第8話 彼女と賭け
その日、アランはパンを焼く準備に追われていた。
ダリル村は秋の収穫に追われている。老いも若きも、女も子供も手伝うのが、古くからの習慣だ。それは、この村が水の国から火の国の所有になった今でも変わらない。
働く彼らに、昼の食事として提供するのがパンである。といっても、小麦の収穫が終わっていないので、昨年の小麦で作ったものだ。美味しさには欠けるが、これも習わしである。
収穫が無事に終わり、収穫祭が開かれるその時に、今年の小麦で作ったパンが配られるのである。収穫の喜びとねぎらいを込めて。
「アラン、焼くパンの数はどうするんだ?」
「そうさなぁ。去年は百個だったか」
「あぁ……ただ、それでも余ってたな」
アランの自宅兼作業場で、アランと同じように小麦粉まみれになった男が応じる。彼とは長い付き合いだ。火の国がこの村に攻めてきた時には、肩を並べて戦った。その時の傷がもとでアランが膝に問題を抱えたときには、木々を集めて杖を作ってくれた。
そんな彼も、アランと同様に随分年老いた。何か思い出すように、白髪交じりの頭を傾ける。
「そうだそうだ、確か若い連中が軒並み去年は参加しなかったんだ」
あぁ、とアランも納得した。
「そういえば、あいつら出稼ぎに出てたんだったか」
「火の国の首都の方は稼ぎがいいとかなんとか言っててな」
「そんなことを言って、都会の空気を感じたいだけだろうが」
「違げぇねぇ」
大きな声を上げて男は笑った。あんな国のどこかいいのか。言葉にせずとも、それが二人の共通観念である。
「若けぇやつは呑気なもんだ。昔何があったのかも知らんで。収穫の時くらいは帰ってきてもいいだろうに」
「まったくだ、アラン……まぁいねぇもんはしょうがねぇ。パンの数は六十でいいんじゃねぇか」
「了解だ。そうしたら、持ってくる小麦の袋は一袋でいいな。取りに行ってくるから、作業しててくれ」
「大丈夫か? 何だったら俺が取りに行くが」
「なぁに、安心しろ。お前の作ってくれたこの杖だけあれば十分よ」
アランは心配性な友を笑って、作業場を後にする。小麦を保管している場所は、アランの家のすぐ隣だ。収穫が終わった後、村の取り分の小麦は、まとめて一つの倉庫に保管される。杖をつきながら倉庫にたどり着いたアランは扉を開けた。収穫したての時には強く香っていた小麦の香りも、今はずいぶん弱い。早く、今年の小麦の香りを嗅ぎたい。アランの胸は少しばかり期待に踊る。
そこで彼は咳き込んだ。
「なんだ、随分粉っぽいな……どっかの袋でも破れたか?」
そういえば、数日前に火の国の行商人が小麦の買い付けにこの小屋を訪れていた。その時にどこかの袋でも破いたのかもしれない。迷惑な話だ……と勝手に行商人を悪役に仕立てたアランは、小さく悪態をつきながら薄暗い部屋に足を踏み入れる。
ぱりん、と何かが割れる小さな音がした。
それにアランは気づく。
足元に目を見やれば、なんてことはない、赤色の布が落ちている。
そう、分かって。
そして。
彼の眼前いっぱいに炎が広がった。
*****
―――― また、怪奇事件があったらしい。
そんな噂がフェンの耳に飛び込んできたのは、アッシュに忠誠を誓ったあの日から、ちょうど七日経った頃だった。
食堂で昼食を食べていたフェンは、隣に座った同僚の言葉に首を傾ける。さらりと銀髪がこぼれた。たったそれだけで、食堂にいる数少ない女性陣が悲鳴を上げ、フェンは苦笑しながら柔らかく彼女たちに手を振る。
顔を戻せば、先ほどの同僚の一人が妬むような眼でフェンを見ていた。
「……ようやるぜ、まったく」
「ふふっ、女性はすべからく貴婦人だからね。きっちり礼儀は通さないと」
「お前がそんなんだから、騎士団中の男が彼女できなくて困ってるんだぞ!」
「お望みとあらば、彼女たちを喜ばしてあげる術はいくらでも教えてあげるよ……それより、怪奇事件ってのは、もしかして、あの?」
フェンが少し声を落として問い直せば、同僚は小さく肩をすくめた。
「決まってんだろ。何もないところから火が上がるなんて事件、そうそうあってたまるか」
「しばらくなかったじゃないか。ええと、前回はたしか……」
「国の宝物庫の近くで燃えたやつな。あやうく、隣の穀物庫にまで燃え移りそうだったって、第三騎士団の奴が嘆いてたぜ。ほらあの日、あいつら夜勤だったから」
「そういえば、火が出たのは真夜中だったね」
