたことに、一拍遅れてフェンは気づいた。


「あ……」


 ――お礼を、言わなくては。フェンはそう、思う。当然のことだった。危ないところを助けてもらったのだから。それがどんな方法であれ、フェンには口出しする権利などないのだ。


 ……あぁでも本当に? これだけ平然と人を殺しておいて、人を傷つけておいて?


 だって、こんなの。これは。


 フェンは、小さく喉を鳴らす。


「……ここまで、やる必要はなかった……」


 口から転がり出てきたのは、お礼ではなく、嫌悪感だった。差し出されたアッシュの手がピタリと止まる。彼の眉が顰められる。


「……手加減しろと言っているのか?」

「貴方なら、できたはずです」


 フェンは真っすぐにアッシュを見つめる。その視線に、何故かアッシュは逃げるように目を反らした。

 差し出した手を下ろし、これ見よがしに舌打ちする。


「綺麗ごとを……悪党にかける情けなど要らない」

「だからって、殺す必要はないでしょう!」

「殺す必要はない?」


 アッシュは乾いた笑い声を立てた。ぞっとするほど感情のこもらない笑みだった。フェンは身をすくめる。彼の指先が、不意に自分の方に伸ばされたからだ。

 頬に、冷たい指先が触れる。ひどくひどく冷たい、指先が。頬を、唇をなぞって。


「……そういうところだ」


 笑みを消し、ひどく空虚な視線をフェンに向けたアッシュは、囁いた。


「お前の、そういうところが気に食わない。綺麗事ばかりほざく、この口が」


 親指の先が、フェンの唇に押し入る。冷たさと血の味にフェンが小さく呻くと、アッシュは目元を歪めた。


「その綺麗事で一体何人の命を救ったっていうんだ? え?」


「お前は、目の前で殺される人間を救えなかったくせに」


「俺は、お前とは違う。一を捨て、十を救う。百を殺して、万を生かす。そうやってこの国を守ってきた。今までも、これからも」



 フェンの口内を指先で舐りながら、口答えできないフェンを嘲りながら、畳みかけるように、傷つけるように、彼の言葉が降ってくる。苛立ちと怒りをない交ぜにした声は、冷たく重く、雨のようにフェンの心にしみこんでいく。


 それは、いつもと同じ声音だった。フェンの正体がバレた時と同じ。あるいは宣誓を行った時と同じ。嫌味で尊大で人の神経を逆なでする声。言っていることだって、フェンの考えとまるきり逆で。そう、だから……それだけなら、きっとフェンも怒りだけを覚えていただろう。いつもと同じように。


 けれど、その一方で、何かが決定的に違う。違った。吐露するように吐き出される彼の言葉が、悲鳴のようにも聞こえた。それが、引っかかる。フェンの胸をざわつかせる。


 視界の端が滲んだ。それは息苦しさからなのか、悔しさからなのか、それとも。


「――何か、言ったらどうなんだ」


 アッシュがせせら笑った。

 不意に、彼女の口を犯していた指先が引き抜かれた。フェンの桜色の唇から吐息が零れる。飲みきれなかった唾液が妖しく光って床に散る。フェンは床に手をついて、小さく咳き込んだ。その顔を、無理矢理上げさせられる。アッシュに顎を持ち上げられて。


 彼の指先は、フェンの唾液で淫靡に濡れていた。彼の顔には、ひどく退廃的な笑みを浮んでいた。血のように赤く仄暗い目がフェンを見据える。


 自分の中の、何もかもを暴いてしまいそうな紅蓮の色。それが、苦手だった。嫌いだった。


 けれど、今日は。

 今は。



「……貴方は、何にそんなに怯えてるんです……?」



 フェンが、息も絶え絶えに呟く。その瞬間、アッシュは目を見開き……フェンを突き飛ばして、足早に部屋を出て行った。




*****


 雨が、窓を叩いていた。夜会が始まる前には振っていなかった、雨が。

 二階に設けられた小さな部屋。オルフェはその中で、静かに息を吐きだす。息はひどく冷たい。冷たいのは、秋も深まった季節のせいなのか。それとも、目の前の現実のせいなのか。


 薄暗闇の中、テーブルの上に置かれているのは、小瓶だった。丸い蓋のついた瓶の中には、少量の液体と、それに濡れた赤い布が入っている。


「これに、見覚えはあるかな」


 暗がりの向こうで声がした。この小瓶を差し出してきた張本人だ。爆発があった付近を調べたら出てきたという。そうだ、爆発だ。あれは確かに、この小瓶がなければ、起こせないはずの爆発だった。


「……知ってるも、なにも」


 オルフェは慎重に答えた。声が震えぬよう、最大限に注意を払う。少なくともそのつもりだった。


「どうしてこれが、今更」

「今更、というのは?」

「……水の国との戦の時に作ったんだ。でも、戦が終わった後は全部廃棄したはずだ」

「全て?」

「あぁ……だってこれは、あまりにも危険なものだから」


 多くの人間を一度に殺すことのできる武器だ。これは。だから、作り方も限られた人間しか知らない。

 自分と、これを作った自分の弟と、それから。


「実は最近、国の各地で不審な爆発が確認されていてね」


 暗がりの向こうの声は、憂いを帯びたように沈んでいる。


「その爆発現場で、似たようなものが発見されてるんだ。いくつか」

「馬鹿言わないでくれ。さっきも言ったように、全部廃棄されてるはずで」

「じゃあ……もしも新しいものが作られていたとしたら?」


 暗がりからの声は、オルフェの胸の内をひやりとさせるのに十分なものだった。まさか、といつものように笑い飛ばそうとする。けれど笑い飛ばすことができないだけの証拠が目の前にあった。


 小瓶と、小瓶を満たす特殊な液体は、オルフェの弟が作ったものだ。

 けれど、その中の赤い布は、違う。当然だ。

 この国にあって、赤は王族しか使えない色なのだから。


 この小瓶の作り方を知っているのは三人。自分と、自分の弟と、自分たち兄弟と一番の親友だった、彼。

 アッシュ・エイデン。



「まだ、決まったわけじゃない。でも、僕は第一王太子として……なにより、アッシュの兄として、真相を解明しなくてはならないんだ」


 そう言って、暗がりから声の主が姿を現した。

 緩くウェーブのかかった朱い髪。美しく聡明な赤い瞳は悲しげに歪められ……けれど決意の色をたたえている。


 そうして彼は――ユリアス・アリファは、ひたとオルフェを見据えた。


「だから……僕に、協力してくれないかな。オルフェ・ルアード」

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