獰猛なお客様

 もうダメだ。

 振り下ろされる熊の腕を見つつ、そう思った。


 しかし、その腕は体当たりしたロルフによって軌道を変えられ、僕の横の雪を抉った。

 ロルフはその勢いのまま熊に馬乗りになり、首筋に噛み付く。

 次の瞬間、リヴが熊と僕の間に滑り込んできた。

 ロルフが振り落とされて雪に叩きつけられると、今度はリヴが熊に飛びかかる。

 熊は立ち上がって応戦した。


 目の前で繰り広げられる動物同士の戦いを、僕は雪の上に転がったまま見上げる事しか出来なかった。

「大丈夫かい?!」

 駆け寄ってきたセシーリアが、僕の腕をとって立たせようとする。

 しかし、僕は腰が抜けてしまって立てなかった。

「ぎゃうッ!」

 リヴが熊の腕によって吹き飛ばされ、雪の上に転がされる。

 そのままの勢いでこちらに来ようとしているのが見えた。

「セシーリア!」

 僕はセシーリアの肩を思いっきり突き飛ばす。

 次の瞬間、さっきまで彼女の頭があった所を熊の爪が通過した。

 突き飛ばされたセシーリアは、後ろに尻餅をつく。

 僕は肩を押した勢いのまま雪に四つん這いになる。

 手元に、セシーリアが落とした杖があった。

「……ッ!」

 僕はその杖をひっ掴み、熊がいるはずの空間に向かって思いっきり杖を振り上げる。

 手応え。

 しかし、バインっと跳ね返された。

 見ると、熊の足元に杖が当たったようだが、全然効果がないのが分かった。

 立ち上がった熊が、僕を凶暴な目つきで見下ろしている。

 恐怖で杖を握った両手が震えていた。

 でも──

 僕はありったけの勇気を振り絞って、セシーリアを背中に庇い、熊と対峙する。

 残念なのは、腰が抜けて立ち上がれていない事か。

 逃げられない。

 でも、セシーリアは守らなきゃ。

「うわぁ!」

 僕は思いっきり杖を突き出した。

 ドスッという手応えはあったものの、熊には大したダメージを与えてないようだった。

 熊はそのまままた腕を振り上げた。

 僕を薙ぎ倒そうとするかのように腕が振り下ろされる。


 殺られる──


 そう身を硬くした瞬間、僕の横から白く細い腕が突き出された。

 ガギッ

 硬質な衝撃音がする。

 恐る恐る見ると、セシーリアの白い腕と熊の腕の間に、地面から生えた分厚い盾のような氷塊が。

 いつの間にこんなものが……?

