5-3 望郷


 **********



「あのオバサン、変わり者、なんだよね。だからあの家、あんまり誰も寄り付かないんだ」

 モナがのんびりと言った。


 ポル、シェン、モナの三人は、適当な家の玄関前に並んで座り込んでいた。

 夜の大嵐がウソのように、さわやかに晴れた午前十時。壁に囲まれた道の上を見上げれば、吸い込まれそうな薄灰青の空がある。

 昨日渡った川は嵐で増水して、水しぶきを上げていた。さっき同じ橋を三人で渡ってみたら、川のしずくが足にかかってくすぐったかった。

 大雨のあとのベスペンツァは、まるで町ごと水の通り道になっているみたいだ。耳をすませばいたるところから、ぽとぽと、ちょろちょろ、ポツンポツン――と無数の水音がする。

「変わり者?」

 シェンがモナに訊き返す。

「うん」

 モナは手に持った大きな紙箱をゴソゴソやりながら言った。中には、米粒や麦のカラ、細かい木の実のくずがごちゃごちゃに入っている。

「昨日みたいに、誰にでも、文句言うんだ。そのわりに、頼んだらあっさり、泊めてくれるし」

 そう言うモナの前に、どこからかよちよちと茶色いニワトリがやってきた。

 モナはニワトリめがけて、紙箱の中身を投げた。ニワトリは嬉々として食いつく。

「どうせ泊めてくれるなら、あんな態度、しなきゃいいのに。って、みんな言ってるみたい。あの人、他の親切をするときも、そうなんだ」

 ポルはもぞもぞとメモ紙を取り出した。

 さっきから、ポルの膝の上にはどでんとアイテルが乗っかっている。町中で放し飼いになっているニワトリたちを狙いに来たのだと勘違いされて、町人に追い払われそうになっていたから呼び戻したのだ。

 おかげで膝の上で字が書きにくくて仕方がない。当のアイテルは、きょろきょろしながらご機嫌顔である。

「だから、モナさんたちは隣のおうちに宿を借りてたんですネ」

 ポルが何か言う前に、シェンが聞き返した。モナは苦笑いして、

「そう。だからあの家、大体いつでも、空いてる。人に突然、泊まるとこを紹介するなら、あそこ。でもあの家、なんか……こう、暗い感じ、ってほどじゃないけど……なんていうか――」

