5-6 分岐点

 **********



 天頂近くまで昇った太陽の下を、ポルは早歩きでずんずん進んでいた。

 遠くからカッコウの声が聞こえる。

 土と木の道を、どこからか湧き出した水が小さな流れになって、ところどころを横切っている。

 そこへ水を飲みに集まるニワトリや野良犬を蹴散らすように、ポルは辺りをきょろきょろしながら歩き回った。

 探しているのは、広くて平らで人目につかない土むき出しの場所。どこにでもありそうだが、ベスペンツァの地形ではなかなか見つからない。

 あったところで、炊事場のように何かの公共施設に使われているところがほとんどだ。広い町ではないから、人目につかないという条件が案外難しかった。


 町中に張り巡らされた坂道をどんどん下る。

 ほぼ真上に上り詰めた太陽が照りつけて、ほんのり暑い。もう正午を過ぎようとしている。

 シェンはどっちに行ったのだろう、とポルは考えを巡らせた。

 エン国へ渡ろうったって、ここから一番近い港に行こうと思うと、ドレッドフェールは必ず通らなければならないはずだ。

 モナによると、ベスペンツァとドレッドフェールの間には、深い谷とその谷底に流れる川がある。平時ですら、ドレッドフェールへ行くにはその川を谷沿いにずいぶん下らなければならない。それで昨日一昨日の嵐だから、川を渡るのも容易じゃないはずだ。

 ぐるぐると考えながら、たまに切れた息を整えて、ポルは足を動かし続けた。

 シェンがどんなに早く宿を出たところで、木こりたちが森へ行く時間まで町の外へは出られないはずだ。それが、朝七時か八時頃だとする。それからまだ、四時間そこらしか経っていないことを考えれば……

 まだ間に合う。追いつける。

 いくら身軽なシェンでも、この足場の悪い土地でいつもより速く進めるとは思わない。

 そのうえ、シェンが出て行った時にはまだ雨が降り続いていた。余計に先へは進みにくいことだろう。

 だったら、この推測はあながち間違っていないはず。

 まだ間に合う。追いつける。まだ大丈夫……

 ポルは延々自分に言い聞かせた。


 ふと気がつくと、目の前には町の端を囲む壁が迫っていた。

 ポルは、壁の突き当たりまで来て足を止める。身長の倍くらいはある、高い壁。

 はあ、と息をついて、壁沿いに伸びる道の先を右、左、ゆっくり見極める。

 数秒迷って、ポルは左へ曲がった。

 町中のどことも同じ、細い木と土の道。雨の多さで傷み、ぐらついている木の壁が右手に。所狭しとにょきにょき伸びる家並みが左手に。さすがに町の端までくると、犬もニワトリも馬も、そして人も、全然見かけない。

 この辺りに手頃な空き地があれば最高なのだが――と思いながら辺りを見回していたら、突然、パッと左手の視界が開けた。

 茶色い土むき出しの、平らな場所。町のどこよりも広い青空が、いっぺんに見渡せた。

 空き地の端は、半周分が町の壁で区切られている。ポルの位置から見渡せる壁の真ん中あたりには、がっちり閉められた木の門があった。見張りはいない。

 好都合なことに、空き地にはところどころ、巨大な丸太が積み上げられている。大きな束、小さな束、いろんな大きさの丸太の束が、それぞれ麻布をかけられ、バラバラの方向を向いてどでんと放置してある。

