第四章 亡国の王女
第30話 彼女と王太子
王都に夕刻を告げる鐘が鳴り響く。
フェンは、手元の書類から目を上げた。
「もうこんな時間……」
窓の外の景色は夕闇に沈もうとしていた。ディール村から帰ってきて十数日。日を追うごとに、陽の落ちる時間が早くなる。
冬は近い。もしかすると、ディール村では雪が降り始めているかもしれなかった。
窓に映るフェンの表情が少し曇る。
「浮かない顔をしているな」
ぶっきらぼうな声がとんできた。フェンが視線を向ければ、この部屋の主、アッシュが書類片手にじっとこちらを見つめている。
フェンは苦笑いした。少しずつ暗くなる部屋に灯りをともすために立ち上がる。
「冬が近いな、って思っただけですよ」
「で? あの村が心配になったと?」
「なんで分かるんですか?」
暖炉の傍に置いてあった数本の燭台に炎を灯していたフェンは、まじまじとアッシュの方を見つめた。彼は呆れたように嘆息する。
「適当に言っただけだが、まさか当たるとはな」
「……殿下、私のこと馬鹿にしてるでしょう」
「馬鹿にしてるわけじゃない」
アッシュは立ち上がった。執務机を後にして、フェンの方に近づく。無骨な手で炎の灯った燭台の幾つかを手に取る。揺らめく火の向こう側で、艶やかに光る赤の瞳がフェンを捉えて、ほんの少し細められた。
「妙な奴に騙されないか、少しばかり心配なだけだ」
囁きにも近い低い声に、フェンの心臓がどきりと鳴った。
「心配、しなくても」
慌てて目を逸らす。おろおろと手元に目を落とした。
「殿下くらいですよ。そういうこと言うの」
少しばかり気恥ずかしくなって、フェンはアッシュの返事も待たずに、燭台を部屋のあちこちに置き始めた。
薄暗い部屋で、頬が熱くなるのがばれませんように、と心の中で祈る。
ディール村から帰ってきてから、ずっとこんな感じだった。
アッシュが少し優しくなった気がする。それが原因かもしれない。あるいは、自分がアッシュに対して素直に接することができるようになった。それも原因な気がする。あるいは、そのどれでもないような気さえした。
フェンは頭を振って、最後の燭台をアッシュの執務机の上に置いた。誤魔化すように、先ほど読んだ書類の内容について口を開く。
「そういえば殿下……ディール村の建物の件なんですけど」
「学校に使う建物か?」
「えぇ。当面は集会場の方を使ってかまわないと、村長から手紙が」
近づいてきたアッシュに、ディール村の村長から受け取った手紙を手渡す。アッシュは一つ頷いた。
「悪くない報せだな……この集会場は冬の間、他に使う予定はないのか?」
「ないと思います。次に使うのは、それこそ春を祝う祭りの時でしょうから」
「だとすると少しまずいな。新しく学校用の建物を建てられるようになるのも、来年の春からだろう……冬の間は良いとして、春先には別の建物を探したほうがよいかもしれん」
それから少しの間、フェンはアッシュと意見を交わす。
ディール村に学校を建てる。二人が練っているのは、そのための計画だ。潤沢な資金があるわけではない。国庫を動かす権限を持つのは、アッシュではなく、第一王太子のユリアスだ。なにより、フェン自身が、これまで自分が貯めてきた資金しか使いたくなかった。
けれど、フェンはもちろん、アッシュもこの計画に乗り気だった。制限は多いが、その度に二人で知恵を出しあう。ディール村から帰ってきてからというもの、騎士団の務めが終わっては、フェンはアッシュの部屋に足しげく通い、夜更けまで彼と議論することも多かった。
問題は資金以外にも山積みだ。
それでもフェンにとって、小さな部屋でアッシュと過ごすこの時間が、かけがえのない時間になりつつあるのも事実だった。
「……あとは教師の問題だな」
春先に建てる予定の学校の立地、それが完成するまでの間、仮の学び舎として使う建物の候補。片手に持った紙束を指先で弾いて、アッシュが嘆息をつく。
「公募をかけたところで、人が集まるかどうか」
「とりあえず、語学を教えられる方が良いとおもうんですよね……文字を書ける人間は、ディール村にほとんどいませんから」
「それに、頭の固い教師はやめておいた方がいいだろうな。勉強なんぞしたことのない子供が、退屈な授業に耐えられるはずがあるまい」
「うーん……そうすると……あ」
少しの間頭をひねっていたフェンは、小さく声を上げた。アッシュが首をかしげる。フェンは目を輝かせる。
「……ゲイリー殿、とかどうでしょう」
アッシュの瞳に、馬鹿にしたような光が宿る。
「……なんでまた、あいつの名前が出てくるんだ」
「え? だって考えてもみてくださいよ……! ゲイリー殿は吟遊詩人でしょう? 当然、読み書きはできるでしょうし……きっと面白おかしく話す技術もあるでしょうし」
