彼女と狼

 あれからどれ程の時間が経ったのか。


 この地域の冬は『白夜』と呼ばれる現象により、なかなか太陽が沈まず、沈んでもまたすぐに登ってくる。

 今ある太陽が、沈みそうなのか登ってきたばかりなのかの区別もなかなかつけられない。

 天候が悪い事も多くて、吹雪により視界ゼロになってしまい外の状況が分からない事も多かった。

 村では春はそろそろだと言っていたけど、彼女によると春はもう少し先らしい。


 クレバスに落ちずに絶景ポイントに辿り着けたとしても、結局はまだ青い花は見れなかったという事だ。

 『きっと奇跡を目の当たりに出来る』と、信じて疑わなかった自分が恥ずかしい……


 そんな極限にアホで不運な僕といえば。

 左肩を脱臼した上で前腕部を骨折、左脚は二箇所骨折。そして全体的に満遍なく打ち身と捻挫。

 荷物を背負っていた事と、クレバスに落ちた時に咄嗟に身体を丸めて頭を抱えていたお陰で、奇跡的に頭、背骨や肋骨、内臓に損傷はなかったそうだ。

「折れた肋骨が肺に刺さったり内臓破裂したりしなくて良かったねェ」

 僕を助けてくれた女性が、上品で落ち着いたハスキーボイスで、そんな怖い事を呟いた時には、確かにと思って背筋が凍った。


 そんな怖い事を平気で言ってしまう怖い人なのかと思いきや、女性は甲斐甲斐しく僕を世話してくれた。

 当初打ち身などが酷くて起き上がれなかった時には、わざわざ床に座ってひと匙ひと匙食事を口に運んでくれた。

 ──その食事はなんとも形容し難いモノだったけど。

 栄養をつけつつ抗炎症と怪我の回復の為に、芋をペースト状にした上で何かのエキス(知りたくない)やら何かの植物やハーブをすり潰したモノを混ぜて煮込んだモノで……

 スッゴイ匂いで舌触りも最悪、苦い上にエグいのに妙な甘さがあって……正直、これを食べたくないが為に早く起き上がれるように努力したようなものだよ。

 だって、食べてるうちに、胃と喉がソレを入れるのを拒否して押し戻して来るレベルなんだもん。

 でも吐かなかったよ。

 頑張った自分。

 偉いぞ自分。


 身体が起こせるようになったら、その拷問レベルの病人食からは解放されたけど……今度は問答無用の地獄のリハビリが待っていた。

 僕のお腹でいつも微睡む白黒茶の狼が、鼻先を使ってグイグイ僕を押して、無理矢理でも身体を動かせようとさせてきた。

 上半身を起こせば腰に鼻先を埋めて立たせようとして、なんとか立てば今度は背中を押して歩かせようとする。

 いやいやいやいや!

 僕そんな強くないから!

 骨折ってるから!

 まだくっついてないから! 骨!