「今回のは真昼間だったからな。おまけにダリル村とかいう辺鄙なとこにある村だったから、俺たちは行かなくてすんだ、ってわけだ」
「ダリル村……」
フェンは整った眉根を寄せた。
そんなフェンをよそに、同僚は無造作にちぎったパンを口の中に放り込んだ。他の多くの騎士団員と同じように農民上がりの彼は、そのパンの小麦が古いものであることにすぐ気がつく。
新しい小麦で作ったパンが恋しいぜ、と、彼は小さくぼやいた。
*****
「という訳で、調査に参りましょう」
「面倒だ」
「は?」
アッシュの執務室の入り口で、笑顔のフェンは絶対零度の声音で聞き返した。
面倒だ、といってのけた部屋の主は、オルフェ相手にのんきに遊戯に興じている。対するオルフェは、ややひきつった笑みをフェンの方に向けていた。
笑顔を張りつけたまま、フェンはつかつかとアッシュの下に近づく。
見下ろせば、盤面の上には白と黒の石が並べられていた。フェンもよく知る遊戯――
今のところ、オルフェの持つ白石が圧倒的に有利で、黒石のアッシュは劣勢だ。いい気味だ。少し気分を良くしながら、フェンはもう一度繰り返す。
「どうも私の言い方が悪かったようなので、もう一度言いなおしますね? 怪奇事件が起きたので、調査に参りましょう」
「だから面倒だと言っている」
「面倒?」
「俺が行かずとも、ユリアスの奴が行くだろう」
「あんたが行かないと意味がないんです!」
フェンが語気を荒げると、アッシュがちらりと視線をやった。そのままじっとフェンの方を見つめてくる。
フェンはピクリと眉尻を上げた。
「なんです?」
「感心している」
「感心?」
「あれだけ無様な面さらしときながら、よくまた俺の前に来たな、と思ってな」
「……あはは、殿下。僕、今すっごくあんたを殴りたいです」
「わーっ、フェン! 落ち着いて落ち着いて!」
耐えきれなくなったのか、慌てて立ち上がったオルフェがフェンを押しとどめた。
とりあえず座ろう? と促され、フェンは渋々案内されたソファに座った。オルフェが飲み物を取ってくるね、と言って部屋を飛び出す。甲斐甲斐しい……というよりは、二人の空気に耐えられなくなったからに違いない。
盤面に目を戻したアッシュは、
ぱちぱち、と。乾いた音だけがこれ見よがしに響く。
それにフェンはイライラしながら、咳払いを一つする。
「あのですね、殿下。私は貴方を王太子にしようと思って、仕えてるんですよ?」
「どうだかな」
「今回、陛下から出された課題は怪奇事件を解決することでしょう」
「ただの不審火だ。怪奇でもなんでもあるまい」
「そうかもしれないですが、それを確かめるのも課題のはずです」
「課題課題とうるさいな。どうせ父上の戯れだ。真面目に考えるだけ無駄だぞ」
「それはユリアス殿下も仰ってましたが、」
「お前がその名を出すな」
「は?」
フェンが胡乱気な声を上げれば、アッシュがじろりと睨みつけてきた。
「ユリアスの名を言うな、と言っている。お前の口から出るとイラつくんだ」
「…………」
なんだこいつ。
本当に一発殴ってやろうか。
フェンが半眼でそう思ったところで、紅茶を持ったオルフェが戻ってきた。
「どう? 解決した?」
扉からひょっこりと顔を出し、尋ねる彼も呑気なものである。オルフェのこういう態度も、アッシュの傍若無人を助長させてる原因じゃないか、と苛立ちながら、フェンはアッシュの下に向かった。
「今! 解決します!」
やけくそに言って、盤面の外に置かれた白石と黒石を無造作につかみ取って、両の手に分ける。
有無を言わせず、アッシュの方に突き出した。
「はい! 右手に握ってるのは白か黒か、どっちでしょう!?」
「……黒」
「残念! 白でした! 間違えたので、私の言うことに従ってください!」
「おい待て、そういうことは先に」
「地図とってくるので、この部屋で大人しく待ってること!」
石をテーブルに叩きつけて、フェンは部屋を飛び出した。
静かになった部屋でアッシュが呆気にとられていれば、オルフェが小さく噴き出して。
「……笑うな、刺すぞ」
「……ごめん」
地を這うような声でアッシュに唸られて、オルフェは慌てて笑みを引っ込めた。
テーブルの上では、いつの間にか優勢になった黒石が午後の光を浴びて淡く輝いていた。
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