「お前はあいつを買いかぶり過ぎだ」
ただの金の亡者で、酒好きだろう。呆れたようにアッシュが呟く。それにフェンはむっとしてアッシュを睨みつけた。
「そうやって人を決めつけるのはよくないですよ?」
「いや、決めつけるとかではなくてだな……大体、あいつに頼むとして、どうやって頼むっていうんだ? あいつの居場所を知らないだろう」
「探します」
「だからどうやって」
追求する赤い瞳にたじろいで、フェンは視線を逸らした。あらぬ方向を見つめながら、必死で頭を働かせる。
「ええと……きっと王都にはいらっしゃるでしょうし……宿屋と酒場をしらみつぶしに探していけば……」
「待て」
アッシュの声音が一段低くなった。どうしたというのだろう。フェンがアッシュの方を見やれば、彼はなぜかフェンにじとりとした視線を送っている。
「探すって誰が探すんだ?」
「え? わ、私?」
「その恰好で?」
「え? あ、やっぱり私とバレない方が良いですかね? じゃあ変装とか……?」
「……俺も行く」
フェンの言葉に、何故かがっくりと肩を落としてアッシュが呟いた。フェンは慌てて声を上げる。
「え、ええ? いいですよ殿下は……! 宿屋に酒場ですよ? 礼儀がなってない奴も多いし、綺麗とはいえない場所なんです。夜は酔っ払いが暴れることもあるから危険なところもあるし……殿下が行くようなところじゃ、」
「その言葉を、そっくりそのままお前に返してやる」
「は?」
アッシュの意図するところが分からず、フェンが目を瞬かせれば、彼は盛大にため息をついて、眉間を揉んだ。
「……俺の目の届かんところで、また女装なんぞされたら心臓が持たん……」
「え、えと、殿下?」
「はぁ……少し飲み物をとってくる」
「でしたら、私が取りに、」
いきますよ、とフェンが言い終わるのも待たず、アッシュはふらりと部屋から立ち去ってしまった。
ぱたん、と扉が閉まる音が、所在無く立ち尽くすフェンの鼓膜を揺らす。遠ざかる足音。それにフェンはゆっくりと目を瞬かせて。
「……なにか悪いことをしてしまったの、かな……?」
返ってくる言葉はもちろんない。アンジェラにでも相談すれば、また違う結果になるのだろうが。
フェンは一つため息をついた。そのまま待っているのも気が引けて、部屋のあちこちに乱雑に散らばる書類を片づけはじめる。
大半がアッシュの手によって書かれたものだ。
丁寧な分析。考えられうる限りの問題点。その中での最重要課題の選定と、解決のための方針。それによる期待される効果と、起こりうる新たな問題点。
力強い筆跡で、簡潔にまとめられた書類を見るたびに、フェンは舌を巻いている。
それは、これまでの彼からは想像もつかないことだった。
実際の国政を担っているのは第一王太子であるユリアスだ。アッシュが主に担当するのは軍事である。けれど水の国との戦争以降、大きな戦がないこの国では、軍備に関する施策が求められる機会は少ない。アッシュには、国政を担うだけの能力がないのだとささやく、口さがない貴族だっている。
けれど、そんなことはないのだ。
蝋燭の淡い灯りに照らされて浮かび上がる、力強く流麗な筆跡。それをフェンは指先でなぞって、思う。
アッシュは十分に政を担える人間だ、と。
王になることもあるいは、と。
そう思った、その時だった。
「おや、先客が」
小さな音を立てて扉が開く音がする。フェンが振り返れば、緩く波打つ赤い髪を揺らし、同じ色の目を細めて青年が微笑んだ。
「やぁ、フェン。久しぶりだね」
「ユリアス殿下……どうしてここに?」
目を丸くするフェンの下に颯爽と歩み寄ったユリアスは、常の穏やかな笑みを浮かべる。
ひらりと、右手に持った封書を揺らした。
「招待状を届けに来たんだ」
「招待状、ですか?」
「聖夜祭のね……一応、僕が主催者だから」
年越しの夜会の名前を出されてフェンは、あぁ、と一つ頷いた。
「もうそんな季節でしたか……」
「そうだよ。一年なんてあっという間だから、驚いちゃうよね……フェンは参加するのかい?」
「あ、はい。もちろん……といっても警備担当ですが」
「ええ? 勿体ない。警備じゃろくに酒も飲めないだろう?」
「あはは、いいんですよ。陛下と殿下の警護が我々騎士団の役目ですし……それに夜会の警備が終わった兵から順に、こっそり酒盛りしてますから」
「そうなのかい? なら今年は内密に酒瓶でも兵舎に運ばせようか」
そこまで言葉を交わして、フェンとユリアスはお互いに小さく噴き出した。
「やっぱりフェンと話すと落ち着くね」
くつくつと笑った後、ユリアスは感慨深げに呟いた。フェンは笑いを収めて、一つ頭を下げる。
「そう言って頂けて光栄です」
「ともあれ、よかった。アッシュに仕えると聞いて、心配してたんだけど」
「心配だなんてそんな……」
