第5話 彼女と憧れ

 朝の空気は澄んで冷たい。冬の日の水を思わせる冷たさが、フェンは好きだった。嫌なことを何もかも忘れさせてくれるから。

 加えて、朝早くの王城は人気が少ない。フェンが少しばかり鼻歌を歌いながら歩いたところで、気にかけるような人もいなかった。


 ―― 昨日の夜は結局、アンジェラの同意は得られなかった。それもそうか、という感じだけれど。アンジェラはいつだって彼女自身の気持ちに正直に生きている。そんな彼女からすれば反発心が生まれるのも当然のことだろう。


 とはいうものの、フェンもやめる気などさらさらなかった。騎士団に来た通知に書かれていた報酬の額は破格のものだ。第二王太子の下で働くだけで、その報酬が支払われるというから驚きだ。それだけじゃない。もしもこれで第二王太子に顔が売れれば、彼からの仕事が増えるんじゃないか。実は、そんな淡い期待もあった。


 フェン達には、毎月一定の給金が支払われるが、戦場や地方の警備に出れば手当がつく。第二王太子は戦好きで有名だ。彼から重用されれば、もっと給金が上乗せできるかもしれない。

 そんな計算をして、ほんの少し心が弾む。その時だった。


「あれ、フェンじゃないか?」

「ユリアス殿下」


 背後から声をかけられて振り返れば、一人の男が立っていた。フェンは慌てて跪く。そうすれば、そんなにかしこまらないで、と苦笑交じりの声が降ってくる。


「普通に話してくれて構わないよ」

「ですが」

「今は君と僕しかいないんだし。ね?」


 促されてフェンは立ち上がった。そうすれば、困ったような顔をした声の主と目が合う。緩くウェーブのかかった朱い髪を持つ男だ。着ている服は黒を基調としたシンプルなものだが、細部まで金糸で装飾が施されたそれは、どうみたって高級品である。そして優しく細められた赤い目。

 赤は、この国の王族の色。第一王太子ユリアス・アリファとて、それは例外ではない。


「いつも、この時間に外に出てるのかい?」

「はい。早起きなもので」

「そうなんだ。僕は朝に弱くてね……今日は久しぶりの早起きなんだよ」


 でも思ったより悪くないね、と言ってユリアスは微笑む。つられてフェンも口角を緩めた。

 流れるのは穏やかな空気だ。ユリアスと話すと誰だってこうなる。しかも彼の有能なところは、そうなることが分かった上で、国政にも上手く応用しているところだ。王族ということもあって、地頭も良い。おかげで、ほとんどの権力者はユリアスを次の王候補として認め、彼に付き従っている。


 フェンも彼のことは嫌いではなかった。フェンが王城で働き始めた頃から、ユリアスは目をかけてくれていたからだ。何より、第二王妃の子供である彼は、実力で周囲を納得させ、今の地位を築いている。そういう努力家なところも尊敬している。

 だが。


「それで、フェンは私のところにいつ来てくれるのかな」

「……申し訳ありません」


 なぜ自分ところに仕えないのか、とユリアスに暗に問われ、フェンはまっすぐに頭を下げた。


「殿下のご厚意はありがたいのですが、私はアッシュ殿下にお仕えしようかと」

「アッシュに? これは驚いたな。一体どうしたんだい?」

「いや……どうしてって……」


 自分の方を見つめてくるユリアスの視線が痛い。そこに浮かぶのは純粋な疑問だ。金に目がくらんだんです、とは流石に言えなくて、フェンは視線を泳がせた。


「ええと、その……」

「確かにアッシュには戦の才はあるし、見た目がいいから貴婦人方からの評価も高いけどね」

「あ、いや、見た目とかは興味ないんですが」

「あぁ、それもそうか。男だしね……そうなると、やっぱり僕の実力不足なところが不満、ってことかな?」

「そんなことは! 決して!」


 顔を上げて慌てて首を振る。そうすればユリアスは小さく噴き出した。


「うん、まあ、今回は不問にしてあげるよ」

「す、すみません……」

「謝らないで。今回のことも、元を正せば父上の戯言が発端なところもあるし……僕もやるからには負けないつもりだけど、仮に僕が王になったとしても、フェンをないがしろにすることはないから」


 なんて出来た人間なんだ。フェンは思わず感嘆してしまった。


「私も、王位には殿下がふさわしいと思います」

「でも君はアッシュに仕えるんだろう?」

「あ! いや、そうなんですけど……」

「ふふっ、冗談だよ……あぁでも、君が一時的にでもアッシュに仕えるんなら、僕は負けちゃうかもしれないな」

「どうしてです?」

「だって、国中の貴婦人方の人気を集めてる二人じゃないか」


 いたずらっぽくユリアスが笑う。それにフェンも思わず噴き出したところで、鐘の音が鳴り響き始めた。

 フェンは我に返る。


「申し訳ありません、殿下。そろそろ私は行かなくては……」

「そうだね。僕もそろそろ会議の時間だ。立ち話に付き合ってくれてありがとう、フェン」

「いえ、こちらこそ……あの、殿下」

「うん? なんだい?」

「さっきも言った通り、私は殿下のこと応援してますから」


 フェンはまっすぐにユリアスの目を見つめた。そうすればユリアスは目元を緩めて、小さく頷く。


「ありがとう、フェン。お互い頑張ろうじゃないか。この国のためにも」



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