命拾い。満身創痍だけど

 薪が爆ぜる音がする──


 身体の感覚がなくて、手足があるかどうか分からない。

 唯一機能しているのは、耳と……鼻。

 なんだかミルクを温めている時のような、甘いいい香りがする。

 その香りを思いっきり吸い込みたくて、大きく呼吸をしてみようと思ったけど、重い何かが胸の上に乗っていて出来ない。

 頑張って身体を動かそうとしてみると、辛うじて指先が動いたのが自分でも分かった。

 良かった。腕はついてる。

 その事に安心して、また意識を手放そうとした瞬間──


 顎から頬にかけて、何かの生き物の生暖かい大きな舌でベロリと舐められた。

 ……生臭い。


 ゆっくりと目を開けると、そこには

 デッカい狼の顔があった。

「ッ!!!!!!」


 命の危険、第二弾。


 僕は恐怖のあまり、目を閉じることができなくなり、目の前にあるその狼の顔を凝視する。

 デカイ。

 あまりにデカイ。

 犬と比べるとこんなにも大きいのかと思うほどデカイ。

 おそらく、あんぐりと口を開けられたら、僕の頭はスッポリと口の中に収まるだろう。

 狼って……大きいのね……

 おそらく、僕を舐めたであろうその狼は、そのアイスブルーの瞳で僕をジッと見つめている。

 白地に黒と茶色のホワホワの毛が混じった柔らかそうな毛並みだ。毛並みだけなら飛びついてモフモフして顔を埋めたいレベル。

 でも顔怖い。

 瞳がアイスブルーなせいか、余計に冷たく鋭く見えた。目が離せなくなる。怖くて。


 もしかして……僕が美味しいかどうか確認したのかな……?

 美味しくないと思うよ?

 だって僕結構ガリガリで、皮下脂肪も少ないし、そもそも食べる肉あんまないと思うし、良いもの食べてないからきっと臭いよ?

 そう伝えたかったが、言葉が出なかった。

 口をパクパクさせるだけで精一杯。

 すると、狼は何を思ったのか、また僕の顔──今度は、頬から額まで──を、ゆっくりベロリと舐めた。

 恐怖で更に身体が強張る。

 とうとうガブリとくるのか──そう思っていたら……


 今度は枕が動いた。


 枕──そう思っていた、暖かくフワフワした毛に覆われたソレは、枕ではなかった。

 枕だと思っていたソレは、上体を少し起こすと、僕の右上の方でハッハッハッと短く呼吸しつつ、僕の額にピタリとその濡れて冷たい鼻先をくっつけた。


 ……もう一匹いた。狼。


 アイスブルーの瞳と、白地に黒い毛が混じっている毛並みは、僕の前にいる狼と同じだけど、こちらは美しい銀色の毛が混じっている。神々しい。

 僕、その神々しい狼のお腹を枕にしてた……


 あれ、もうこれ、詰みじゃね?


 なんとかできないかと、僕は唯一動かせる眼球でキョロキョロと辺りを見回す。

 今更気付くが、僕は白黒銀の狼が寝そべったそのお腹を枕にして横になっていた。

 青と白のキルトの掛け布団をかけられていて、その上から、もう一匹の白黒茶の狼が顎だけを僕のお腹に乗せていたようだ。

 今は二匹とも上体を起こして、僕の顔をジッと見つめている。

 天井を見てみた。木製のようで、大きめのランプがぶら下がって部屋をオレンジに照らしている。他にも、何か分からない干したハーブのようなものが沢山吊るされていた。しかし、手の届く距離じゃない。

 僕の左側の壁には棚が設えており、様々な大きさの小瓶が乱雑に並べられている。本も適当に突っ込まれていた。

 でも、そこにも手は届きそうもない。

 壁の反対側──僕の右側には白黒茶の狼が寝そべっていて、その向こうには床と毛足の長いカーペットが敷かれているのが見えた。その向こうには暖炉があり、炎が揺らめいている。

 薪が爆ぜる音がしたのはきっとあそこからだ。

 でも、あの炎でなんとかしようにも遠すぎる。


 うん、詰んでるね。


 僕が少しでも変な動きをしようものなら、前から後ろから、すぐにでもガブリとされて終わりだね。

 そもそも、動けそうもない。

 左腕は当て木がされて包帯のようなもので固定されてるし、右腕は前にいる白黒茶の狼の肩に乗っているし。

 足もこの分だと固定……

 ん?