 僕が杖を抱きしめて震えていると、後ろのセシーリアがゆらりと立ち上がったのが分かった。

「アタシの庭に忍び込んで……大立ち回りとはヤルねェ」

 セシーリアがその言葉を発した瞬間、彼女の身体から得体の知れない冷気が発せられた。

 足元にいる僕はモロにその冷気を浴びる。

 防寒着を着ているのに、それを通過して身体を直に凍えさせるような、深くて静かなのに容赦ない冷気。

 熊が、セシーリアに威圧されて数歩後ろに下がった。

 その両脇を、今にも飛びかからんばかりに唸るリヴとロルフが囲む。

「アタシの家族と友人に手ェ出すとは……覚悟するんだね」

 ゆらりとした動きで僕の横に出るセシーリア。

 いつのまにか、いつもしている長い手袋を外していた。

 その横顔には怒りも何も浮かんでいないように見える。冷徹な無表情。

 しかし、眼だけは剣呑として恐ろしく鋭かった。アイスブルーの瞳にだけ、怒りの色が浮かんでいる。


 束の間の静寂。

 誰も動かない。


 最初の行動を起こしたのは熊だった。

「ガァ!」

 獰猛な唸り声をあげて地面を蹴る。

 勢いで立ち上がり、セシーリアに鋭い爪の一撃を浴びせかけようとした。

 しかし、その一撃はロルフが熊の空いた脇腹に体当たりした事で横に逸れる。

 リヴが次の瞬間、熊の背中に飛び乗る。

 背中から相手の首筋に向かってリヴは牙を突き立てた。

 熊が、背中のリヴを振り落そうともがいた時、ゆらりと僕の横のセシーリアが動く。

 本当にゆっくりと優雅で上品な動きで熊の懐に滑り込むと、自分より遥かに背の高い熊の喉元を片手で掴んだ。

 その瞬間、熊の動きが止まる。


 そこからのシーンは、まるで夢を見ているかのような気がした。


 セシーリアに掴まれた熊の喉元の黒い毛が、まるで色が抜けていくかのように白くなっていく。

 少しずつ白い部分が増えていく。

 喉から胸へ、胸から肩へ──

 リヴとロルフが僕の両脇に戻ってきて、その様子を身構えながら見ている。

 熊の右肩まで、その白い毛は侵食していった。


 まるで凍ってしまったかのように微動だにしない熊に向かって、セシーリアは酷く優しい声をかける。

「冬が遠く、食べ物に困ってここまで来たんだろう? 春はもう来る。あともう少しだけ待つんだよ」

 そう告げて、手をゆっくりと熊の喉元から離した。

 熊はその硬直を解き、雪の地面に両手をつく。

 セシーリアに向かってグルルと喉を鳴らした。

「お前の住む所に帰るんだよ」

 引こうとしない熊に手をかざし、彼女は牽制する。

 少しの沈黙の後──

 熊は踵を返した。

 右肩を庇いながら、ひょこひょこと歩いて、森の奥へと消えていった。


 呆然と、その様子を見つめる僕。

 両手でセシーリアの杖を抱いたまま、今見た光景が信じられず、ポカンと口を開いたままだった。

 クゥンと一鳴きし、ロルフが僕の顔をベロリと舐める。

 僕は弾かれたように正気に戻り、僕を舐めたロルフを見て、心配そうな顔で僕を見つめるリヴを見て、そしてセシーリアを見上げた。

 彼女は手袋を嵌め直しながら、なんだか悲しそうに僕を見下げていた。

「怖かったろう……」

 二の句を継ごうとして、何かの言葉を飲み込んだセシーリア。

 僕は、抱きしめた杖が震えているのを見て、自分がまだ恐怖の余韻で震えている事に気がつく。

 震えは止まらなかったけど、そのまま杖を彼女に差し出した。

「ハイ……怖かったです……二回ぐらい頭が吹っ飛ぶの覚悟しました……杖ありがとうございます……欠けてたらごめんなさい……」

 杖を差し出されたセシーリアは、それを受け取りつつ、目を見開く。

「熊だけかい? 怖かったのは」

 キョトンとして僕にそう問いかけて来る。

 熊以外に何か怖い物あったっけ? あっ……

「リヴとロルフは普段優しいけど、牙剥くと如何にも『狼』って感じで怖かったです」

 いや本当に、戦ってる間のリヴとロルフは凄かった。

 本気出すとあんなに勇ましくて格好良くて、怖いモンなんだね。

 いつも、何かあると身体を擦り付けて僕の心配をするリヴや、お腹撫でてと僕の前でゴロンと寝そべるロルフとは思えない程だった。

「まぁ……二人とも事実狼だから……そりゃあねェ……」

 僕の言葉に、複雑な顔をして応えるセシーリア。

「……それだけかい?」

 彼女のダメ押しの言葉に、僕は首をかしげる。

 他に怖かった事?

 なんだろう……

「自分が思った以上に役立たずだったという事実ですかね……」

 本当に自分は何の役にも立たなかった。

 杖という武器を手にしてても無理だった。

 むしろ、僕という足手まといが、セシーリアを危険に晒したんじゃないかと思う。


 ……鍛えるべきか?

 いや、そもそも鍛えたところで、僕は強くなれるのか?

 ……無理☆


「はぁ。アンタの豪胆さは、リヴとロルフに対する態度で気づいていたけどねェ……。まさかここまでとは」

 呆れた声をあげて、頭を掻くセシーリア。

 豪胆?

 誰が?

「アンタ、アタシが怖くなかったのかい?」

 あ、僕の事?

 彼女の言葉に、少し考えてみた。

 セシーリアが怖い?

 怖かった事といえば……

「ああ、無表情で怒ってた時の顔は怖かったです」

 あの、熊に対峙した時の彼女の顔。本当に怖かった。

 普段優しい人を怒らせてはいけないっていう、良い見本だったと思う。

「顔……」

 セシーリアが、眉を八の字にして僕をみていた。

 あ! しまった! 妙齢の女性に『顔が怖い』なんて、失礼過ぎた!

「今のっ──」

 ナシで、そう言い終わる前に。

「あははははははは!」

 またセシーリアが爆笑し始めた。

 え? 何? 何で爆笑してるの?

 僕また変な事言った?

「アンタは本当にっ……」

 笑いながら、セシーリアは僕の頭をクシャリとひと撫でする。

 その顔は、笑ってるけど──


 泣いているようにも見えた。

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