冬が終わらない②

 言葉が出なかった。


 こんな高い山の頂きに立つなんて……人生で経験できる事なのだろうか?


 いや、今まさに経験している。

 ここより高い所はない。

 全てが眼下に見える。

 木々の黒と雪の白のまだら模様が、ひたすら奥まで続いていた。

 遠くの山が地平線を覆い隠すかのようにそびえている。あれはどのぐらい遠いのか…想像も出来ない。

 雲まで下に見える。

 雲を見下げるって……出来るんだ……

 上を見上げれば、今まで広大だと思っていた地面よりも遥かに広く、薄い青の空が広がっていた。

 視界を遮るものが何もない。

 自分が矮小な存在なのだと、これでもかという程実感させられた。


 そのあまりの衝撃に、頭がクラクラする。

 少し視界も暗くなってきたかのような……いや、本当に息苦しい。

 え? 何コレ?

「高い所は空気が薄いのサ。ゆっくり深く呼吸するんだよ」

 僕の肩からセシーリアが手を離しつつ言う。

 そして、北のほう──地平線をジッと見つめた。

 僕は立っているのが辛くなって蹲る。

 すると、足元にいたロルフが心配そうに鼻先を僕にくっつけてきた。

 セシーリアを挟んで僕の反対側にいたリヴも体を擦り寄せてきてくれる。

 心配してくれているのが分かって、苦しくて喋れない代わりに、二匹の胸元を撫でた。

「……なるほどね」

 セシーリアがポツリと呟く。

 見上げると、彼女には珍しく険しい顔をしていた。

 その表情のまま、彼女は手にした杖を地平線の方へと向ける。

「……アタシの地に喧嘩売るとはいい度胸してるねェ」

 挑発的にそんな言葉を口にするセシーリア。

 すると、杖の先の青い石が淡く光り始めた。

「Du er vinterens vegg. Bryt den!」

 突然、セシーリアは声を張り上げた。

 その瞬間、杖の青い石が激しい光を放つ。

 あまりの眩しさに目を背けると、何処かで硝子が割れたかのような不思議な音がした。

 その直後、猛烈な風が巻き起こる。

 僕は吹き飛ばされないように、リヴとロルフの身体を抱き寄せた。

「帰るよ」

 耳元でそんなのセシーリア声が聞こえる。

 彼女の冷たい手がまた僕の肩に置かれたかと思うと、風の音が酷くなり身体が何かに吹き飛ばされたかのような感覚に陥った。

 恐怖でリヴとロルフにしがみつく事しか、僕には出来なかった。


 風が収まった。

 ロルフがクンクン鳴きながら僕に鼻を押し付けてくる。

 恐る恐る目を開けると、そこはセシーリアの家の前だった。

 セシーリアが僕の肩から手を離し、帽子の上から頭をポンと軽く叩く。

「着いたよ」

 口の端を持ち上げて、僕にそう微笑みかけた。

 僕は、セシーリアの顔を見て、リヴを見て、ロルフを見て、彼女の家を見て──今までのが夢だったのかと思う。

「突然悪かったね。もう苦しくないだろう?」

 セシーリアのその言葉が、さっきまでのが夢ではないという事を示していた。

「あの……今のって……」

 僕はまだロルフとリヴを抱きしめたまま。リヴは面倒臭そうに僕の腕から逃れると、セシーリアの足元へと移動した。

「ちょいと風の力を借りてね、山の上まで飛んだのサ」

 風の力を借りる?! そんな簡単に借りられるものだっけ風って?!

「春が来ない理由が分かったよ。何者かが春の風をどこかに繋ぎ止めて、寒波を引きずりおろしていたのサ。

 今までは寒波を凌ぐ事しかしてなかったけど……もうそれも終わり。楔は壊したよ」

 セシーリアが山の上の方を見上げながら説明してくれるが、サッパリ分からない。

 春の風を繋ぎ止める?

 寒波を引きずりおろす? 凌ぐ?

 楔?