 きっと、木こりたちが切った木材の集積所だろう。

 ポルは一旦空き地中を見回すと、駆け出した。

 空き地の入り口から、一番遠い丸太の山に近づく。丸太の束の陰に回ると、一番下の丸太に腰掛けて少し息を整えた。

 左右は他の丸太の山に囲まれ、正面は町の壁。ここなら、わざわざ丸太の陰を覗き込まれない限り、誰にも見えない。

 ポルは確信して、手近の丸太の地面すれすれについていた小枝を折る。そして、ガリガリガリ……と足元に魔法陣を書き始めた。


 時々ちらちら誰も近づいてきていないことを確認しながら、数分、十数分。

 なんとか魔法陣を描きあげた。

 ポルは焦りで額にかいた冷や汗をぬぐうと、持っていた木の枝を魔法陣の真ん中に放って立ち上がる。

 そして、丸太の山にかかっている布を、ぺろりとめくってのぞきこむ。

 飛び出た小さな枝や葉を見つけるたびに、体を伸ばしてそれを折り取っていく。

 となりの山まで探して、ひとまず両手いっぱいになるくらいの小さな小枝と葉が集まった。

 ポルは魔法陣の前に戻ると、それをパラパラと魔法陣の真ん中に落として、見下ろした。

 ――大抵、紙は古来から植物をぐずぐずにして、繊維を取り出して作るものだ。

 麻、パピルス草、竹、藁、木綿にコウゾ、なんでもいい。水につけて、発酵させて、叩いて伸ばして、ぐずぐずにする。そして――

 ポルはそっと小枝と葉に片足を乗せると、目を閉じた。その瞬間、足元から金光が立ち上る。

 かさかさかさ、という音とともに、すぐ金光は霧消した。ポルは目を開ける。

 ポルの足の下に、アイボリー色をした大判の紙ができていた。

 拾い上げると、ごわごわしているわりに頼りない柔らかさ。いつも使っている、安くて質の悪い紙だ。

 ポルは満足してそれをくるくると巻き、屈んで残っている魔法陣を指でところどころ整える。

 次に紙の端を少しだけ、細長くちぎった。指についた土を払い、小指を噛んで傷つける。

 ぷつ、ぷつ、と小指の先に、滲み出た血が紅い玉を作りだした。

 ポルはその血をちぎった紙で拭うと、血痕のついた紙の切れ端を魔法陣の上に落として、もう一度魔法陣を発動する。

 魔術の金光が消えたあとには、削れてちびた鉛筆が一本。ころん、とポルの足元に転がっていた。

 拾い上げて、巻いた紙にそっと芯を当てる。ポルの静脈血の色そのままの、赤黒い線がかけた。

 ここの町人たちは、小金さえあれば大概何の交換にも応じてくれる。逆にいえば、一文無しのポルたちは、町人から何も手に入れることができない。ポルが町人たちと自由に会話できるだけの紙とインクは、とてもそんな町人たちに譲ってくれと言えるような量ではないから、もはや〝創る〟しかないわけだ。

 これでやっと、〝魔術〟を使いながらシェンを本気で探すための生命線ができあがった。

 ポルはほくそ笑む。

 ずいぶん、魔術の扱いにも慣れたものだ。本来なら、紙をつくるにも鉛筆をつくるにも、材料なんか足元の土でかまわない。それでもわざわざこんなに回りくどい材料準備の〝儀式〟をするのは、全てイメージのため――作るもののイメージを、よりはっきりと思い描くためだ。

 そうすれば、試行錯誤しなくても一発で作りたいものが手に入る。ここしばらくの研究成果だ。

 ポルは鉛筆と紙の筒を握って、魔法陣を足でがりがり消すと、丸太の陰を飛び出した。



 **********



 ピ、ピィ、ピィ……ゴァ、ゴァ……と、四方八方から無数の鳥の声が、木々にこだまして耳に届く。

 頭上には、強い陽を遮って淡く光る緑の天井。足もとのはるか下からは、隙間もないくらい細いのから太いのから無数に木が突き立っている。見わたす限り網の目のように、黒い枝が張り巡らされて緑の天井を支えていた。

