氷の魔女

 突然の事に、村人たちは騒ぐことを忘れて、ただ呆然とセシーリアとリヴの姿を見ていた。


 僕はこの好機を逃さない。


 僕を押さえつける力が緩んだ隙をついて抜け出すと、落ちたナイフを拾ってロルフの所に駆け寄る。

 ナイフでその拘束を外してあげた。

「ロルフ!」

 僕は、その首をぎゅっと抱きしめた。

 ロルフがキュウンと鼻鳴きする。

 ごめんね、ロルフ。こんな目に合わせちゃって……


 その間に、セシーリアはマティアスの縄を片手でスルリと解いた。

 マティアスはその場に崩れ落ちる。

 そんな彼に、リヴが心配そうに擦り寄っていった。


 そこまできて、中年男性はやっと我に帰ったのか、裏っ返った声をあげる。

「とっ……とうとう姿を現したな! 氷の魔女め!」

 少し声が震えてる。

 セシーリアは、ゆるりとしたら動きで彼に向き直ると、おや、という顔をした。

「アンタはパウルの息子かい? 孫かい? パウルはもう少し礼儀正しかったけどねェ」

 口の端を持ち上げて、シニカルに笑うセシーリア。

「どっ……どうして爺さんの名前を……」

 中年男性は、驚愕の顔をして立ち竦んだ。

「このっ……魔女め! ワシの爺さんを殺したろう!」

 人集りからそう声を上げたのは、昨日ムチャクチャな事を言ってたババアだった。

 雪玉を作って今にも投げようと振りかぶっている。

 セシーリアは今度はそちらを見て、ふっと笑った。

「アンタはケリーの娘のクリスティンだろう。アンタの旦那は誰だい? 誰か知らないんじゃ殺すことも出来ないねェ」

 ふふっと笑うセシーリアに、震えた手でババアは雪玉を投げつける。しかし、雪玉は明後日の方向へと飛んでった。

「ヘンリクだよ! ワシの旦那はヘンリクだ!」

 自分で明後日の方向に投げたクセに、地団駄を踏んで悔しがり、そう叫ぶババア。

 セシーリアは、少し何かを考えてる。

「ああ、もしかして、アンネの息子のヘンリクかい? あの子は肺が弱かったろう。そうかい。アンタと結婚して、そんな歳になるまで生きられたのか。良かったねぇ」

 さも、喜ばしい事だと言わんばかりに微笑ましく言うセシーリア。

 ババアは今にも投げつけようとしていた新しい雪玉をポトリと落として愕然としていた。

 ほら、やっぱり寿命だったんじゃん。


 セシーリアは、周りの人々を見てはその人たちの祖父母や両親の事を口にする。

 そうか。まだ少し交流があった頃の人達の事か。

 ……セシーリアは、そんな昔の事を──みんなの名前も顔も覚えてるって事か。


 どれだけ村の人との交流を大事にしていたのか──その想いが偲ばれる。


 そんな親しくしていた人たちから畏怖の対象とされるなんて……確かにそれは傷ついたろうな。


 人々の空気が変わり、次々に戦意を喪失していった。

 そりゃ自分の親祖父母の名前などを出されたら……そうなるだろう。

 しかし、例外の人間もいたようだった。

「氷の魔女に懐柔されるな! それがヤツの手だ! ヤツを倒せ!」

 そう叫んだ人が、弓矢をつがえているのが見えた。弓矢には、火がつけられている。

「危ない!」

 僕は咄嗟にそう叫ぶ。

 しかしそれは、矢が放たれたのとほぼ同時だった。

 セシーリアがゆるりと動いた。まるで扇ぐかのように手を翻す。

 すると、火のついた弓矢は、火を消されて地面にポトリと落っこちた。

「気が済んだかい?」

 口の端は持ち上がってるけど、セシーリアの目は笑ってない。むしろ、冷たく鋭くなってる。

 辺りに、また凍えるような冷気が漂い始めた。うん、怒ってる。


 村人たちは、そのほとんどが戦意を喪失したみたいだった。


 僕はその事に安心して、ロルフから手を離した。

 その隙を狙っていた人物がいた。

「コイツだけでも!」

 そう叫んで大振りの包丁を振りかぶるのは──あのお店のおっちゃんだった。

 座り込んでいるロルフに向かって、その刃を振り下ろす。

「やめて!」

 なんとかぼくが体当たりしてそれを阻止した。

 勢い余っておっちゃんと一緒に地面に倒れこむ。

「余所者のクセに!」

 そう言って僕目掛けて間髪入れずフライパンを振りかざすのは──おっちゃんの奥さんだった。

 ヤバイ、当たる!