『気が滅入る?』

 ポルはなんとか答える。モナが読めるように、フーリンデ島の言葉を記憶から引っ張り出してみた。

 それを見たモナは目を丸くして、

「すごい、ヌヴォツク文字、じゃん」

 ぱっ、と木の実くずを放る。三人の前には、もう十羽近くニワトリが群がっていた。

「ポル、ヌヴォツク語知ってるの?」

『少しね』

 ポルはヌヴォツク文字で答えた。モナは顔をしかめて、

「でもあたし、その文字、ほとんど使ったことない。アルバート語の方が、読めるよ」

『そうなの?』

 今度はアルバート語で答える。

「そー」

 モナはニワトリに視線を戻した。

「で、さっきなんて、言ったの?」

『気が滅入る』

「それだ!」

 モナはからから笑った。シェンがポルの手元をずいとのぞき込んで、ポルの書いた字を食い入るように見つめる。

「なんテ?」

 ポルは、エン国の言葉に訳してその下に書いた。

「阴郁……」

 シェンはつぶやいて、ポルのメモ紙を取り上げると、モナの前に突きつけた。

「アルバート語のところ、読んでくださイ」

 モナは目をぱちくりして、ゆっくり「気、が、滅、入、る」と読んだ。シェンは大きく頷く。

「気が滅入る。知っていまス」

「シェンは、アルバート語の、練習してるの?」

「読む練習でス」

「そうなんだ」

 モナはまた木の実くずを放った。ニワトリは、今や道を完全に塞ぐほどの群れになっている。コァッ、コココ、ギャアギャア……と至る所で叫んでやかましい。

 道行く町人は、器用に足でしっしとニワトリを避けながら、慣れた様子で通っていく。

 少し声を張り上げて、モナは続けた。

「この国、何にでも、文字使うから、読めないと、不便なんだよね」

「何にでも文字を使わない国なんてないでしょウ」

 シェンが素っ頓狂な顔で返す。

 モナはあっけらかんと、

「そう? あたしの故郷では、言葉はみんな、話す言葉だよ」

「ヘエェ」

「村長とか、長老は、文字読んで、書けなきゃ。だけど、それ以外の人は、別に困らない」

 シェンはその話を興味津々で聞いていた。

 モナはひょい、とシェンの手からメモ紙を取ると、エン国語で書かれたフレーズを指さした。

「シェンのとこの、文字は、何文字?」

「これは夏京文字でス」

「ふへえ、難しそ」

 モナはまたからからと笑うと、メモ紙をポルに返した。ポルは手持ち無沙汰に左手でアイテルの羽をなでながら、膝の上でなんとか紙を受け取り、文字を綴る。

 モナに見せてやったら、彼女は楽しそうに、

「ポル、字汚い。読めないね」

 ポルはしかたなく、アイテルから手を離して書き直す。アイテルがもっとなでてくれ、とばかりにポルの手元を覗いた。

『ヌヴォツク語、しゃべれる?』

「うーん……もうほとんど、覚えてないなあ。――あ、」

 モナが突然声をあげて、ずっと右手にある曲がり角を指さす。

 ちょうど、いつものよれよれのシャツと半ズボンを着たルズアが角を曲がってきた。風呂上がりみたいな格好に、しっかり剣だけは下げているのでやたら滑稽だ。

 モナは露骨にクスクス笑った。それを聞きつけたのか、ルズアがぎろりとこちらを睨む。

 目くじらを立てて近づいてくるルズアは、ニワトリの群れに行く手を阻まれた。

 ポルはニワトリにがあがあ威嚇されるルズアを面白半分で眺める。

 が、ふと彼の顔や腕や足に、尋常でない数の細かいアザや生傷があるのに気がついた。ちょっと血が垂れているところもある。

『どこかで転んだか落ちたかしたんだわ』

 シェンにそう言うと、ポルはアイテルを肩に乗せて立ち上がる。

 町人たちの真似をして、足元のニワトリを追い払いながらルズアに近づいた。

「どうなってんだよ、これ」

 ルズアはニワトリの群れを蹴飛ばす仕草をする。妙に疲れたような声だ。

『ニワトリにエサあげてるの』

 ポルはルズアを上から下まで眺め回しながら言った。ルズアは顔をしかめて、

「道塞ぎやがって。場所を考えやがれ」

『どこでやったってこうなるのよ。モナがこういうもんだって言ってたわ』

「知るか」

 ルズアは吐き捨てた。ポルはむっとして、

『ねえあなた、どっかで転んだの?』

「うるせえ!」

 図星とばかりにルズアが食ってかかる。

『じゃあ落ちたの?』

「黙れ」

 これでもかと睨んでくるルズアの腕を、ポルは無理やり引っ張った。

『スティンに見せてきなさいよね』

 ニワトリをつま先で追いやって道を作る。モナがまだエサを撒いているせいで、まだニワトリの群れが成長していた。

「何見せるってんだ、あの野郎に」

 ルズアはポルの手を振りほどこうとする。前より力が強くなったな、とポルは思った。

『その傷よ』

「んなもん傷のうちに入るかってんだ、いちいち騒ぎやがって」

『一つや二つなら騒ぎやしないわよ。あなた、全身傷だらけなの気がついてる?』