 シェンは、そんな黒い枝のうち特に太い一本を選んで、するりと腰を下ろした。枝の根元へ移動して、木の幹に背を預ける。

 枝の上で器用にあぐらをかくと、肩にかけていたポルのカバンを下ろして開けた。

 中に手を入れる。並のカバン何十個分の空間が広がっていて、肩まですっぽり入れてもまだ底に届かない。

 色んなものが手に触れた。ひやりと冷たい小さな薬瓶。ぺらぺらにすり切れてきた毛布。つややかな肌触りをした、ポルのワンピース。

 魔術書や財布のように大切なものは、カバンの奥の方に片付けられているらしい。何がどのあたりに入っているか見当をつけるだけでも、腰を据えて探らないと到底無理そうだ。

 シェンはカバンから手を引っこ抜いて、ふう、短いため息をついた。

 そわそわしながら上着の懐を探ると、四つ折りにした小さな紙片を取り出す。パフラヴから買った〝週刊ビリエスティ新報〟だ。素早く広げて、さっと目を通した。

〝神帝戦争 エン国の都・夏京陥落〟

 紙面の小見出しを数回読み返す。

 そして新聞をそっと四つ折りにたたみ直すと、大きく息を吸って、あてどもなく宙を見上げた。

 緑の天井に木漏れ日が点々と光ってうっとうしい。鼻から口から入ってくる空気は、全部濃い水と土と葉っぱの青臭くて湿っぽいにおいばかりで、気分が悪くなる。

 一秒でも早くこの森から抜け出したい。

 はらわたはその気持ちで煮えくり返っていて、身体が思うように言うことをきかない錯覚すらした。勝手に手足が動き出してしまう。喉元まで胃酸がせり上がってきて、咽せそうになるたび、鼻の奥の痛みとともにじんわりと目に涙が滲んだ。

 五臓六腑を内側からじりじり焼くような衝動が、シェンを先へと駆り立てる。

 しかし、もうすでに足が棒になりそうだった。今日はベスペンツァの木こりたちが、町の南側で木を切りに来ている。町の南側に出てきたシェンは、万一木こりたちに見つからないよう、密集した枝を伝って、木の上を進んできた。