 腕に当て木??

 僕は視線を自分の左腕に戻す。

 治療されてる……

 あれ?

 もしかして僕、誰かに助けられたのかな?

「おや、気づいたのかい?」

 落ち着いた、低くて少しハスキーな女性の声が、僕の頭の方から降ってきた。

 少しだけ頭を動かすと、僕の額に鼻をくっつけてる白黒銀の狼越しに、こちらを見下げる女性の顔が目に入った。


 透き通るような白い肌に、銀にも見える美しくて白い長い髪、三十代半ばか四十代前半程の妙齢な女性が、狼たちと同じアイスブルーの瞳で僕を見下ろしていた。


「大丈夫かい? 低体温症もおこしていたからね。動けるようになるまでは、そうしているといいサ」

 そう語りながら、ゆるりとした動きで僕の前に来る。床まである濃紺のタイトなロングドレスが、肌と髪をより一層輝かしく見せていた。

 手には二の腕まである長い濃紺の手袋がされている。

 彼女が白黒銀の狼の頭をそっと撫でると、撫でられた狼はトロンとした顔でまた頭を下げて寝そべった。

 僕の前にいた白黒茶の狼も、彼女の顔を少しだけ見上げて表情を確認すると、満足そうな顔でまた僕のお腹に顎を乗せる。

 女性はその様子を眩しそうな顔で眺めると、前屈みになって僕の顔を覗き込んだ。

「まだあまり顔色が良くないねェ」

 そう呟くと、彼女は僕のおデコに手袋のままそっと触れた。

 手袋越しでもわかるほど、その人の手は冷たい。まるで布越しに氷を押し付けられたかのような冷たさだった。

「でも、体温はずいぶん戻ったようだねェ」

 女性はサッとその手を引く。

「あの……僕はどうして……」

 助かったのか、そう聞こうとしたが、口と喉の筋肉が上手く動かせなくて、酷く掠れて上擦った小さい声しか出なかった。

 しかし、彼女の耳には届いたのか、口の端だけを持ち上げる。

「助けたのはアタシじゃないよ。この子サ」

 そう言って、僕のお腹に顎を乗っけてる白黒茶の狼の頭をひと撫でした。

 そして、白黒茶の狼と僕の側に腰を下ろす。

「この子がボロ雑巾のようになってたアンタを拾ってきたのサ。何か獲物でも獲って来たのかと思って受け取ろうとしたらこの子が怒ってねェ。助けろって言うから助けたのサ。アンタ、運がいい」

 そう言われて、僕はお腹に顎を乗っける狼を見る。狼は片目をあけて僕を見返していた。目が合うと、狼は満足そうに目を瞑ってしまった。

 寝顔は可愛いな……

「この子はどうしてアンタを助けろなんて言ったんだろうねェ」

 女性は軽く首を傾げる。サラリと美しい白銀の髪が揺れた。

 ランプと暖炉の光を反射してキラキラ光っている。とてつもなく美しかった。

「まぁいいサ。まだ動ける状態でもないし、ゆっくりしてお行き。まだ冬は終わらないよ。春になる頃には、元気になるだろうサ」

 そう優しい声で呟くと、音もなく立ち上がり、現れた時のようにゆるりと動いて僕の視界から消えた。


 彼女の声は、耳に心地よく響き、酷く優しくて落ち着くものだった。狼に囲まれているのに、緊張がいつのまにか解けている。

 狼は二匹とも、僕を包んで静かに寝息を立てていた。その呼吸音が、くっついてる身体から伝わってきて、なんだか酷く眠くなってくる。

 瞼の重さに逆らう事なく、僕はゆっくりと目を閉じた。


 薪の爆ぜる音。

 甘いミルクの香り。

 その心地よい音と香りに包まれながら、僕はそのまままたゆっくりと意識を手放した。

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