「こんなくらいを毎回グズグズ気にするから鈍臭えんだろ、バーカ」

 ポルは思わずパッと手を離して、ルズアの顔めがけて勢いよく平手を振り抜いた。ルズアは首だけでそれを避け、ポルの手はブンッ! と空を切る。

『最っ低』

 ポルも負けじと吐き捨ててやった。もう一度ルズアのシャツを引っ張って、宿の方へ連行する。

 長い階段をずっと下り、角を曲がって細い路地を出る。荒ぶる小川にかかった橋を渡り、再び細い路地に入るとすぐにあのオバサンの家だ。

 ポルが玄関扉を開けようとすると、カギがかかっていた。オバサンは出かけているようだ。

 いや、スティンが中にいるかもしれない。ドンドン! と思い切りノックするが、返事がない。もし二階にこもっているとしたら、聞こえていないだけなのか。

 ポルは、傷を避けてルズアの脛を軽く蹴った。

『呼んでよ』

「はあ?」

『スティンが二階にいるかもしれないから』

「はあん、呼びゃあいいんだろ」

 ルズアは一歩引くと、一階の屋根の上に向かって、

「おい、骨なしタマなしのチキン野郎!」

 ルズアの罵声が、周囲の家に反響して、空に消えていった。

 返事はない。

『……ねえあなた、スティンにいつもそんなこと言ってるの?』

 ポルは眉をひそめた。

「だったらなんだ」

 ルズアは平然としている。ポルはむかっ腹が立って、今度はルズアに肘鉄砲を食らわせた。

 その時、

「ルズア殿⁉︎」

 橋の方からスティンの声。

 見ると、きっちりしたシャツをところどころ土で汚したスティンが、両手に草をいっぱい持って、焦り顔で立っていた。小走りでこちらにやってくる。

 ルズアはすん、と鼻を鳴らした。

「あいつ、何持ってんだ」

『薬草でも取ってきたんじゃないかしら……』

 ポルが目をすがめて答える。スティンはすぐに二人の元へたどり着いた。

「ルズア殿、どうしたんだこの怪我は……」

 いつもの引け腰がどこへやら、持っていた草を片手に抱えると、一つ一つひどい擦り傷やクモの巣状に広がったあざをまじまじと見る。

「落ちた」

 ルズアはあっさりと答えた。スティンは苦笑いすると、

「ポル嬢、水筒と布を貸してくれ。せっかくだし、今取れた薬草を試したいんだ……」

 ポルはうんうん頷いて、カバンの中をまさぐる。水筒、よれよれのタオル、ついでに燕宮がお土産としてくれた陶器の小鉢と、大きめのコイン。一つずつスティンとルズアの手に押し付ける。

 これだけあれば、多少は薬草を潰して使えるはずだ。

「ありがとう、ポル嬢。あとはなんとかしておく」

 スティンは玄関前の階段に腰を下ろしながら言った。

 ルズアもさすがに、怪我に関しては医者が出てこれば何も言えないらしい。こちらを忌々しそうに睨んでいるが、何も言ってこない。

 どうせ、ここでポルが手当てを観察しているのは嫌なのだろう。スティンが取ってきた薬草には興味があったが、ポルは手を振ってその場を後にした。



 肩に乗っかったままのアイテルの顎を時々なでながら、来た道を引き返す。橋を渡って、細い路地をぐにゃぐにゃ歩き、階段を上っていると、行く手に茶色い羽毛のかたまりが見えた。

 ぴょんぴょんと階段を飛ばしながら近づいていく。すると、ニワトリたちの叫び声にまじって、小さく歌声が聞こえてきた。

 半音の多い、不思議な音階が、波のようにテンポよく上ったり下りたりする。なんとなく、感情の起伏が穏やかになっていくような錯覚を覚えるメロディだ。

 ニワトリの群れの端にたどり着くと、歌の出どころはすぐにわかった。モナが餌を撒きながら、機嫌よく歌っている。

 モナはポルの姿を見つけると、歌を切って手招きした。

「ポル、聞いてた?」

 ポルはニワトリを退かしながら、シェンとモナのところにたどりつく。シェンのとなりにそっと座ると、アイテルがバランスを崩してバタバタ羽ばたいた。

 カバンからメモ紙と鉛筆を出して、アルバート語で書いた。

『ちょっとだけ』

「なーんだ」

 モナはちょっと残念そうに言った。

「どういう歌なんですカ?」

 シェンが足をぷらぷらしながら尋ねる。

「あのね、小さい頃いた村で、みんな歌ってた。普通の、民謡だよ。ヌヴォツク語は、これくらいしか、もう覚えてないなあ」

 モナは紙箱の中身を、全部一気にぶちまけた。ざわっ、とニワトリたちが沸き上がる。

「村で飼ってる水牛が、ある時、隣村のヤツに、盗まれました。村人が、悲しんでると、その水牛が、隣村の女を連れて、逃げ帰って、きました。その女は、息子を生み、彼は立派な戦士になりました。そのあと、隣村が攻めてきて、たくさんの村人が、死にました。でも、さっきの戦士は、隣村を返り討ちに、しました。隣村を焼いて、水牛をみんな、奪って帰ってきたのです。残った村人は、喜んだけど、水牛が増えすぎて、食料を水牛に食われ、みんな飢え死にしました。おわり」