 木の間隔が狭いおかげで、枝を渡るのは簡単だ。それでも、地上を歩くよりはるかに疲れる。無理をして足を滑らせたらシャレにならない。

 進めなくなるほど疲れる前に休んでおかなければ、回復に時間がかかって余計に進むのが遅くなる。

 と、わかってはいたのに――今回ばかりは休むのを忘れてここまで急いできてしまった。

 シェンはカバンを抱えて、腕に顔を埋めた。

 後悔していた。

 ちゃんと休み休み進んでくるんだった。ちんたらしていると追いつかれる。ポルが本気で追いかけてきたら、きっと魔術ですぐに見つかってしまう。

 そのことを考えるたび、シェンの頭の中は真っ白になった。強く頭を殴られて記憶が吹っ飛ぶように、一瞬で思考にもやがかかって何も考えられなくなる。

 别着急あせるな别着急あせるな……耳の奥で自分の声がする。進めばいいだけだ、途中で休んでもなんでもいいから、一センチでも先に進めばいいだけだ。

 シェンは跳ね起きるように顔を上げた。

 腰を下ろしているだけでむずむずする。両足は疲れて少しだるいが、またすぐ休憩すれば大丈夫だろう。

 ゆっくりと立ち上がる。


「もし、そこのレディ」

 不意に声がした。

 野太くて堅い、男の声だ。シェンは身構えるのも忘れてあたりを見回す。

「こちらです、下、下」

 シェンは下を見た。足の下に広がる枝と葉の間に目を凝らす。すると、シェンのほぼ真下に人影が見えた。

 骨張って四角い、石像みたいに無愛想な顔。少し伸びた赤茶色の髪はぼさぼさだ。やたら派手な服を着ているなと思ってよく見たら、彼は銀色に光る甲冑を着ていた。

 男は射るように真剣なまなざしで、シェンを見上げている。シェンは露骨に眉をひそめ、にらみ返したまま黙っていた。

「どうしてもお尋ねしたいことがあるのですが、かまいませんか」

 シェンは首を横に振ってやろうかと思った。が、

「私はグラント・ゼノセプトと申します。ポル・アトレッタ嬢という方のお連れでいらっしゃいませんか」

 すかさず男は言葉を続けた。

 シェンはぎり、と男を睨んで、

「なぜそれヲ?」

 自分の声が小刻みに震えている。

 しまった、と思った。知らないふりをすれば、これ以上足止めを食らわずにすんだのに。

 でかしたとばかり目を輝かせる男に、意味もなく腹が立った。

「やはりそうでしたか。私は彼女が持っている〝本〟に少し用があって、今彼女にお会いすべく探しているところなのです」

 ずいぶんあけっぴろげにものを言う男だ。素性を隠したりする気はさらさらないようである。

 わざわざ人が聞きつけて探しに来るような、ポルの本。といえば、シェンには〝魔術書〟しか思い浮かばない。ポルもいつ〝魔女の一族〟が〝魔術書〟を取り返しに来るかわからない、と言っていた。

 彼の探している本が〝魔術書〟なのだとすれば、彼は〝魔女の一族〟だということになる。

 ポルが血眼になって探していた人に、あっさり出会えてしまった。


 シェンは身震いした。枝に手をつくと、四つん這いになって身をかがめる。

「どんな本をお探しデ?」

「〝ベルンスラートの魔術書〟。黒い表紙に金文字の分厚い本です。まあ、ちょっとしたオカルト本みたいなものですが」

 グラントはあっけらかんと答える。

 ドンピシャだ。

 シェンは目を丸くした。こんなにべらべら包み隠さず打ち明けられると、何か企まれているような気さえしてくる。

「あまり見た記憶がないですネ。なぜそんなものをお探しニ?」

 いたって軽い声で問いかける。

「少し野暮用で。その本を欲しがっているお方がいて、代わりに探しているのです」

「なるほド」

 シェンは頷いてみせた。話しぶりからするに、〝魔術書〟を欲しがっているのは、きっとグラントよりお偉い人間なのだろう。

〝魔女の一族〟の長か何かだろうか。そこまでシェンはいい加減に察した。

「ですから、彼女をぜひ訪ねたいのです。どちらにいらっしゃるかご存じですか?」

「そうですネ……」

 考えるふりをして言いよどむ。

 ポルを探さなくても、〝魔術書〟はシェンの手元にある。今こいつに、高い値でもつけて売り払ってやろうか。そうすれば、今後の――一人旅の足しになる。

 そのうえ、そうすれば〝魔女の一族〟がポルのところへ〝魔術書〟を取り返しにやってくることもなくなる。魔術使いの血族から〝魔術書〟を守らなくていいなら、ポルの旅路はより安全になることだろう……〝魔女の一族〟への手がかりは少なくなるかもしれないが。

 ただまあ、あのポルが〝魔術書〟の中身を全部覚えきっていないはずはない。ならば、旅路をちょっとでも安全にすることを優先すべきなのだ。


 心の中で相手のいない小言を垂れるように、シェンは思った。

 何より、もう今後会いに戻ることのない人たちの事情を心配している場合ではない。ポルたちが困ったから何なのだ。

 どうせ、海を渡ってしまえば全部関係のなくなること。

 はるか下の方で、グラントが少し首をかしげるのが見えた。

「ご存じないのでしょうか? それならそれで構わないのですが……」

いいえ、」

 シェンが彼の言葉を遮る。

「なにぶん、ポルさんのいる宿の場所が説明しにくくてネ。すぐそこの町ですが、どこもかしこも道が入り組んでいるのでス」

 本の買値をふっかけて――と思った頃には、意に反した文言がべらべらと口をついていた。

 グラントの顔に微笑が浮かぶ。

「ああ、知っていますよ。ベスペンツァはきれいな町だが、歩きにくさでは国一番だ」

「我もそう思いまス。ポルさんの居場所には見当がつきますが、どうお伝えしようかト」

「だいたいの場所でもかまいません。あとは町人に聞いて何とかしますので」

「そうですカ」

 生返事をしながら、シェンは混乱した頭の中を何とかしようと躍起になっていた。

 この状況からどうにかして、こいつの金を巻き上げたい。なあに、本気で魔術書が欲しいのなら、多少こっちの話が支離滅裂でもモノをちらつかせれば簡単に取引できるだろう。

 ラッキーなことに、取引するくらいなら力で奪い取った方が……と考えそうな相手でもない。満足いくまで金を出させたら、あとは魔術書を投げてよこすだけだ。チョロいチョロい。カモも同然。

