最初の旅立ち
「行くのかい」
荷物の整理をする僕の背中に、セシーリアがそう問いかける。
熊に襲われた日の翌日。
僕は旅立つ準備をし始めた。
「はい。随分、長くお世話になってしまいました」
振り返って笑顔でそう答えた。
そう、ここに来てどれぐらい経ったのだろう。
すくなくとも、折れた骨がくっ付くぐらい長くいた。
一箇所にこれほど長く滞在したのは、初めてかもしれない。
そういえば。
僕は重要な事を忘れていた。
「助けて頂いたお礼をしたいんですけど……」
そう、死にそうだった僕を救ってくれた、言わば命の恩人だ。
何もせず帰るわけにもいかない。
「最初に言ったろう。アンタを助けたのはアタシじゃない、ロルフサ。アタシの事は気にしなくていい。お礼をするならロルフにしな」
セシーリアはそんな無理難題を言い出す。
ロルフにお礼?
何をしたらいいんだろう。
僕は、僕の後ろで伏せて暇そうに尻尾をパタパタしているロルフを見る。
「ロルフは何を喜んでくれるのかな……」
ちっとも思いつかない。
ウサギとか獲ってきたら喜んでくれるかな? 僕が野生のウサギを捕まえられるとは思えないけど……
僕がアレコレ悩んでいると、そばに立つセシーリアがふふっと声を出して笑った。
「もう充分喜んでると思うよ」
「え?」
彼女の言葉に、僕は意味がわからず聞き返す。
何もしてないのに……ロルフが何を喜んでくれたんだろう?
「ロルフは、人に撫でられるのが大好きなのサ。でもアタシは沢山は撫でられないし、リヴもそんな事出来ない。
ロルフはアンタに撫でグリ回されて、いつも幸せそうな顔してたよ」
そう言われて、僕は改めてロルフに向き直り、その顔をマジマジと見た。
すると、ロルフは『なになに?』といった感じで顔を上げる。
僕はにじり寄って、その顔を両手でワシャワシャと撫でた。白の地毛に黒と茶の混じった荒い毛質。狼なので顔は精悍だ。
でも、その精悍な顔を蕩けさせるロルフ。
確かに。喜んでる。
狼なのに、こんなに人懐っこくて大丈夫なんだろうか?
「別れる前に、本人が嫌がるまで撫でてあげるといいサ」
セシーリアはそう一言告げると、ゆらりと部屋へと戻って行った。
僕は、彼女のその言葉の通り、ロルフを思いっきり撫でる事にする。
喉をワシャワシャ、首をワシャワシャ、背中をワシャワシャ。ロルフがもっととお腹を出したので、お腹もこれでもかという程ワシャワシャした。
僕も、ロルフを撫でる事で随分癒された。
もう、狼を撫でるなんて事は出来ないだろう。
僕は一生分、ロルフを撫で回すのだった。
セシーリアの家の扉を開ける。
外は晴れていて、雪が太陽光を反射してキラキラ輝いていた。
外に出ると、ロルフが僕の前に回り込んで身構える。
行かないで──そう言ってるように見えた。
「ロルフ。じゃあね。楽しかったよ」
最後にもう一度と、僕はロルフの頭を両手でワシャワシャと撫でた。
すると後ろから、リヴが僕の背中にペタリと鼻をくっつける。
振り返り、リヴの頭も丁寧に撫でた。
リヴはあまりワシャワシャ撫でられるのは好きじゃない。
ゆっくりと撫でると、リヴは僕に身体を擦り寄せてきた。
「リヴも。色々助けてくれてありがとね」
リヴは、まるで僕を自分の子供のように大切に扱ってくれた。
時々、ロルフと一緒に怒られる事もあったけど。
リヴのそれは、きっと母親の愛情だったんだ。
セシーリアが、家からゆるりと出てくる。
「気をつけて行くんだよ。もう、クレバスに落ちないようにね」
口の端を持ち上げて、彼女は僕にそう告げる。
「はい! 本当に、ありがとうございました」
僕は、腰を折って深々頭を下げた。
「……もし、良かったら……」
頭の上で、セシーリアのそんな言葉が聞こえる。
頭を上げて彼女を見ると、少し困ったような、複雑な顔をしていた。
「青い花の群生を見終わったら……他の場所へ旅立つ前に、一度この家に寄ってくれないかい……?」
セシーリアも……別れを惜しんでくれてる……
僕は、目頭が熱くなるのを感じた。
「勿論! 勿論です!」
僕は、ぶんぶんと首を縦に振る。
すると、セシーリアは表情を崩した。
「ありがとう」
彼女は笑顔でポツリとそう呟いた。
名残惜しかったけれど、いつまでもそうしているワケにはいかず、僕は何度も振り返り手を振りながら、セシーリアの家を後にした。
見えなくなるまで、セシーリアとリヴとロルフは、僕を見送ってくれた。
セシーリアに、青い花の群生地までの道のりを聞いた。勿論危険な場所も。
僕は、二度とクレバスに落ちないように、足元や周りを気にしながら歩いて行った。
森を抜け、山間を抜け、僕は群生地を目指す。
白と黒の世界。
もうすぐ春が来るといっても、まだまだ景色は冬のそれだった。
ん?
僕は、遠くに動くモノがある事に気がついた。
一瞬、それが熊なのではないかと思い、咄嗟に木の陰に隠れる。
しかし、熊にしては小さいなと思ってよくよく目を凝らすと、それが人間の姿をしている事が分かった。
木の陰から出て、その人影の方へと近づいて行く。
あれ? なんだか見覚えがある……
人影が、近づく僕に気がついて手を振ってきた。
「旅人さん! 無事だったんだね! 良かった!」
雪を蹴散らしながら僕に走って近づいて来る。
それは、僕に納屋と色んな装備を貸してくれた、若い兄ちゃんだった。
僕の近くまでたどり着いた若い兄ちゃんは、肩で息をしながら輝くような笑顔で僕の肩を掴んだ。
「帰ってこないから心配したんだぞ! どこでどうしてたんだ?!」
僕を揺らさん勢いでそう詰め寄る。
「あ、その……途中でクレバスに落ちてですね……」
僕はあまりの近さに若干仰け反りながらも、なんとか答えた。
「クレバス?! ああ、そうか、あそこの……よく無事だったな!」
若い兄ちゃんは驚愕する。僕を頭から足先までマジマジと見て、ほほぅと声を漏らした。
「あ、無事ではなかったです。結構重傷負いました。でも、ある人に助けて貰えて……」
そこまで言って、しまったと思った。
セシーリアの事、秘密にしといた方が良かったかもしれない。
僕は慌てて途中で言葉を飲み込んだ。
しかし、兄ちゃんは聞き逃さなかった。
途端に顔を険しくする。
僕の肩から手を離し、少し距離をとった。
「それってもしかして……」
兄ちゃんは、鋭い顔で僕を見据える。
何?! いきなりこの変わりようは何なの?!
僕は、セシーリアの事を秘密にしつつ、どうやって助かったのか説明するにはどう言えばいいか、頭でグルグル考えた。
「……二匹の狼を従えた人か……?」
うおっ! 完全にセシーリアの事だよ!
どうしようどうしようどうしよう!
「ええと……」
何と言ったものかと、言葉を必死に探す。
その間にも、兄ちゃんは固唾を飲んで僕の言葉を待っていた。
下手な言葉を発してしまったら、飛びかかってきそうなその雰囲気に、僕は完全に飲まれてしまって、言葉を出す事が出来なくなってしまうのだった。
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