 彼女の言葉はまるでお伽話を語っているかのよう。

 比喩なのか事実なのか僕には判断できなかった。


 ふと、さっき思いついた言葉が口をついて出た。

「雪の女王様……」

 僕が不意に呟いた言葉に、セシーリアは普段絶対に見せないような驚き顔をする。

 目を丸くして僕を見下げて──突然吹き出した。

「あははははは!」

 大爆笑。文字通りお腹を抱えて。

 リヴも舌を垂らして笑顔に見える。

 セシーリアが……声を出して笑ってる。爆笑、するんだ……

 彼女の笑いは止まらない。

 杖を雪の上に放り出して、お腹を押さえて笑ってる。

 僕は笑いポイントが分からず、取り敢えず立ち上がって帽子とマフラーを外し、笑いが収まるのを待った。

 そのうち、笑いが収まり、セシーリアは目に浮かんだ涙を拭いながら僕を見る。

 とても朗らかで優しく柔和な笑顔だった。

「そんな事を言われたのは久し振りだねェ。そんな事を言う子が、まだいたなんて」

 おそらく僕ではない誰かを重ねて僕を見てる。

 愛おしそうに、優しく僕の頭をひと撫でした。


 僕以外にも、セシーリアと仲良くしてた人がいたんだ。

 正直意外だった。

 僕がここに滞在している間、誰も訪ねてこなかったし、誰かを訪ねる風でもなかった。

 てっきり、他の人とは関わらずに生きているんだとばっかり思っていたから。

「僕以外にも?」

 いたんですか。と言おうとして、その言葉が酷く失礼だと気がついて途中で言葉を飲み込んだ。

 しかし、セシーリアは気を害した様子もなく、懐かしそうに目を細めて、遠くを見つめる。

「そうだよ。あれはどれぐらい前だったかねェ。アンタみたいに拾った子供がいたんだよ。その子もアタシにそう言ったんだ。『貴女は雪の女王様ですか?』って。そんな大層なモンじゃないんだけどねェ」

 セシーリアの顔が優しい。

 その子の事を大切に思っていたんだという事がアリアリと感じられた。

 そっか。

 セシーリアにも、そんな人がいたんだな。

「その子は今どこに?」

 今彼女は一人だ。拾ったというその子が生活している様子もない。

 素朴な疑問として投げかけてみた。

 セシーリアは、ゆるりと振り返って口の端を持ち上げる。

「しばらくしてから村に帰したよ。ここであまり長く過ごさない方がいいからね」

 そう言って──少し寂しそうな顔をした。

「どうして……?」

 何故ここで長く過ごしてはいけないんだろう?

 彼女の言葉に引っかかって尋ねてみようとして──


 突然感じた悪寒に言葉が詰まる。


 リヴとロルフが突然立ち上がり、唸り出した。

 え? 何?

 その不穏な空気に、セシーリアも顔を険しくする。

 さっき放り出した杖を拾う為に屈み──

 ザザッザザッという何か大きなものが走り寄ってくる足音に手が止まった。

 僕はその音の下方向に視線を向け──黒い大きな影が既に目の前まで迫っている事に気がついた。

「ガウッ!」

 ロルフがその大きな影に飛びかかった。

 しかし、その大きな影はヒラリとロルフの一撃を躱すと……

 僕の視界がその瞬間激しく揺らいだ。

 背中を思いっきり引っ張られたのだ。

 何が起こったのか分からないまま、引っ張られたその猛烈な勢いのまま、視界が一瞬空をうつして……

 一瞬の浮遊感の直後、身体に衝撃。

 雪の積もった畑に投げられたのだと気づいたのは、顔を上げた時だった。


 目の前に、大きな影の光る双眸があった。

 ──熊だ。物凄く大きな。

 滴る涎と鋭く剥かれた牙。

 雪の上に倒れ込んだ僕に覆いかぶさって、グルグルと獰猛な音を喉からたてる──熊だ。

「ヤン!」

 セシーリアが叫ぶ。

 リヴとロルフが吠えてるのが聞こえた。

 でも、僕は動けない。視線も外せない。

 リヴやロルフの目にはない、野生の動物が見せる明確な僕への殺意。

 絶対的に勝てない捕食者と対峙し、僕は恐怖ですくみあがって動けなかった。


 熊が、丸太のような太い腕を振り上げる。


 鋭く大きな爪が僕の頭へと振り下ろされるそのシーンが、やけにゆっくりとした動きに見えた。

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