 頭の隅でたしかにそう思っているはずなのに――

 どこからかわらわらと、どうやってここで〝魔術書〟を守ってこいつをポルのところへ送り込んでやろうか、無数の台詞が浮かんでくる。

 こいつがポルにとっては喉から手が出るほど出会いたい相手だとは言え、慎重に対峙すべき相手なのも確かだ。一片たりとも気をゆるしてはならない。するとポルの居所を正直に教えるよりかは、多少はぐらかしてやった方がいいだろうか。そしたらこいつが町の人々に聞いてポルを探すぶん、ポル本人には町人たちからこいつの情報だけが先に行き着く可能性が高くなる。

 いやまてよ、正直に言っても同じだ。どうせあんな入り組んだ町じゃ、場所を知っていたって一人ではたどり着けやしない。なら、どう居場所を教えたって、ポルがこいつにどう対応するか考える暇くらい稼げるだろう。

 しかし、問題はこいつとポルが出会ってからだ。どうやっても魔術書を出せないポルに、男はいったいどう反応するか。その反応の如何によって、今回のチャンスは今ココで〝なかったこと〟にして、ポルの身の安全を図った方がいいかもしれない。

 この男を見た感じで、考え得る反応を予想する。大人しく引き下がるか? 手がかりだけでも聞き出そうとするだろうか。それとも脅す? 金や暴力をもって、本のありかを吐かせようとは?

 いや、それはありえない。ポルの身をどうこうするのは無理だ。なぜなら、全身鎧の重装備でルズアを完封するのは不可能にちがいないのだから――この男が、あの王立図書館の女王みたいな人間でもなければ。

 そこまで考えて、はっとした。

 何がはぐらかしてやった方が……だ。こいつが誰のところにたどり着いたって、自分になんの関係があるんだ?

 ほとんどやけくそで、シェンは足下に叫び返した。

「町の真ん中あたりの民家ですヨ。もじゃもじゃで人相のお悪いおばさんが住んでらっしゃるところでス。町の人たちには評判の悪いおばさんですから、町の真ん中あたりに行って聞いて回ればすぐ分かりまス」

「そうですか!」

 グラントは少し上ずった声で返した。そして胸に甲冑で覆われた手を当てると、

「そこまで教えていただければ十分です。感謝いたします」

 深々とお辞儀した。

 嬉しそうなのが、絶妙に癪に障る。

 くるりと踵を返して町の方へ去って行くグラントの姿を目で追いながら、シェンはこっそり歯噛みした――あのまま町に入ったきり、迷って一生出てこられなくなってしまえ。

 呪っていたのもつかの間、グラントの背中は、あっという間に木の葉の緑にかすんで消えた。


 シェンはしばらくグラントの消えたあとを見つめる。

 が、ほどなくしてぶるぶる頭を振ると、グラントとは反対方向に足を向けた。

 そういえば、結局グラントには本当のことを教えたのだから、情報料だけでも取っておけばよかった。

 シェンはなおいっそう歯噛みしながら、ぴょん……ぴょん……と一枝ずつ慎重に、木の枝を渡り始めた。

 なにもかもうまくいかない。駆け引きも、逃亡も、なにもかも。

 文字を読めるようになったとたん、目に入ったのはあんな記事。盗み出したはいいものの、ポルの持ち物はカバンですら自分の手に余る。足は棒になるし、脳みそは言うことをきかない。おまけに、こんな時に限って〝魔女の一族〟の手がかりに出くわす。