『バッドエンドなのね』

 ポルは渋い顔で言った。

 モナは空き箱を指でくるくる回して、

「そー。村人、みんな陽気、だったのに、なぜかこういうのは、暗い話が多いね」

「我の故郷にも、同じような話がありましたヨ」

 シェンは身を乗りだした。モナも前のめりになる。

「え、どんなの?」

「北の国境の近くに、老人が住んでいましタ。ある日、老人の馬が国境を越えて、北狄ベェイディの国に逃げてしまいましタ。老人が嘆いていると、ある日その馬が駿馬を連れて帰ってきましタ。老人は喜びましタ。でもまたある日、老人の息子が駿馬に乗っていたら、落ちて足を折りましタ。老人が嘆いていると、家の近くで戦争が起こりましタ。近くの若者はみんな戦争に行かされましたが、老人の息子は、足を折っていたので戦争へいかずにすみましタ」

「おわり?」

「おわりでス」

 シェンとモナは同時に座り直した。モナはシェンを振り返って、

「シェンのは、ハッピーエンドだ。似てるけど、反対だね」

 からからと笑った。

 ポルはうんうん頷いて、

『どっちも面白いわ……あとでもう一回聞かせて』

「いいよお。こういうの、好きなんだ」

 モナはポルの顔を見て、楽しそうににんまりと笑った。ポルが激しくうなずくと、モナはひょいっと立ち上がる。

「そろそろ、どっか行こうか。ここにいるの、飽きちゃった」

 ポルとシェンも、つられて一緒に立ち上がった。



 **********



 かっこう、かっこう……と、森のどこかでカッコウが鳴いている。

 ポルたちは昼間から散策を続け、今は町の端あたりまで来ていた。町の端は頑丈な木の衝立で囲われているらしい。歩いていると、曲がり角の先がたまに衝立で行き止まりになっているのを目にした。

 その向こうには、森の梢がつくる黒に近い緑の波が、さわさわと風に揺れ動いている。

 昼食は、道ばたで出くわした若い娘に分けてもらった。娘がぶら下げていたカゴに山盛りのナッツや木の実が入っていたので、それを三百ベリンで少し買い取って、三人で分けながら食べ歩いた。