「あれは気難しいだろう? 無理はしていないかい?」
ユリアスがフェンの表情を覗き込む。その目は思いのほか心配そうで、フェンは苦笑いした。
「大丈夫ですよ。最初の内は困ったこともありましたけど……今はアッシュ殿下にお仕えできて、良かったと思っています」
「そうなの?」
「ええ。それに最近は、アッシュ殿下が私の相談に乗ってくださるんですよ?」
「驚いたな、あのアッシュが……もしかして今持ってる書類もそうなのかい?」
一つ頷いて、フェンは書類を手渡した。ユリアスが紙の束をぱらりとめくる。暖炉で薪が爆ぜる音がぱちん、と響く。
すい、とユリアスの目が細められた。
「ディール村……水の国の領土だった村か……」
「えぇ。これ、アッシュ殿下が考えて下さった案なんですよ? 私一人じゃ、とても思いつかないものばかりで」
「……ふうん。これをアッシュが、ねぇ」
「殿下?」
ばさりと音を立てて、ユリアスが紙の束を閉じた。蝋燭の光が頼りなく揺らめく。
細められた目の奥で、赤い瞳に影がよぎった気がした。けれどその正体をフェンが見極める前に、ユリアスはにこりと再び微笑む。
「いいんじゃない?」
言うや否や、ユリアスは手に持っていた書類を無造作に執務机の上に放り投げた。
何か、気に障ることでもあっただろうか。思わぬ行動に戸惑うフェンをよそに、ユリアスは穏やかな笑みを浮かべ、一歩距離を詰める。
「ところでフェン、聖夜祭のことで一つお願いがあるんだけど」
「なんでしょうか?」
「女装して出てくれないかな?」
「……はい?」
フェンが怪訝な顔をして目を瞬かせると、何が面白いのか、ユリアスはくすくすと小さく笑う。
「聞いたよ? この前の……爆発騒ぎのあった夜会で、フェンは女装してたんでしょう?」
「い、いや、それは……」
「なかなかのものだった、ってオルフェ君が言ってたよ?」
「ま、待ってください! あの、あれには色々事情があって」
「君の友達にやられた、とか?」
フェンは目を見張った。アンジェラに女装をさせられた、ということは誰にも言っていないはずだ。オルフェだけじゃなく、アッシュにも。
そんなフェンの反応を面白がるように、ユリアスは笑みを深める。
「まぁ、事情については深追いはしないよ? でも、」
彼はまた一歩、フェンの方に近づいた。手を伸ばせば触れられそうな距離で、彼はゆるりと首をかしげる。
きっちりと着こまれた服。その襟元から、白い首筋がのぞく。
「折角だから、僕も見てみたいなぁ、と思って。なにも難しいことを要求してるわけじゃないだろう? 女装して、僕の傍にいてくれればそれでいい」
「で、でも、警備の仕事がありますし……」
「僕の身辺警備ってことにすればいいじゃないか。ね?」
「殿下、一応言っておきますけど、私は男で、」
「うん、知ってる。それで?」
なけなしのフェンの最後の反論をあっさり封じ込めて、ユリアスが笑う。
「私のために、女装してくれるの? くれないの?」
艶やかな声音で、囁くように問われる。
フェンの頬へ、ユリアスの手が伸ばされる。
薄暗闇の中で、赤い瞳が蠱惑的に光る。
そのどれもが、フェンの知らないユリアスで。
急に怖くなって、フェンが思わず目を閉じた時だった。
「――触らないでください」
低い、耳馴染んだ声が響いた。
恐る恐るフェンが目を開けると、黒い服に身を包んだ見慣れた背がある。
フェンは我知らずに、震える息を吐きだした。
「アッシュ、殿下……」
「何しに来たんですか、兄上」
フェンの声に応じることなく、彼女を庇うようにユリアスと向かい合ったアッシュは、固い口調で問いかける。
アッシュの肩越しで、ユリアスが面白がるように唇を鳴らした。
「気配を消すなんて、さすがだね? アッシュが来たことに気づかなかったよ」
「質問に答えて下さい」
「いやだなぁ。そんなに警戒しなくても……聖夜祭の招待状を渡しに来ただけだよ?」
「……それでどうして、こいつが怯えるんです?」
アッシュの声が、さらに低くなった。その表情から何を感じ取ったのか、ユリアスの目に面白がるような色が浮かぶ。
「随分、大切にしてるんだね? フェンのこと」
「……これは、俺に仕えてますから」
「そうだねぇ。君は昔から臣下のことを大切にしてきたものね」
「…………」
「でも君は、王にはなれないよ? アッシュ」
最後の言葉は、ぞっとするほど冷ややかだった。
アッシュの肩が僅かに揺れる。けれど。
「……そんなことは百も承知ですよ、兄上」
何の感情もうかがい知れない声音で、アッシュが返す。
その時、アッシュの顔にどんな表情が浮かんでいたのか。フェンはしかし、その答えを知るすべを持たなかった。
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