 シェンは腹の中でくすぶる真っ黒いものを持て余しながら、足の向くままに進み続けた。

 もうみんな死んでしまえ。祖国で戦に苦悩しながら死んでいく民たちのかわりに。神国も、アルバート王国も、〝魔女の一族〟も、みんな死んでしまえばいい――



 **********



 町の人に道を聞きながら、ポルはオバサンの家まで戻ってきた。

 玄関前の石段に座って一息つく。同時に腹がぐるる、と鳴った。

 腹が減っては戦はできぬ。とは言うものの、保存食もなければ財布もないので、我慢するしかあるまい。

 ポルは傍に巻いた紙と鉛筆を置き、石段に手をついて体を傾げると、大きくため息をついた。

 朝から走り回ってさすがに疲れた。おまけに何も食べていない。今から魔術を使いながらシェンを追いかけるのはいいが、見つかるまで体力が持つのか心配だ。

 今夜もまた、いつものように大雨が降るのだろうか。

 それまでに、死に物狂いで追いかければ追いつくだろうか。

 それが無茶だとしても、ゆっくり探して雨に濡れれば体力が致命的に消耗するのはわかっている。どのみち、死に物狂いなのは変わらない。

 ポルは再び覚悟を決めて、顔を上げる。

 南中高度を過ぎた太陽と、パステルカラーに光る青空が眩しい。そこへ綿毛のように漂う一片の白い雲を、ポルはこれでもかと睨みつけた。

 その時、

「ポル嬢!」

 道の奥から、スティンの声がした。

 ポルは首を伸ばしてそちらを振り返る。川のある方から、少しにっこり顔のスティンがこちらに早足でやってくるところだった。

「ちょうどよかった。探しに行かずに済んだ」

 スティンはポルの前に来ると、ふう、と荒れた息を整える。両手に持った小さな麻布の包みを、嬉しそうにポルの方へ差し出した。

「美味しいものが手に入ったんだ」

 ポルは思わず身を乗り出す。麻布の包みをそっと受け取ると、膝の上で包みの端から丁寧にほどいた。

 果たして中には、いい香りのする大きな葉っぱで巻かれた、手のひら大の丸い塊が四つ入っていた。

 色とりどりの雑穀を混ぜて蒸したのに、砕いたナッツを混ぜて丸めたものらしい。どんな味なのかいまいち想像がつかないが、少しつやつやしていて、見れば見るほど腹が鳴る。

 ポルと少し間を開けて、スティンも石段に座った。ポルは丸い塊をひとつ取って、残りを包みごとスティンに渡すと、丸い塊を巻いている葉っぱに鼻を寄せた。

『この葉っぱ、食べてもいいの?』

「どうだろう。柏の木の仲間だろうが、食べないほうがいいんじゃないか」

 スティンは丸い塊を手にとって、ぺりぺりと葉っぱを剥き始める。ポルもそれに倣って葉っぱを剥くと、思い切りかぶりついた。

 ぼってりと粘り気のある雑穀の塊は、少し塩味がする。噛むと、ところどころにパリパリしたナッツの感触。クルミやアーモンドの香ばしい風味が、絶妙に雑穀の塩味と合う。

 夢中でもう一口かじると、突然口の中に甘酸っぱい味が広がった。見ると、大振りのさくらんぼがいくつか半分に切られ、瑞々しい黄色の断面を晒して雑穀の中に埋まっている。

 程よい水気の少なさが蒸した雑穀の食感とよく合い、塩気が甘さを引き立てて、例えでもなく頰が落ちそうになる。

 ポルはスティンの顔を見た。

 スティンもそれに気づいて、塊をそしゃくしながらこちらを見た。

『美味しい』

「うん。すごく美味い」

 言って、二人同時に手元へ目を戻す。


 じっくり味わう間もなく、あっという間に丸い塊はポルの腹に収まってしまった。

『思ったよりずっしり来るわね』

 ポルは腹をさすって言った。スティンもちょうど同時くらいに食べ終わると、

「そうだな。ルズア殿には足りないだろうが」

『そういえばルズアは?』

「後から戻ってくると思ってたんだが……来ないな」

 スティンは首を伸ばして、さっき自分が来た方向を遠目に見る。

 てちてちと小さな足音が聞こえてきたかと思うと、首輪をした茶色い犬が道の奥から走ってきて、二人の前を通り過ぎていった。

『……今更だけど、この食べ物、どうしたの?』

 ポルがおそるおそる尋ねる。

 スティンはため息混じりに、

「あ、ああ。ルズア殿が〝腹減った〟って」

『て?』

「この町じゃ盗みもやりにくい、医者ならお前がなんとかしろ、って」

『……意味がわからないんだけど』

「うん。ルズア殿が、〝鈍臭そうなガキでも見つけたら、俺がさりげなく道から突き落とす。そうすりゃ怪我の一つもするだろうから、お前は知らない奴のフリでそいつから手当て料を巻き上げてやれ〟と」

