第21話 彼女と彼

「っ、殿下!」


 ノックもせず、フェンはアッシュの部屋の扉を開けた。

 部屋は薄暗い。雨が窓を濡らして模様を作る。雨音がほんの少し強く聞こえる。

アッシュは窓際に置かれた椅子に腰かけていた。横に置かれたテーブルには黒白棋トルカに使う盤。その上に石が置かれている。薄暗闇のせいで、石の色は白とも黒ともつかなかった。


「……なに、やってるんですか」


 息を切らしたフェンの問いに、返る答えはない。視線も寄こさない。アッシュは石を指先で弄びながら、何事か考えている風だった。次の一手でも考えているのか。

 対戦相手もいないのに。


「…………」


 フェンは小袋を握りしめ、静かにアッシュの下に足を進める。その盤を見下ろす。

盤面は白石で埋め尽くされていた。その中で、黒石がぽつんと所在無げに置かれている。

 フェンは静かに小袋を差し出した。


「……お金、返しに来ました」

「…………」

「受け取れません、これは。ちゃんと説明してください」

「…………」

「殿下、」

「帰れ」


 低い声が返ってくる。フェンは眉をひそめた。


「帰りません。説明してもらわないと」

「オルフェから聞いただろう。そういうことだ」

「それが分からないって言ってるんです!」


 フェンは小袋を盤面に叩きつけた。石が床から転がり落ちる。アッシュがゆるりと視線を上げる。何の感情も浮かばない冷たい瞳を、フェンは睨みつける。


「どうしてユリアス殿下に手柄を譲るような真似を?」

「必要ないからだ」

 石を拾いもせず、アッシュは淡々と答える。

「俺は王になんぞなるつもりはない」

「どうしてですか」

「人殺しをする俺なんぞより、あいつの方が適任だ。全てにおいて」

「そんなこと……」

「そう思ってるんだろう、お前も」


 アッシュはちらりとフェンの方を見やった。

 深く暗い紅い目からは感情は読み取れない。けれど射貫くような視線の鋭さにフェンは言葉に詰まる。


 アッシュはふい、と目を反らした。緩慢な動作で石を拾い始める。横顔は無表情だ。まるでフェンなどそこにいないかのように。ぱちんぱちん、と拾い上げた石を盤面に静かに置いていく。それは、何かを拒絶するような乾いた音で。


 ……違う、先に拒絶したのは、自分の方だ。立ち尽くしたフェンは、不意にそのことに気づいた。


 痛みが胸を刺した。後悔、罪悪感、同情心、後ろめたさ、自分はどうすべきなのか。昨日の夜から頭の中で響き続ける疑問。


 暗闇から声がする。こんな男のことは放っておいてしまえ。見捨ててしまえ。それが正解だ。死んでいった民のことを思うなら。この男は平気で人を殺すような男なのだ。そんな男に同情する余地があるのか。


 彼は馬鹿にした。綺麗事で何人の命を救えるのか、と。

 彼は笑った。お前は目の前で殺される人間すら救えなかった、と。

 そうして、言ったのだ。


『一を捨て、十を救う。百を殺して、万を生かす。そうやってこの国を守ってきた。今までも、これからも』


 俺は、お前とは違う。そう言った時の、彼の顔は。


 フェンは目を伏せる。息が震える。拳を握りしめる。あんたはどう考えて、これからどう行動したいの。アンジェラの言葉が蘇って、消えて。


「……思ってますよ。そりゃあ、もちろん」


 そうして、ぽつりと吐き出した。一度吐き出した言葉は止まらなかった。床を見つめたまま、早口でまくし立てる。

 だって、当たり前じゃないですか、と。


「貴方よりユリアス殿下の方が優しいですし、人望も厚いですし、陛下からの覚えもきっとめでたいでしょうしね。えぇそうです。その通りです。でも、あんたは、間違ってる」

「…………」

「ユリアス殿下が、全てにおいて貴方より勝ってるなんてことがあるはずない。まして、ユリアス殿下が貴方より優れているから王位を譲るだなんて、おかしいです」

「……嘘をつくなら、もっとましな嘘をつけ」

「嘘じゃない!」


 蔑むように向けられたアッシュの視線を、フェンは必死で受け止めた。


「私の命が危ない時に助けてくれたのは貴方だった。昨日の夜も。森の中で炎に襲われた時も……なら、少なくともそういう優しさはあるんだ、貴方にも!」

「そんな些細なことで救われた気になってるのか? お人好しにも程がある。誰がお前の国を滅ぼしたのか、忘れたのか」

「忘れるものか! 私は、だからあんたを許せない! 簡単に誰かの命を奪ってしまう選択をとれる貴方が間違ってるとも思う! でも私は、貴方がをしてくれたおかげで、貴方のことを素直に憎めないんだ!」

「笑わせるな。俺は、」

「どうして!」


 フェンはアッシュを睨みつけた。声が震えた。それでも続ける。

 どうして、と。


「そんなに、自分を否定して……一人になろうとするんだ……?」


 アッシュは答えない。雨の音がぐっと大きくなる。盤面に一つだけ残った黒い石は 弱々しく光を弾いている。湿り気を帯びた空気が沈黙を満たす。


「……間違ってますよ」


 フェンは、ぽつりと呟く。


「間違ってる、全部。誰かを犠牲にして手に入れる幸せが、本当の幸せのはずがない」


 昔からそうだったからだよ。この国では。オルフェはそう言った。その昔が、いつのことからなのか、フェンには分からない。

 けれどもし……もし、アッシュとユリアスの間では、ずっと続いてきていたのだとしたら? 

 アッシュが誰かを殺して作った手柄を、ずっとユリアスに譲ってきたのだとしたら?



 民のために兄のために人を殺すという、その彼自身は、どうなってしまうのか。



 そのことに気づいて、居たたまれなくなって。我知らず、フェンはアッシュに手を伸ばす。その手に自分の手を重ねた。冷たい手を、フェンは両手で包み込む。アッシュは微動だにしなかった。


 彼が肯定しているのか否定しているのか。自分がしようとしていることが正しいのか、ただの偽善なのか。そのどちらも分かないまま、それでもフェンは頭を垂れる。


「……お願いを聞いてくれませんか」

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