 しかし、言葉なんて通じるわけもなく狼は毎日、僕が起き上がれなくなるまでシゴいた。

 恨めしくその顔を睨むと、狼はベロを垂らして笑顔で僕をいつも見返してきていた。

「動かないと筋肉と関節が固まってしまうのサ。頑張りな」

 あまりのシゴキに、ある日僕が彼女に助けを求めると、彼女はただそう言って、口の端を持ち上げて僕を見下ろすだけだった。

 ……もしかして、僕についてるドSの幸運の女神様と同じ系統なのかな……


 それは、松葉杖を使えば、なんとか歩く事が出来るようになった頃の事だった。


「そういえば。アンタの名は何というんだい?」

 僕の為に抗炎症作用のあるハーブを煮詰めている彼女が、鍋に向かったまま背中越しに僕にそう問いかけてきた。

 僕といえば、ダイニングテーブルで鞘ごと乾燥させた大豆を、鞘と豆に分ける作業をしている最中だった。

 折角起き上がれるようになったのだから、何かお手伝い出来る事はないかと聞いた僕に任せてくれた仕事だ。食事の下ごしらえ。

 でも、白黒茶の狼が右脇の下から腕をグイグイと持ち上げようとするので、なかなか思うように進まず。

 只でさえ左腕はまだ動かせないから机の上に置いたままで、物を掴むぐらいしか出来ないのに、右腕は狼に邪魔され四苦八苦していたので、質問の内容がよく聞き取れなかった。

「え?」

 僕が手を止めると、ズポッと狼が僕の右脇の下から頭を出してテーブルの上に顎を乗せる。

 僕は諦めて大豆を置いて、すっかり仲良くなった狼の茶色の混じった毛並みの頭を撫でた。

「『エ』というのかい。珍しい響きだねェ」

 彼女は、僕の言葉が聞き返したものではなく、名前を返答したものだと思ったらしく、妙に納得したかのような声で返答した。

 僕は慌てて否定する。

「違いますよ! それは名前じゃないです! 聞き取れなくて聞き返しただけです!」

「ほゥ? じゃあなんてんだい?」

 条件反射で否定してしまったせいで、いつもの手順が崩れてしまい、しまったと思った。

 お互い名前で呼ばなかった為、油断してた。

 いつも僕は彼女を呼ぶ時は「すみません」とか「あの」と声をかけていたし、彼女も僕を呼ぶ時は「おい」とか「アンタ」とかだったから。

 てっきり名前で呼び合うのは嫌なのかと。

 二匹の狼の名前すらも聞かなかった。

「えっと」

 でも大丈夫。今までも色んな状況を乗り切ってきた。こんな事も過去にはあったし。

「そうですね……当ててみます? 僕の名前。当たるかな?」

 僕は少し挑戦的に聞き返す。

 こういう言い方すると、当てたくなるのが人のさがだ。

 彼女は、鍋をかき混ぜる手を止めて、ゆっくりと振り返った。

 狼と同じ、アイスブルーの瞳で表情もなくジッと見返されると、背筋が一瞬ゾッとした。

 恐怖とはまた違う──寒さのような何かだ。

 この人には、通じなかったかな……?

「……ヒントをおくれ」

 表情もなく……と思っていた彼女の眉尻が少し下がる。

 あ、困ってる?

 ちょっと可愛い……

「ヒントはですね……実はこの地域によくある名前と同じなんですよ」

 ちょっと悪戯っぽく笑って彼女の顔を見返す。

 すると、えーと……といった顔で彼女は少し天井に目をやる。

「……ヤン、とか?」

 ポツリと呟く彼女の言葉に、目を見開く僕。

 ビックリした顔で彼女を見返した。

「……凄い。当たりです」

 演技だけど。

「そうなのかい?」

 彼女の口の端が持ち上がる。

 あれが、彼女の笑顔だという事は、もう知っていた。

「はい。僕、ヤンです。いくらなんてでも、まさか一発で当たるとは……」

 僕は静かに驚いてみせる。

 大袈裟に驚くよりも、こういった感じにした方がよりリアルに見える事もある。

「ヤン、かい。いい名前だね。アタシは好きだよ」

 彼女は眩しそうに目を細めて僕の顔を見た。

 まるで、懐かしい名前を呼ぶかのような顔だ。

 ──もしかしたら、この名前の知り合いが、昔いたのかもしれない。

「ありがとうございます」

 僕は頬が熱くなるのを感じた。

 なんか嬉しい……本当の名前じゃないけど、でも嬉しい。

 名前を褒められたの……もしかしたら初めてかもしれない。名前を褒められるって、こんなに嬉しい事なんだ……知らなかった。

「アンタの名前を聞いたら、アタシの名前も言わなきゃねェ。アタシは、セシーリアだよ」

 僕に真っ直ぐに向き直り、彼女は僕にそう告げた。

「セシーリア……綺麗な名前ですね」

 僕は感じた感想を素直に口にする。

 すると、彼女は今まで見せた事がないような、はにかんだ顔をした。

「……そんな事を言われたのは久し振りだねェ」

 いつの間にか彼女の傍に佇んでいた、もう一匹の白黒銀の狼の頭を撫でる。照れ隠しなのが分かった。

 彼女──セシーリアはあまり表情は動かないけど、最近感情が読み取れるようになった。

「そうだ。この子達の名前も言ってなかったねェ。この子は母親のリヴ。そっちでアンタの邪魔してるのが息子のロルフだよ」

 名前を呼ばれた二匹が、彼女──セシーリアの顔を見上げる。

 一人と二匹の間に流れる、言葉によらない信頼の空気というものを感じた。

 そして僕は、その中に入れてもらってる。

 とても──幸せな空間だと思った。


 この、美しい白銀の長い髪と、アイスブルーの瞳に透き通るような白い肌の妙齢の女性──二匹の狼を従えた、雪山に暮らす孤高の人──セシーリア。


 この物語の、主人公。

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