『詐欺ね』

 ポルはため息をついた。

『それで、本当にやったの?』

「まあ、それが」

 スティンは苦笑いした。

「彼は本当にやったよ。シェン嬢くらいの体格の男の子だった……ただ、その男の子がルズア殿の思っているほど鈍臭くなかったせいで、引っ掛けて道を転がり落とすどころか、その場で取っ組み合いになってな。できるだけ早く止めたつもりだったんだが、足場が悪いところで転がりまわったから、両方の怪我を診る羽目になった」

『なによそれ……』

 ポルは絶句する。

『それで、結局その子がこれをくれたの?』

「いいや、」

 スティンは小さく首を振ると、残った丸い塊を麻布で包み直した。

「その子に〝医者なのか〟って聞かれたから、そうだって答えたんだ。そしたら〝僕のばあちゃんが、最近急に足が痛くて外に出られなくなったから診てくれ〟と言われてな。家は近くだというから、ついて行ったんだ。ルズア殿は他人のふりをしている手はずだから、置いていったんだが……」

『それってご病気なの? お年だからってことじゃないの?』

「ああ、僕もそう思う。だから、ルズア殿やシェン嬢にもよくする痛み止めを教えておいた。病というよりは、怪我の治療に近い……どっちかというと病の方が専門外だから、僕はむしろやりやすかった」

『そうなの。それで、これをお礼に?』

「そういうことだ。そのお宅の奥様が、持っていけと。この町はみんな木こりと木細工師ばっかりで、ちゃんと誰かに診せるとなるとドレッドフェールに下るか、たまにくる薬師に頼るか、だそうで……随分ありがたがってくれた」

 最後の一言をスティンは恥ずかしげにつぶやくと、嬉しそうにはにかんで俯いた。

 ポルもつられて少し笑う。

『で、ルズアはまだ放ったらかし?』

 冗談めかして言う。スティンは激しく首を振った。

「まさか。帰りの道中に、ここへ戻ると言ってある。しばらくしたら来るだろうさ。何より、彼は腹が減っているはずだし」

『そうね……』

 ポルは微笑んだまま、耐えられずにため息を漏らした。

『スティン、さっきのペンとインクを貸して。私も準備ができたわ。書くものを作ったの』

 そう言うと、傍に置いてあった紙巻を取ってみせる。スティンはわずかに目を丸くして、

「おお、そうか。すまないが、さっきここに戻った時に書くものは上に置いてたんだ」

『そう。じゃあ部屋に戻りましょう、鉛筆よりもペンがいいの。やっと部屋で魔術が使えるのよ……』

 ポルは立ち上がって、さっさと背後にあったドアノブに手をかける。

 スティンも慌てて立ち上がると、麻布の包みを大事に抱えて、家に入るポルに続いた。



 ギキィ……

 扉が閉まって、スティンの白衣の裾がひらりとドアの隙間に消える。

 その時、

「おい!」

 家のそばで叫び声がした。

 さっきスティンが通ってきた道を、ルズアがわずかに足を引きずりながらゆっくり走ってくる。

「待てよ、てめえら――」

 ルズアは悪態をつきながら、ドアの隙間に滑り込もうと手を伸ばす。しかしルズアの目と鼻の先で、ドアはゴン! と閉まった。

「ちっ……くそったれ」

 悪態をつきながら石段の上で体勢を整える。

「使えねーやつら」

 そう言いつつ、ギィ、と玄関扉を開けて、二人の後を追いかけた。


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