彼の選択と彼女の答え

 その言葉を聞いた瞬間、僕は背筋が凍りついた。


 マティアスはここに──死にに来たのか。

 自分の命がもうすぐ尽きる事を知って……痛めつけられた身体がもう回復しないと気付いていて……


 僕は今にも口から出そうになる、彼を止める言葉を、手を痛いほど握りしめて耐える。

 僕には止める権利がない。

 その場の雰囲気で止めたって、苦しむのはマティアスだ。

 彼の選択は彼の人生。

 彼の生き方に意見なんてできない。


 セシーリアは、そう必死に懇願する彼の最期の願いを聞いて──


「嫌だね」


 拒否した。

 彼の背中から手を離し、ゆらりとその場に立ち上がる。

 身体を支えられなくなったマティアスは、前のめりに倒れそうになり、義手で何とか押し止まった。

「お願いだセシーリア!」

 マティアスはなおも食い下がる。

 しかし、セシーリアは懇願するマティアスを、冷めた目で見下ろした。

「アンタの命の責任まで負えないよ」

 そう言い放つ。

 冷たくない?!

 セシーリア冷たくない?!

 いや、確かに『殺してくれ』と言われて簡単に『はい分かりました』とは言えないけどさ!

 でも……なんか別の言い方ってモンが……

 僕の心の葛藤とは裏腹に、セシーリアはひょいと肩をすくめてマティアスに言う。

「それに、アンタはまだ生きてるじゃないか。ここで終わらせようにも……まだ終わらないだろう?」

「でも、俺はもうすぐ……っ」

「もうすぐってったって、五分後十分後の話じゃないだろう?」

 そう手を振りながらセシーリアは言う。

 そして、また彼の前に膝をついて、真っ直ぐに彼の目を見た。

「あン時も言った筈だよ。そう簡単に生きるのを諦めるモンじゃないって」

 彼の額にかかった前髪を優しく後ろに撫でつけつつ、優しげに、しかし力強く彼に言った。

「でも……」

 マティアスはそれでも食い下がろうとした。

 そうだ。セシーリアの言うことも尤もだけど、でもだからと言って彼はあと何日もつかは分からない状態な筈だ。

 諦めるなと言われても、最早どうしようもないんじゃないのかな……

 マティアスが、悔しそうに雪を握りしめる。

 そんな様子を見て、彼女はとてつもなく優しい笑顔になった。


「未来に望みを繋げばいい」


 彼女の、言った意味が分からなかった。


「今はまだお前の病を治す手立てはない。でも、未来は分からないだろう? 抗生剤だって、発見されたのは最近だ。それまでは何人もの人々が手立てなく流行病に倒れていったんだよ」

 そう言って、彼女は手袋を外す。


 マティアスは、彼女が何をしようとしているかが分かったのか、泣き笑いのような顔になった。


「なァに。百年や二百年なんて、寝て目覚めたらあっという間サ」

 彼女はその白く繊細な手を、そっと彼の頬に当てた。

 愛おしそうにそっと彼の頬に置かれた手に、彼は義手を添える。

「やっと、触ってくれた……」

 彼の頬から、色が抜けていく。

 しかし、その顔は穏やかな笑顔だった。


 彼女は、手袋を外した両手でそっと──まるで大切なものを大事に大事にするかのように──抱きしめた。


 彼も、彼女の細い身体を抱きしめ返す。


 彼女の肌が触れた所から、彼は徐々に色を失っていく。

「おやすみ──マティアス」

 そして、彼は完全に色を失い、彼女の腕の中で最後の息を吐き出して動かなくなった。




 彼女は、動かなくなった彼の身体をそっと雪原に横たえた。


 その時。


 彼の頬の横で、ポツリと、雪の下から顔を出した蕾が青い花弁を広げた。


 ポツリポツリ。


 雪の下から次々に蕾が顔を出し、風で水面にさざ波が立つのように花弁を広げていく。

 

 あっという間に、青い花がマティアスの身体を囲むように咲き始め、そしてその範囲を広げていった。

 気づくと、白い雪原が一面、真っ青に染まるほど青い花で満たされていた。


 地平線まで青──むしろ青というより美しい瑠璃色──の花に満たされた雪原。

 陽の光を反射して、瑠璃色の花の隙間の雪がキラキラと輝く。

 風が吹くと、花弁が美しく宙を舞った。

 言葉では言い表せないほど、その光景は美しかった。


 セシーリアは、その中に優雅に立っていた。

 マティアスが、あの日見た光景だ。


 僕が想像していたよりも遥かに、その姿は神々しくて──美しかった。


 晴れ上がった空は雲もなく、吸い込まれそうな薄い青一色。

 そして、地平線まで咲き乱れる瑠璃色の花。

 花の合間から光を反射してキラキラと雪が瞬いている。

 風に舞う瑠璃の花弁と空の色が混じる中、銀にも見える白い長い髪をたなびかせながら立つ女性。

 彼女の髪の白と濃紺のドレスのコントラストが、バラバラに存在する色を一点に繋ぎ止めているかのようだった。


 そんな彼女は、瑠璃の花に囲まれて眠る彼の横に再度膝をつく。

 優雅な動きで眠った彼の手を取ると──


 愛おしそうに、その甲にそっと口付けた。


 その光景はまるで、伝説の一節を切り取ったかのような絵画──まさに、青の奇跡、そのものだった。

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