 空を眺めると、途方もない晴天の隅っこから、昨日と同じように夕日のグラデーションが始まりつつあった。

 たわいもない故郷の話をしたり、町の迷路を縦横無尽に走り回ったりして、ポルたちは飽きるほどベスペンツァを楽しんだ。

 アイテルは途中まで一緒に来たが、森が見えると飛んで行ってしまった。食べ物を探しに行ったのだろう。


 ポオーン……ホン、ポーン……

 ふいに、町の外の森から、かすかな角笛の音が三人の耳に届いた。やさしくてよく響く低い音は、無限の夕空にあとかたもなく溶けてゆく。

「木こりたちが帰ってくるんだ」

 モナが言った。

「木こりたち?」

 シェンが、ぴょん、ぴょん、と階段を降りながら聞き返す。モナはうなずいた。

「そー。この町の男、昼間はみんなで、木こりにいくんだ。今の、木こりの笛。〝みんな帰るぞ〟の、合図だ」

 モナはシェンの真似をして、ぴょん、ぴょん、と階段を降る。

 そして突然、階段の下の方めがけて、

「おーい、パフラヴ! パフラヴでしょ!」

 叫んで大きく手を振る。

 ポルとシェンがそちらを見ると、長髪で口ひげぼうぼうの男が、ゴテゴテ荷物を積んだ小さなラバを連れて階段を上ってくるところだった。

「おぉおい、モナかあ」

 男は甲高いかすれ声で返すと、手を振った。

「モナだよー!」

 モナはそう言うと、たったか階段を駆け下りる。ポルとシェンもその後に続く。

 男の前で、三人は緩やかに立ち止まった。

 男はシェンとポルを、交互にまじまじと見た。

「珍しい、友達かぁえ」

「まあね」

 モナはさらりと答える。

「ねえ、今日はなんか、持ってないの? 面白いもの」

「あるぞ。新聞」

 男はラバにくくりつけたバッグを開けてまさぐると、中から折れ曲がった新聞らしき紙っぺらを何枚も引っ張り出した。

「それだけえ?」

 モナは不満そうだ。

 男は意にも介さず、

「最近ハマっとるんだ、色んなところの新聞を集めるの。ほれ」

「ふうん……」

 モナは押しつけられた新聞を、絶妙に興味なさげな顔で受け取った。

 男は得意げに、

「色んなところのがあるぞ。イーステルン、テリーベンスト、王都、ボロキャスティール、あとは……ビリエスティと、ペドレラーヴと、」

「そんな集めて、どうすんの?」

 モナは呆れ顔だ。男は甲高い声で、

「どうするもこうするも! 読むに決まっとろぉ。面白いぞ、同じことが場所によっちゃ全然違うふうに書かれてる」

「ふうん」

 モナはぺらぺらと一通り眺めて、ポルたちに差し出した。

「いる?」

 ポルはすかさず、イーステルンの新聞を取った。見たことがある、これはイーステルンの商店街で売られている新聞だ。

 対するシェンは、少し迷ってビリエスティの新聞を取った。ビリエスティといえば、少し南方の港町だ。彼女は食い入るように記事を読みはじめる。

 ポルは他の新聞もざっと眺めると、結局全部取った。

「全部いるってさ」

 モナが男に肩をすくめてみせる。男は嬉しそうに声を上ずらせた。

「いいぞ、全部やろう。どれも何枚か同じのを買ってある」

「へんなの」

 モナは退屈そうに伸びをすると、

「今ここに、着いたばっかり? いつ出るの?」

「しばらくは出んよ。昨晩道中で大雨に降られて、ちと疲れた」

「わかった。バルバロに、言っとくよ。たぶんまた、一緒に、飲みたがるから」

 そう言うと、モナは手を振って男とすれ違う。

 ポルとシェンも新聞を片手に、モナの後を追って階段を降りていった。



「あの人は何者なんでス?」

 シェンは、来た道を振り返り振り返り言った。

「ただの、旅人だよ。いろんなとこの、珍しいものを、集めるのが好きなの。ああやって、いつも変なもの、もってるんだ」

 モナはひらりと通りがかりの民家の屋根に上った。

 シェンは懐に、ポルはカバンに新聞をしまって後を追う。民家の屋根の上には、木板でこしらえた道が続いていた。

 ポルはカバンから再びイーステルンの新聞を出して、歩きながら読んだ。

 一面にでかでかと、〝青い歌姫、隣国の王を迎えての公演が決まる〟と書いてある。日付は今年の二月末。まだ王都に着く前の話だ。

 メルに手紙で聞いていた、ツェベーニンである公演のことだろう。こんな早くから知れ渡っているのだから、よっぽど世の中には重大ニュースらしい。

 しかしよく読んでみれば、隣国・シラデリフィア共和国の大統領が来るはずの話が〝国王〟が来ることになっているし、場所もツェベーニンではなく王都になっているし、記事の最後には全く関係ない〝赤い歌姫〟殺人事件の犯人のいいかげんな推測が、好き勝手書かれている。

 この調子ならなおさら早く犯人を捜し当てないとまずそうだ、とポルは心を決め直した。

「じゃ、あたし、バルバロたち探してくるから、この辺で。二人とも、帰れる?」

 モナの声で、ポルははっとあたりを見回す。いつの間にか、昼間ニワトリに餌をやっていたあたりまで戻ってきていた。あわてて新聞をカバンにしまう。

「对、もちろんでス。ではまタ!」

 たった今までモナとおしゃべりしていたシェンは、満面の笑顔で手を振った。

 モナはたったったっと階段を上って、ポルたちとは逆の方へ去って行く。

「じゃあね! 明日も会えたら、いいね!」

「会いましょウ! 再見ツァイジエン!」

 シェンが立ち止まって叫び返した。

 ポルもめいっぱいモナに手を振ると、モナは角を曲がって姿が見えなくなるまで、こちらに手をふり返してくれた。


「……行きましょうカ」

 モナの姿が完全に見えなくなると、シェンがぽつりとつぶやいた。うん、とポルはうなずく。

 オレンジの光が、青灰色の空を染め変えてゆく。そのさまを真正面に望みながら、ポルはまた羽でも生えたようなすがすがしい気分で、シェンと一緒に階段を下る。

 視界の端から、またぽつりぽつりと紫色の雲がわいてきている。今日もきっと、昨晩みたいな雨になるのかもしれない。

 雨の前のひんやりした湿くさい風がたまらなく愛おしくなって、ポルは大きく深呼吸すると、隣を歩くシェンに意味もなく微笑みかけた。

 シェンは鼻をひくひくさせて同じ臭いを嗅ぎ取ると、同じように気持ちよさそうな顔で微笑み返した。

 そうして、薄暗くなっていく迷路を、二人は迷わずに歩いて帰った。



 その夜――シェンはいなくなった。

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