「ヤン!」

 セシーリアが僕を呼ぶ声が聞こえる。

 その瞬間、おばちゃんが手にしたフライパンが何かに弾かれて、おばちゃんの背後へと飛んでいった。

 セシーリアの方を見ると、彼女が僕の方に向かって手をかざしていた。

 その後ろに──

 さっきと別の人物が、火のついた弓矢を引き絞っている姿が見えた。

「セシーリア後ろ!」

 僕は指差して叫ぶ。

 セシーリアがその声に応じて後ろを振り返る。

 それとほぼ同時に、弓から放たれた火の矢がセシーリアに向かって一直線に飛んだ。

 危ない!


 間一髪。

 火の矢はセシーリアに届かなかった。

 途中で阻まれたのだ

 彼の義手に。


 セシーリアと射手の間に割って入ったのは、さっきまで座り込んでいたマティアスだった。

 木でできた腕を伸ばして、彼女を襲った矢を受け止めたのだ。

 しかし、彼はそのまままた倒れ込んでしまう。

 セシーリアは倒れたマティアスの義手から火の矢を払い落として、倒れ込んだ彼のそばに膝をついた。

 と、同時に義手に再度触れる。

「……この義手は……マティアス……?」

 セシーリアは、その時初めて、そこにいた彼が昔助けた幼い子供だったという事に気がついたようだ。

 義手を撫で、次に倒れた彼の頭を撫でる。

 そして──ボロボロの彼の身体をそっと撫でた。

 セシーリアが、ゆらりと立ち上がる。

 一瞬にして、辺りが激しい冷気に包まれた。


 ──僕は気づく。セシーリアが激怒しているという事に。


「昔は……村人たちと衝突もしたが、よい関係を築いていた。確かに畏れられていたけれど……それでも村人たちはアタシを大事にしてくれていたよ」

 風がセシーリアの方から吹き付けてくる。

 雪が舞い散り、吹雪のような風になってきた。

「そんな人達の子供たちだからと……寒波を防いだり──陰ながら守ってきたのは、どうやら間違いだったようだねェ」

 僕は、ロルフの元に戻って彼を抱きしめる。

 正直、怒ったセシーリアは誰よりも怖い。

「なんせ、アタシの家族を寄ってたかってボコボコにするような人間たちだものねェ。ここにはもう、守るべき人間たちはいないようだ」

 そう言ってセシーリアは右手を天に翳す。

 すると、猛烈な風が周囲に巻き起こった。

 僕はロルフを強く抱きしめる。

 すると、ロルフごと身体が持ち上げられた感覚がした。

 この感覚には覚えがある。

 飛ばされる!


 猛烈な風に目を閉じて耐えると、暫くして風が収まって静かになった。


 恐る恐る目を開ける。

 そこは、ついこの間まで僕が慣れ親しんだ場所──セシーリアの家の前だった。


 僕の目の前には、天仰ぎつつ佇むセシーリアと、リヴに寄り添われたマティアスの姿があった。

「マティアス!」

 僕は慌てて倒れたマティアスに駆け寄る。

 その身体を抱き起こすと、痛みでマティアスが顔を歪めた。

 良かった! 生きてる!

「マティアスを中まで運んでくれるかい?」

 セシーリアに言われて、僕は力強く頷く。

 倒れたマティアスは全身が酷い状態だった。下手に動かせない。

 僕は、彼の両脇に手を入れて、ズルズルと引きずって家の中まで運び入れるのだった。

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